第三幕 嘘から出た真の勇者の剣
〇
多くの死をもたらす、長い冬が訪れていた。
凍てつく風の冷たさのせいもあったが、もっとおぞましいものたちが村々を闊歩していた。人食いの怪物だった。
夜に一、二匹が現れるのみだった怪物たちが、その冬からは群れを成し、組織だって人々を襲うようになっていた。その凶事に昼と夜の区別はなく、村人たちはわずかな食料だけを携えて故郷を捨てざるを得なかった。
怪物に追われて難民となった人々に対しても、寒波は容赦なく手を伸ばした。
吹雪は人々を凍え上がらせて、身体の弱いもの、体力のないものから、順番にその命の温もりを取り上げてしまった。絶望が広がると、怪物はさらに数を増した。怪物を倒すために編成された軍隊の中からですら、怪物は生まれて、組織を内側からグチャグチャにした。
冷たい、暗い、恐ろしい、冬の時代がやってきていた。
各地の人々は救いを求めていた。
そして、少し前までは確かに聞こえていた〈救い〉の噂が、パタリと止んでいることに気がついた。みなの待望する〈勇者一行〉の活躍が、突然、嘘のように絶えてしまっていた。寒さが厳しくなるにつれて、人々の心から少しずつ、勇者への期待が薄れていった。
〇
その乙女は、吹雪の中を走っていた。
村から離れて、街道からも外れて、道なき雪原を走っていた。酷く吹雪いていたせいで、見通しは全然利かなかった。彼女はきっと、自分がどこに向かって走っているのかさえ、わからなくなっていたに違いない。
それでも彼女は走っていた。
後ろから迫る影があったからだ。
その乙女は、ずっと逃げていた。一度は自分の故郷に帰ろうとして、帰り着いた故郷がすでに絶望に飲まれていたことを知った。故郷の喪失を理解して、彼女は自分が包囲されていることを悟った。彼女の故郷は、〈剣の聖女〉一統という古い族の聖地だった。
彼女はその一統で〈辞書乙女〉と呼ばれていた。
数多の聖剣・魔剣に精通し、資格あるものにそれらを授ける巫女だった。
そして、レイオンという青年と、龍殺しの剣〈エルンガスト〉の行く末を見守る役目を負っていた。その結末が、この逃避行だった。それも終わりが近づいていた。
辞書乙女は、足を止めて立ち竦んだ。
彼女を追っていた影が、彼女を跳び越えてその眼前に躍り出たからだ。
追跡者の影は、美しい女性の上半身と四本の腕を持ち、狼のような四つ足の下半身を備えていた。引き締まった四本の腕が、二組ずつ弓を構えている。
決して振り切れない、獰猛な追跡者。悪神の放つ、恐るべき猟犬だった。
「貴女も絶望してしまえばよかったのにね」
その異形は、辞書乙女たちの仲間になった弓使い〈アウロラ〉の怪物化した姿だった。生前の無表情からは想像もできない、恍惚とした笑みを浮かべて、辞書乙女を追い詰めていた。
騙されて、絶望を味わって、心の底から怪物に変わり果てていた。
辞書乙女は、彼女の気持ちがよくわかった。なぜなら、辞書乙女も彼女と同じ光景を、同じ場所で見ていたからだ。それでも、辞書乙女が絶望しなかったのは、彼女には故郷という希望があったからだ。
そこに秘蔵されている、聖剣・魔剣の存在を知っていたからだ。
希望の芽は、真の勇者は、きっと他にいる。
そう信じていられたからだ。
だからそう、レイオンという青年が、彼こそが、恐るべき〈悪神〉だと明かされても、心を折られずにいられたのだ。怪物に埋め尽くされた街で――絶体絶命の窮地で、最後の希望であった勇者から「私こそが悪神だ」と告げられても、怪物化を免れてこられたのだ。
だけど、その希望も潰えてしまった。
故郷は絶望に消えて、数多の聖剣・魔剣は怪物たちの手に渡った。
辞書乙女は、立ち尽くしていた。
心も身体もすっかり冷え切り、絶望するほどの気力も残っていなかった。少しずつ落胆を重ね続けた心は、大きな絶望が出来ないほどに磨り減っていた。
「貴女も絶望できればラクだったのにね」
アウロラだった怪物が、矢を番えて笑い、ふと動きを止めた。辞書乙女はただ殺されるのを待っていた。けれど、いつまで経っても必死の一撃は飛んで来なかった。
怪訝に思って顔を上げると、アウロラだった怪物は、じっと遠くの一点を探るように睨み付けていた。辞書乙女は振り返って〈それ〉を見た。
それは吹雪の中でも異常なほどに目立っていた。
炎だ。炎の光が、近づいて来ていた。さらに近づくと、炎は男だった。
男は、フードの下で笑っていた。
辞書乙女の隣に立ち、燃える右腕をぎゅっと握り締めた。
「絶望することはない」
その男は、根拠不明の自信を漲らせて言うと、フードを軽く持ち上げた。
辞書乙女にも、アウロラにも、見覚えのある顔だった。
「俺は勇者の〈ジュール〉だ」
長い冬を終わらせる男が、そこに立っていた。
「ジュール、懐かしい名前、貴方も絶望できなかったのね? 無様にも成り損なったのね?」
アウロラだった怪物が、鏃をジュールに向けた。
ジュールは、怪物の巨躯を見上げた。
「その声は、アウロラか」
「そう、アウロラだったもの、弓穿つもの」
「そうか、お前は絶望したか」
「そう、そしてもう絶望する必要はなくなった。私自身が、絶望になったから」
「そうか、間に合わなくて済まなかったな」
「何を言っているの?」
ジュールが、マグマのように燃える右腕を振るった。
怪物が番えていた〈弓と矢〉は、その熱風を受けて瞬時に炭化した。怪物の掌も同時に酷い火傷を負った。けれど、ジュールの隣に立つ辞書乙女には少し熱い程度だった。
アウロラの怪物は、焼けただれた掌を見て「キッ」と牙を剥いた。だが、その牙を活かす暇を与えるほど、ジュールの剣は遅くなかった。
「お前の絶望はここまでだ」
ジュールは、燃え盛る腕で剣を抜き放ち、真一文字に横薙ぎした。怪物の胴体に深々と刀傷が走り、傷口から爆ぜるように火炎が生じた。炎は肉体も絶望も丸呑みにして、一切合切を焼き払った。その後には、燃えた尽きたものの影だけが残った。
ジュールは刀身に付着した脂を炎で清めると、抜き放ったときの逆回しで剣を収めた。それから、辞書乙女の方を振り返り、今気づいたように言った。
「アンタは確か、自称〈乙女〉とかいう残念なおん――」
「辞書乙女です! 誰が残念な女ですか、誰がッ!」
辞書乙女の〈エルン〉は、あまりに酷い聞き間違いに抗議するハメになった。彼女自身、謝罪や御礼が後回しになるなんて、流石に予想していなかった。
〇
ジュールとエルンは、アウロラの怪物を倒してから共に砦を目指していた。
その砦には、まだいくらかの兵力があり、難民たちも受け入れているとのことだった。
このところのジュールは、怪物と戦いながら、難民キャンプなどの人の集まるところを巡っていた。この災禍の元凶は、必ず大衆の近くにいると思っていたからだ。ペテン師が、騙すべき人間から離れるわけがないのだ――と。
移動の途上、辞書乙女のエルンが、前を歩く大きな背中に向かって言った。
「助けて頂いて、ありがとうございました。それから――」
「そう何度も謝られても困る。俺にも騙されていた負い目はあるし、結局はアンタも騙されていたんだ。あの勇者殿が〈カー〉とかいうペテン師だったのだからな。どちらか一方の責任でなし。それにラーズのことは、謝ってもらって許せるかと言われると、正直難しい」
「はい……」
「そう辛気くさい顔をするな。そうだ。何か面白い話をしてやろう」
「あっいえ、お気になさらず」
「遠慮するな、今飛び切り笑える話をしてやる」
「いやあの、今あんまりそういう気分じゃ――」
「すまん、砦ってどっちだ?」
「全然笑えない話じゃないですか! というか、それ本気で言ってます!?」
「はははっ、こう吹雪いちゃなんにも見えんな!」
「何を笑ってるんですか! どどど、どうするつもりですか!?」
「まぁ、食料は何日分かあるし、ここに暖炉もどき人間もいるから心配するな。凍死することはまずないぞ。それにほら、なんてたって俺は勇者だし」
「自称でしょッ、それ自称〈勇者〉でしょッ!」
「同じようなもんだろ、アンタだって自称〈乙女〉だ」
「辞書乙女ッッッ!!」
「まぁ、あれだ。真っ直ぐ歩いていれば、どっかには辿り着くだろう」
「計画性はないんですか、貴方さてはお馬鹿さんですね!」
「俺がお馬鹿なら、アンタは残念なお嬢さんだ」
「きいいいい、なんて無礼な男ッ!」
こうして、ジュールとエルンは「砦を目指す」と言いながら、結局は各地を巡り歩くことになった。その道中、怪物に追われる難民を見つけては、片っ端から助けて回った。炎の右腕を持つジュールは、村を埋め尽くす怪物の群れすら一人で焼き払った。
そうして、やたらと罵り合い、笑い声をあげる男女の噂は、助けられた難民たちの口伝いに各地へと広がっていった。そして、「それはかつて、あの怪物を倒してくれた、馬鹿笑いする大男ではないか?」と気づくものたちも現れた。
あの騒がしい勇者が、戻ってきた。
けれど、かつての仲間を失っている。
それを知った人々は、それぞれに武器を取った。
鍬を、剣を、鎌を、鉄鍋を、棍棒を持って立ち上がり、勇者が目指しているという砦へと駆け付けた。砦では誰もが、勇者を――ジュールのことを待っていた。
「「「今度は共に戦う」」」
そんな風に戦意を滾らせて、彼の来訪を待ち望んでいた。その砦と勇者の存在が、人類に残された一つの希望として、再び芽吹き始めていた。
そして、雪解けの先触れのように、その男女はようやく砦に現れた。
「俺は勇者の〈ジュール〉だ」
いつもの名乗りを上げると、砦中が「わああっ」と歓声で応えた。
〇
厳重な身体検査の後で、ジュールとエルンは砦の中に通された。
高い囲いの内側は、傷ついた兵士や詰め寄せた難民たちで、かなりごった返していた。砦にあった建物だけでは怪我人・難民を収容し切れず、そこら中の道に焚き火とそれを囲う小さな一団が生まれていた。
けれど今はその大半が、噂の勇者を一目見ようと門に押し寄せている。
次々に顔を覗かせる野次馬たちは、ジュールの逞しい巨体に歓声を上げ、その燃える右腕にザワザワと響めき、そして、誰より大きい笑い声に釣られて笑顔を見せた。
その野次馬たちを押し退けて、軍装の一団がジュールたちの前に現れた。
「お待ちしておりました、噂の勇者殿」
軍装をした、猛禽のごとく鋭い眼つきの男が、握手を求めて右手を出した。
ジュールは苦笑して肩を竦めた。「燃えるぞ?」と端的に言う。その男は「これは失礼」と右手を背中に戻し、頬の痩けた顔に儀礼的な笑みを浮かべて名乗った。
「私は当砦の最高責任者で〈カルト〉と申します」
「俺は勇者の〈ジュール〉だ。この小っこいのは――」
「〈剣の聖女〉一統の辞書乙女です」
「ええ、お二人の噂はかねがね。長旅でお疲れのところとは――」
「問題ない、俺はいつでも戦える」
ジュールは、相手の言葉を先んじるように申し出た。元来、回りくどいのは苦手な男だ。軍装のカルトは、「流石は勇者殿」と感心した風でもなく応じて、本題を切り出した。
「我々の砦は危機に瀕しています。春を間近に控えながら。食料が不足しているのです」
「なるほど。それでどうする?」
「冬越えの食料は、丘向こうの街には十分に残されていたはずです。これを手に入れたいが、障害もあります。大きな障害です」
「人食いの怪物どもか」
「それも統制の取れた怪物たちです。奴らはとても残忍な指導者を得ています。我々は〈解体者〉と呼んでいますが、その指導者は、食料回収に向かった我らの兵士を捕らえては、悲鳴を上げるだけの〈生きた楽器〉に変えてしまいました。その兵士たちの悲鳴が、夜な夜な我々を嘖んでいるのです」
カルトがそう語ると、ジュールは静かに瞼を閉じた。
その怪物の原型は、かつて彼の仲間であった〈あの解剖学者〉であろうと思われた。エルンもそれを察して、気遣うような視線を彼に送った。ジュールは、とっくに覚悟していたように目を開いた。そして、エルンに一度視線を送り返し、頷き合ってから、希望の勇者として不足のない笑みを浮かべた。
「そいつは俺が倒そう」
ジュールがそう言うと、カルトは具体的なプランの説明に移った。
〇
カルトの提示したプランは、砦に残った部隊を二つに分けるものだった。正面から怪物を牽制する本隊と、街の中心にいる〈解体者〉を強襲する少数精鋭の突入部隊だ。
ジュールは、突入部隊を率いることになった。
敵陣までの移動中、ジュールが馬車の荷台で揺られていると、向かいのカルトが言った。
「辞書乙女殿はいらっしゃられないのですね」
「あの小っこいの、戦闘は不向きでな。まぁ、他に仕事はある」
「勇者様のお供が、戦いに向かない、ですか。意外に聞こえます」
「俺には貴方こそ意外だがな。砦の最高責任者が、突入部隊にいていいのか?」
「剣の腕には覚えがあります。というより、剣にいくらか覚えがあったせいで、砦の最高責任者なんて柄にもない役職に担ぎ上げられてしまった――というのが現状でして」
「ほう、元々の最高責任者ではないと?」
「本来の責任者はさっさと怪物になりましたよ。仕方なく私が討ったのです」
「なるほど、だから貴方には人望があるのだな」
「それほど良いものでは。絶望的な状況で、藁にでも縋りたかったのでしょう」
カルトは、口の端を歪めて答えた。ちょうどそのとき、荷台の揺れが止まり、馭者が「着きました」と言った。そこは突入部隊の初期配置である、街の近くの用水路だ。空にはもう今夜の一番星が輝いていた。
〇
ジュールたち突入部隊は、本隊からの合図を待って街に潜入した。
冷たい水路から街に入ると、住人の消え失せた静かな街中を一塊になって進む。怪物たちは本隊が街に向かって上げ続けている〈鬨の声〉に注意を引かれていた。ほとんどのものはジュールたちに気づかず、気づいたとしても何か反応するより先に、ジュールの右腕に握り潰されていた。彼の右腕は、炎を抑えた状態でも、十分過ぎる怪力を発揮するようだった。
「ジュール殿、声が聞こえます」
カルトが言い、ジュールも頷いた。それは呻くような、か細く痛々しい声だった。それらがいくつも重なって、静かな街に滲むように響いている。
話に聞いていた、〈解体者〉に改造された〈生きた楽器〉の発するものだろう。
「声の方に向う。〈解体者〉がいるかはわからんが、とても見過ごせん」
ジュールが決断し、その決断にみなが従った。呻きの発信源は、街の中心部に聳え立つ、大きな教会だった。正面の扉は開け放たれていた。ジュールたちは正面から踏み込んだ。
そこにいたのは、捕虜にされた砦の兵士たちだ。脳髄や肺、心臓など、生存に必要な器官だけを残されて、グチャグチャに楽器と繋ぎ合わされていた。それらが、聖歌隊のように規則正しく並べ立てられている。悪趣味な、星空を湛えるコーラスを奏でていた。
そして、グロテスクな聖歌隊の指揮者が、振り返ってジュールたちを出迎えた。
それはドグの顔をしていた。顔だけは、ドグのままだった。しかし、それ以外はまるで銀色をした巨大なゴキブリだ。六本の脚は人間の手のように細やかに動き、銀色の羽はテカテカと油染みた輝きを放っていた。その不快な生き物は、ジュールの二倍ほども大きかった。
ドグの怪物――〈解体者〉の姿だった。率直に言って、あまりにも醜かった。
「俺は勇者の〈ジュール〉だ。変わり果てたな、ドグ」
「オホ、オホオホ、オホオホオホ、これは懐かしい名前です」
ドグの顔は、生前と変わりのない様子で喋り、指揮者さながらに腕の一本を振るった。ドグの聖歌隊が一斉に悲鳴を上げ始める。耳を聾さんばかりの大音声、絶望を呼ぶ悲鳴だ。
ジュールは歯を食い縛って耐えると、右腕を燃え上がらせて払った。熱波が楽器の心臓や脳髄を撫でて溶かした。それで兵士たちは、ようやく死ぬことができた。
ジュールは燃える右腕を握り締めて、炎を避けて天井に張り付いた怪物を睨み上げた。
「お前の絶望はここま――」
「貴方の希望はここまでだ」
背後から忍び寄った刃をすんでの所でジュールは避けた。
不意打ちに失敗した男は、ジュールの右腕を警戒してすぐに距離を取った。
カルトだった。けれど、カルトだけではなかった。突入部隊に選ばれた精鋭たちが、剣を抜いてジュールを取り囲んでいた。ジュールはそれを冷静な顔で見返していた。
カルトは「ほう」と初めて本当に感心した表情を浮かべた。
「貴方、わかっていたのですね?」
「いや、ただ、不思議に思うことがいくつかあっただけだ」
ジュールはそう言って、その詐欺師に対峙した。
とっくに熟考済であった様子で語り始める。
「人食いの怪物が脅威なのは、変身するまで見分けが付かないからだ。人に紛れる力が、人間同士の連携を崩し、猜疑心を煽る、それが真に恐ろしい。だから、おかしいと思った」
「ほう、何がおかしいのですか?」
「外から来るものが怪物か人間か、見分ける方法はない。これはかつてのドグが、怪物の死体を解剖して出した結論だ。怪我人の手当すら追い付いていないようなあの砦で、その方法が見つかったとは思えない。この状況、俺が敵の立場なら、難民のフリをして大勢の怪物を砦の中に送り込んでいるだろう。しかし、そうはなっていなかった。ならば、他に狙いがあるのだろう、とな」
ドグの怪物が天井で「ホウホウ」と鳴いた。カルトと名乗っていた何ものかは、片手で天井の怪物を黙らせて「続けることを許可する」と促した。ジュールは淡々と続けた。
「虚偽の悪神とやらは、最初から怪物を生み出すことしかしていない。それだけしかわからないから、それが目的だと仮定した。そうすると、エルンのケースが引っ掛かった。じわじわと落胆を繰り返した人間は、怪物化するほどの絶望を、感情の大きな落差を生じなくなってしまっていた。それだと困るんだろ、アンタ。だから、わざわざ希望の砦を拵えて、俺が訪れるのを待った。希望を与えて、それを奪うために。縋った藁こそが、絶望であるように。やり口が同じだから、すぐに気づいたよ。自分で勇者を騙っていたときと同じだ」
ジュールはもう疑ってはいなかった。
すでに確信に変わっていた。その男がこの厄災の元凶だと。
「人を怪物に変える超常性は認めるが、ペテンの神様を名乗るにしては、詐術の腕がイマイチじゃないか。アンタの化けの皮、剥がれているぞ?」
そこには、カルトと名乗った軍装の男はいなかった。代わりに立っていたのは、怪しさが一周回るほどに怪しい商人だった。いつぞや〈勇者の剣〉をふっかけてきた詐欺師だ。
その詐欺師は「クツクツ」と笑って、どこからともなく龍殺しの剣〈エルンガスト〉を取り出した。
その剣を合図にして、精鋭の兵士たちが一斉に怪物へと変じる。
その怪物たちは、詐欺師と同じく様々な形の剣を握っていた。それらの剣のどれもが、〈剣の聖女〉一統の聖地から失われた、聖剣・魔剣の類いである。
詐欺師は、圧倒的な戦力差を見せつけるように言った。
「少しは頭を使うことを覚えたらしい。だが、やはりお前は馬鹿だよ。そこまでわかっていながら、のこのこ独りで来たのだから。結果は何も変わらん。お前は今から〈生きた楽器〉になる。お前の悲鳴が、希望に満ちた砦を絶望に染め上げる。私は千の絶望を寿ぎ、本来の権能を取り戻す。私の計画に一片の狂いもない。お前は徹頭徹尾、私に利してくれたよ。偽物の剣で戦う、勇者の紛い物よ。ここが貴様の〈偽りで満ちた物語〉の終わりだ」
虚偽の悪神〈カー〉は笑い、天井のゴキブリもどきが、周囲の怪物たちが、追従の笑みを浮かべた。下卑た嘲笑が、炎の燻る教会に響いた。
けれど、ジュールは真っ正面から笑い飛ばした。
「流石はペテンの神だ。口にする言葉の、何もかもが間違っている」
その言葉を待っていたかのように、教会の外に人の気配がした。たくさんの人の気配だ。
教会の入り口には、背の低い女が誇らしげに立っていた。
「見事に予想的中ですね、ジュールさん!」
そう叫んだのは辞書乙女だ。
彼女の後ろには、性別も装束もバラバラの人々が立っていた。
ジュールとエルンが、各地を巡り歩いて集めた仲間たちだ。彼らの手には、旅の途中で取り返した、数々の聖剣・魔剣が握られていた。ジュールとエルンは、いたずらに各地を巡っていたのではなかった。砦で待つ罠を予測して、こうして集めていたのだ。強力な武器と、それを託すに足りる仲間たちを。
「こんなッ、このッ、馬鹿の分際でッ」
虚偽の悪神は、自分が甘く見積もった男を忌々しげに睨み付けた。
その男は、笑って答えた。
「お前は三つ間違えた。俺は一人ではなかったし、俺は本物の勇者だった。そして、この剣は今から本物になる」
ジュールは〈勇者の剣〉を引き抜いた。その刀身は熱で少しずつ溶けていたし、刃先もとっくに折れてしまっていた。ボロボロで、がらくた寸前だった。
けれど、彼の手の中の剣は、周囲のどの剣よりも立派に思われた。
周囲の聖剣・魔剣が霞んでしまうほど、圧倒的な輝きを放っていた。その剣は他のどれよりも、人々の希望を背負っていた。その剣以上に〈勇者の剣〉らしい剣など、他になかった。
ジュールは盛大に馬鹿笑いを浮かべて言った。
「俺は、戒めの鞘から〈勇者の剣〉を引き抜いた男ッ、大僧正ラーズに予言された男ッ、すべての絶望を笑い飛ばす男ッ、虚偽の悪神の嘘すら真実に変える男――」
天井からドグの怪物が襲い掛かった。
ジュールの右腕が燃え上がり、〈勇者の剣〉が炎に包まれた。炎を纏う一振りは、鋼のごとき銀色の外殻を容易く焼き切り、醜い楽器職人を灰燼に帰した。
もう誰もがわかっていた。けれど、ジュールは名乗りを上げた。
彼の親友との約束だからだ。
「俺は勇者の〈ジュール〉だッ!」
その男は、世界で一番頼もしく笑い、笑い声と同じくらい頼もしい身体をしていた。世界の誰より希望を信じ、彼の希望に釣られて誰もが絶望を忘れた。冬の終わりを告げる右腕と、夜明けのように輝く〈勇者の剣〉を持っていた。
そして、彼の物語の結末は、後の世の誰もが知っていた。
〇
一人の老人が、復興された〈剣の聖女〉一統の聖地を訪れていた。
その聖地には、新しく〈剣の博物館〉が作られていた。回収された数多の聖剣・魔剣がそこに展示されていた。老人はその博物館に向かい、まだ少女のような見習いの〈辞書乙女〉にガイドを頼んだ。
少女は拙いながらも懸命に剣の解説をして回った。
「これは龍殺しの聖剣〈エルンガスト〉です。もとは〈ライズ〉という方の剣でしたが、当聖地でも一番の『残念さん』と噂されている一人の辞書乙女によって、一度、悪者の手に渡った曰く付きの剣になります、そして、こちらが――」
そこには、ボロボロの剣が展示されていた。
他に展示されている剣と比べて、明らかに見窄らしい剣だった。けれど、他に展示されている剣と比べても、特別大切に展示されていた。
「この剣はとても有名です、おじいさんもきっとご存じかと――おじいさん?」
幼い辞書乙女は途惑った。その老人が、涙を流していたからだ。
老人は「ええ、勿論よく知っています」と答えた。その老人の手からは、ある種の職人特有の火薬の匂いがした。その瞳は、年老いてなお透き通り、後悔と歓喜の涙を湛えていた。彼の若かりしころは、さぞ美しい少年であったろうと思われた。
その誰かは、膝から崩れて、懐かしい笑みを浮かべて、遠い冬の日を思い出して言った。
「これは、僕の〈勇者〉の剣ですから――」