100 そよぐ黄金の草原
エスティアが目を開くと、辺りは眩いほどの光に包まれていた。まるで、誰かに抱きしめられているかのような温かさと優しい雰囲気。
フワリと、降り立つようにサクリと黄金色に輝く草原へと両足をつける。エスティアは持っていた剣が無いことに気が付くと、訝し気に辺りを見渡す。ここはどこなのだろうか。
先ほどまでの殺伐とした空気など幻だったかのように穏やかすぎる空気はもはや別世界だろう。
「ここは……それに、シュティレは……」
戦っていた筈のドラゴンはどこを探そうと姿は無い。殺せたのだろうか。仕方なく姿の見えないシュティレを探そうか、とエスティアが考えたその時――エスティアの背中を温かい感触が包み込んだ。
「……え?」
エスティアはギギギ、と錆びた秒針のようなぎこちない動きで振り向く。その表情は困惑に満ちている。無理もない彼女は知っているからだ――そのぬくもりと柔らかさを。
どうして、どうして、どうして。そんな考えに塗りつぶされながら、振り向いたその視線の先には、小さな頃から全く変わらない笑みを浮かべる――セメイアがそこにいた。
「久しぶりっ、エスティア」
そう言って花が咲き誇るように眩い笑顔を見せる彼女をエスティアは振り向き抱き寄せた。そして、自分よりも少し背の小さいセメイアの首筋へと顔を埋め息を吸う。
間違いじゃない。この優しい香り、温もりを間違うはずがない。苦笑を浮かべエスティアを抱きしめ返すセメイアは恥ずかしそうに頬を染める。そっと撫でてくれるセメイアの手つきにエスティアの表情に笑みが浮かぶ。
「セメイア……セメイアなんだよね……っ」
絞り出すような声しか出ない。普通に声を出せば泣いてしまうからだ。セメイアは声色でそんなエスティアの気持ちを察したのだろう。フワリと微笑むと、そっと体を離しエスティアの頬へと手を伸ばし「そうよ」と優しく答えた。
エスティアは今にも泣きだしそうな表情でセメイアを見つめる。あの時のような偽物ではない。もう会えないはずの彼女になんて言葉を言ったらいいのかわからない。なにか、言わなければいけないのに。
「……どう、して……セメイア」
そんな言葉しか出ない。だが、セメイアにとってそれだけで十分だ。小さく頷くとエスティアの頬をスリスリと撫でる。
「どういうわけかはわからないけどね。エスティアと私たちの世界が一時的に繋がったみたいなの」
「繋がった……?」
「そう。貴女たちのいる“生者の世界”と私たちがいる“死者の世界”よ」
その言葉に大きく息を呑む。確かに彼女は死んでしまった。それはもう認めた、わかっている。だが、それが本人の口から飛び出した衝撃は予想より心の奥底へと突き刺さり胸が酷く痛んだ。
悲痛な面持ちでいるエスティアの左目の縁をなぞったセメイアは小さく笑って「青色、悲しい色ね」と呟くと、言葉を続けた。
「私、ずっと貴女のことを見ていたわ……ずっと、会いたいとも思ってた。だって、私はずっと貴女に謝りたかったから」
「……」
「貴女を守れなくてごめんなさい」
ポタリと一粒の滴がエスティアの胸元へと落ちた。すると、それはまた一粒、と落ちる。悲しみに満ちた声にエスティアはフワリと微笑むと、そっと子どものように泣きじゃくる彼女を抱き寄せ優しい声で「違うよ」という言葉を落とす。
「違うよ。セメイアはずっと守ってくれてたよ。私の帰る場所をずっと、ずっと……だから、私はあそこに故郷に帰れた――ありがとうセメイア。私の思い出を守ってくれて」
「エスティア……私こそ、帰って来てくれてありがとう」
お互いがお互いを強く抱きしめる。この体温を一生忘れることは無い。魂の奥底深くまで刻みつけるように二人は抱き合う。
「……さて、そろそろ私は帰らなくちゃ」
そう言うが早いか、そっとエスティアから離れたセメイアは寂し気に微笑む。その笑みにどうしようもなく心が締め付けられる。
「セメイア……」
「貴女に会いたい人はまだいるからね。それに、この世界もいずれ元に戻ってしまう。だから、エスティア、目を閉じて?」
「え、な、なんで」
そう言いつつも大人しく瞳を閉じるエスティア。セメイアは素直な彼女にこれでもかと表情を緩めるが、それをエスティアが見ることは無い。セメイアの白い指が彼女の黒髪を梳くように撫で、頬に伸ばされたもう片方の指が円を描くようにエスティアの左瞼を撫でる。
「言ったでしょう? この夢のような世界はほんの一瞬に等しいの。でも、貴女に会いたい人はまだいる」
「――セメイア!」
距離は近いはずなのに、声が遠ざかっていくような気がしたエスティアが咄嗟に叫ぶ。言わなきゃ、伝えなきゃ、言いたいこと、言わなきゃいけないことを。
「セメイア! 私、私……っ!」
「――エスティア」
だが、エスティアの言葉をそっと包み込むように彼女の声が被さる。
「また、今度ゆっくり聞かせて」
その声がエスティアの耳を撫でると同時に彼女の気配が陽炎のように消えていくのをなんとなく感じたエスティアは涙が零れてしまうのを必死に堪えながら絞り出す様に――
「うん……っ!」
酷く声は震えていた。消えかかりながらもセメイアは幸せそうに微笑むと、再びエスティアの周りを光が包み込む。そして、その光が収まると同時に彼女は――再び誰かに抱きしめられているような温かさに包まれた。
大きな手とゴツゴツとした大きな体、それに対して細く柔らかい感触。エスティアは弾かれるようにその瞳を大きく見開くと、子どものように無邪気な笑みを抱きしめてくれる二人へと向けた。
優し気に瞳を細めた二人の男女はエスティアをギュッと抱きしめると――
「やっと、会えた」
「私たちのかわいい子」
陽だまりのような温かい声と温もりでもう一度、エスティアを抱きしめたのだった。
眩しさに包まれ次に顔を上げたその次の瞬間、シュティレは自分が黄金色に輝く草原に立っていることに気が付いた。フワフワと優しいそよ風が体の横をすり抜けていく。温かくどこまでも優しさに満ちたそれに驚きを隠せない。
「ここは……そうだ! エスト!」
シュティレはすぐさま辺りを見回し最愛の人を探す。だが、どこまでも広がった黄金の草原に彼女の姿は無い。いったい、あの光に包まれてから何があったのだろうか。時間にして数分も経っていないはずだ。
サラ、サラ、と黄金の草が揺れる。その動きを思わず目で追ってしまう。無理もない、その黄金色の輝きを放つ草原はまるで大好きな彼女の瞳のように美しく慈しみを浮かべていたからだ。
シュティレが揺れる草原を眺めていたその時だった――ずっと聞きたかった声が背後から響く。
「シュティレ」
「――えっ」
弾かれるように声のした方へと振り向けば、そこには一人の女性が立っていた。少し薄目の金髪をなびかせた女性は夏の海のようにキラキラと輝く青色の瞳を細めシュティレへと微笑みかけていた。その眼差しに射抜かれたシュティレは、息を呑む。
見間違うはずがない。シュティレは両手を口元へと当てると、「な、あ……まさか……」と声を漏らす。そんな彼女を女性は微笑みを浮かべたまま口を開く。
「シュティレ、元気にしてた?」
「――っあ……」
全く変わることの無い大好きな笑顔と声。春に咲き誇る花のようでいて、どこか夏の花のような快活さを秘めた女性へとシュティレは歩み寄り、そっと彼女の両手を握って微笑を浮かべた。
女性は予想外だと言わんばかりに瞳を大きく見開く。そして、少し寂しそうに口を尖らせると、シュティレはそんな女性にクスリと笑う。
「……もう、昔みたいに抱き着いてはくれないのね」
拗ねたような声で女性が言うと、シュティレは「まぁね」と返す。そんな二人の表情はとても穏やかだ。
「姉さんこそ、出会った瞬間に抱き着く癖はなくなったんだ。あ、それともお姉ちゃん限定にしたんだっけ?」
「あら、随分と生意気なこと言うようになったのね。姉さんは複雑よ」
「何言ってんの、姉さんの妹なんだからこうなって当然でしょ」
「ふふ、そうね」
二人はカラカラと笑う。その姿は姉妹というよりも双子のようだ。
「姉さん……なんか、こうやって聞くのもおかしいけど、元気にしてた?」
苦笑交じりにそう訊くと、リーベはフワリと瞳を細め、眉尻を下げた。
「まぁ、元気にやってるわね。ずっと、あの丘の上でのんびり世界を眺めているだけどね。シュティレ、貴女は元気そうで本当によかったわ」
「……姉さん」
大好きな笑顔。だが、その笑顔がどうしようもなく苦しそうに見えたシュティレは小さく拳を握り締めると、フッと息を吐き出す。
その行動にリーベは不思議そうに首を傾げた。
「姉さん。なんで、私に会いに来たの?」
「えっ」
シュティレのまっすぐな言葉にリーベは大きく息を呑む。そして、困ったように眉尻を下げ微笑む。だが、目の前の彼女がなぜ自分がそう言われたのかなんとなくわかっているようだ。気まずそうに逸らされた視線が物語っている。
小さく声を漏らしただけで答えることの無い彼女にシュティレは畳みかけるように言葉を紡ぐ。
「私も、姉さんに会えてすっごく嬉しいよ。ずっと、会いたかったもん。でもね……私に会いに来てほしくなかった」
「――ッ」
ぴしゃりと言い放たれた言葉にリーベの表情がより一層暗くなる。だが、シュティレは続けた。
「姉さんには会わなきゃいけない人がいるでしょ?」
そう言って、黄金色に輝く草原を見渡す。今の状態がどういうものなのかはわからない。もしかしたら、目の前の彼女は敵の魔術か魔法で幻を見ているのかもしれないし、本当に今だけは死者の世界と生者の世界が奇跡的に合わさっているおかげなのかもしれない。
どっちにしろ、今の状態が長く続くとは思えない。故に、シュティレはその瞳を僅かに鋭くさせ気まずそうに視線を逸らす彼女を見据えた。
「もしかして、お姉ちゃんに会いたくな――」
「それはない!」
青色の瞳でまっすぐシュティレを見つめたリーベはそう言って俯いてしまう。そっと、視線を下げればリーベは拳を握り締め小さく震わせていた。
「会いたいに決まってるじゃない……っ! ずっと、ずっと、会いたいってもう一度抱きしめて欲しいって……でも、ダメなの! 私は、私は……っ!」
「姉さん……」
「あの人に会ってはダメなの……っ。私のせいでエリザは苦しんでる……だから、だからきっと今会いに行けばあの人はまた苦しんでしまう……っ!」
そこまで言ってリーベはその両目から大粒の涙をポロポロと零す。それは頬を伝い黄金にさざめく草原へと吸い込まれていく。シュティレはそんな彼女を――冷めた切った眼差しで見つめている。
夏の海のような穏やかさは影を潜め、まるで冬の海のように寒々とした雰囲気を携える彼女の瞳に見つめられていることに気が付いたリーベは顔を歪めた。
「エリザは私のことなんて忘れるべきなの! 私なんかに――」
「姉さん」
キュッとシュティレはうつ向く彼女の両手を握る。力強く握られたそれにリーベは顔を上げ、思わずハッと息を呑んだ。
理由は簡単。目の前の彼女の青色の瞳からツーっと涙が流れていたからだ。静かに流れるそれはまるで屋根に積もった雪が解けて壁を伝っていくようだ。
家族と言えど初めて見る表情だった。この子はこんなに静かな涙を流せる子だったのか、といつのまにか成長した妹に嬉しいやら寂しいやらの感情が入り混じり、それはギュッと胸を締め付ける。
そんな考えなど知るよしもないシュティレはフワリと目を細める。
「お姉ちゃんに会いにいってきて」
「え……」
「お姉ちゃんを救ってよ」
その言葉にリーベは顔を歪め首を傾げる。
「何言って……救うって……」
「姉さん、さっきお姉ちゃんが苦しんでるって言ったよね。それを救えるのってさ、姉さんだけなの。姉さん以外の人にお姉ちゃんの苦しみを解放することなんてできない……忘れることすらできない」
その言葉にリーベはグッと唇を噛みしめ小さく声を震わせながら「そんな……」と呟く。
「姉さん、おねがい」
その声は力強い声だった。まるで槍のように心を貫いていく言葉という名の槍はまるで太陽のような温かさを秘めていた。じんわりと溶けていく言葉にリーベはコクリと頷く。すると、シュティレは満足げに笑う。
飾りっ気のない無邪気な笑顔にリーベも釣られるように同じような笑みを浮かべた。
「……可愛い妹にお願いされたら仕方ないわね」
「ふふ、そういうことにしといていいから、早く行ってあげてよ。それで、言ってあげなよ」
リーベはその言葉に「そうね」と頷くと二人は同時に口を開き――
「よくも、会いに来なかったわねってさ」
「よくも、会いに来なかったわねってね」
同時にそう言って二人は噴き出す、そして、蜂蜜色に煌めく空を仰ぐ。フワリと、どこからか温かい風が頬を撫でていく。酷く懐かしい風だ。
気づいたシュティレは懐かしむように瞳を細め、その風に体を預ける。まるで、誰かが呼んでいるようだ。ふと隣へと顔を動かせば、そこには誰もいなかった。
「……ふふ」
サラ、サラ、と黄金の草原がささめく。キラキラと風で舞い上がった黄金色の葉っぱが舞い落ちるソレはまるで星々が大地へと降り立つようだ。そっと、手を伸ばしてみれば、舞い散るそれらは彼女の手を避けるように再び舞い上がる。
まるで、道案内をするかのように舞い上がった葉っぱはキラリと輝く。その次の瞬間、その葉っぱは一羽のフクロウとなってシュティレの前へと現れた。パサリ、と穏やかに翼をはためかせコチラを見つめるフクロウの眼差しはドキリとするほど優しい。
シュティレはそんなフクロウへと微笑を浮かべる。その青色の瞳はどこまでも穏やかだ。パサリ、とフクロウが翼をはためかせる。
「……あの人の所へ連れっててくれる?」
フクロウはその言葉に答えるように一声鳴く。その声は力強くどこまでも優しい声だった。




