第二幕 勇者の剣を持つ男
〇
「俺は勇者の〈ジュール〉だ、人食いが――」
新しく訪れた村で、ジュールがいつもの名乗りを上げていると、村人たちが「わあっ」と歓喜の声を上げた。
歓声を受けて、ジュールは「おう」と照れたように笑う。
槍使いのラーズは、ようやく生え揃った頭髪をボリボリと掻いた。
その他の仲間である、弓使いの女戦士〈アウロラ〉、火薬師の美少年〈ハッカ〉、解剖学者の紳士〈ドグ〉はどこか誇らしげにしている。この三人は、ジュールとラーズの活躍を知り、彼らの仲間に加わったものたちだ。全員、確かな腕を持っていた。
ジュールは、大勢の村人に宿まで案内してもらいながら、隣のラーズに耳打ちした。
「昔はいきなり槍を構えられたもんだがな」
「その経験を活かして、あのダセェ名乗りは変えるべきとちゃうか?」
「馬鹿の〈ジュール〉と、ハゲの〈ラーズ〉とか?」
「誰がハゲや、誰が。よく見てみぃや、このロングスタイル、キューティクル全開やろが」
「どこの需要と供給の結果なんだ。そのロン毛、どこ需要だ?」
「アホ抜かせ、村々の娘さんがイチコロやぞ。ホレ見てみぃ、あの女の子、俺のかっこよさに思わず照れて顔伏せとるがな」
「あれは爆笑堪えて顔を伏せてんだよ。どや顔で五分刈り見せつけてくる男、笑い飛ばさないように必死なんだよ」
ジュールとラーズは、息の合った様子で馬鹿話を繰り広げていた。
それに釣られて、村の人たちの表情も自然と明るくなる。
宿屋に荷物を下ろすと、アウロラやドグ、ハッカが、村人たちに〈ペテンの魔王〉についての聞き込みを始めた。ジュールとラーズは、夜に備えて先に休息を取った。
そして、日没が訪れた。
虫の音が涼やかで、星の綺麗な秋晴れの夜だった。
ジュールたちは、さらに強くなりつつある怪物と戦い、首尾よくこれを倒した。
〇
「ジュールさんにラーズさん、このところ人間離れしてお強いですね」
村から村への移動の途中のことだった。
日も陰り、旅のメンバーで野営の準備を進めていると、薪に火を付けていたハッカが、ジュールとラーズに向かって言った。
テントを立てていた二人の男は、「そうか?」と首を傾げる。
お互いの顔を見合って考えるものの、これといった心当たりはなかった。
「そうですよ、前から十分お強かったですけど、このところの動きはまるで怪物よりも怪物のようです。あっ、もちろん悪い意味ではなく――心強いんです」
ハッカはそう付け加える。すると、普段は寡黙で無反応なアウロラも、珍しく同意するように頷いた。ジュールとラーズは、「う~ん」と首を捻り合う。
ラーズが、先に口を開いた。
「まぁ、この馬鹿はもともと剣術のど素人やったからな。場数踏んで腕も上がりゃあ、そらこの無駄にでかい図体や、それなりに使いもんなるやろう。そのせいちゃうか?」
「それじゃあアレだ、ラーズはなんだ、その、あれだ、髪が伸びたな!」
「褒めるとこ見つからんのなら無理に言うなや……」
「ラーズさんの変化は、もしかすると、その左手が関係しているのかも知れませんね」
夕餉の支度をしていたドグが、鍋を火に掛けながら言った。
指摘されて、ラーズは怪物化した左手を見る。あれ以来、症状が進行することはなかったけれど、同じように回復することもなかったのだ。
昼も夜も関係なく、ずっと怪物のままの左手。
ドグはシチューを掻き混ぜながら、「これは憶測なんですけれど」と続けた。
「私たちの追っている〈ペテンの魔王〉ですが、こいつが本当にいたとすると、どう考えても人間の域を超えた存在ですよね。竜や精霊みたいなものです。その超常の存在は、他者を騙した後で、〈絶望させる〉ことではじめて、人間を怪物に変えてしまう。少なくとも、私たちはそう仮定してきました。
けれど、本当は絶望する前の〈騙された〉時点で、身体は変化しているのかも。だってそうでしょう。騙されたときにはもう、怪物になれる準備が終わっている状態、いつでも怪物になれる身体になっているわけですから」
「それはまぁ、つまり、どういうことなんだ?」
ジュールが、頭の痛そうな顔で尋ねた。
しかし、当事者のラーズは「なるほどやなぁ、流石は先生や」とか頷いていた。そのせいでうっかり説明が終わってしまいそうになったので、ジュールは慌てた。
「すんなり納得するな、話が終わっちまう。馬鹿を置いてくな、泣いてしまうぞ」
「泣くなや泣くなや、つまりやな、俺が怪物じみた動きになってきよんのは、身体の方が、怪物に近いもんなってるからやないかと、そう言っとるんや」
「ほう、そうなのか?」
「あくまで憶測ですよ、憶測。実際に解剖したわけではないですし、いや、解剖させていただけると、こちらとしてはありがたいんですけれど……」
「この先生、たまに目つきが怖いんはそういうわけかいな……」
ラーズはそそくさと、ジュールのでかい背中に隠れた。
ハッカとアウロラがくすくすと笑い、ドグも「冗談ですよ」と笑っていた。続いて、ジュールが一際大きな馬鹿笑いをすると、ラーズも一緒になって笑った。
即席のパーティーだったが、ジュールはこの仲間たちを気に入っていた。
〇
さらに次の村でのことだった。
「俺は勇者の〈ジュール〉だ、人食いが現れたという村はここか」
ジュールがいつもの名乗りを上げると、村人たちはポカンとした。次いで胡乱な目で、ジュールたち一行を遠巻きに避けていく。久しくなかった反応だ。
ジュールとラーズにとっては、ある意味で懐かしい光景でもある。
けれど、アウロラやハッカ、ドグにとっては今までにないことだった。彼らがパーティーに加わったのは、ジュールとラーズの活躍がある程度認知された後で、だったからだ。
ジュールが一番近くにいた村人を捕まえて、軽く声を掛けた。
「申し訳ない、人食いが現れたというのはこちらの村だったか?」
「ええ。でも、もう退治されていきましたよ、〈勇者一行〉様が」
そう言われて、ジュールたちは顔を見合わせた。
ラーズが「ちょいと、すんません」と村人に尋ねた。
「勇者一行ってのは、その、本物やったんですか?」
「はぁ? ええ、それは立派な〈勇者の剣〉をお持ちでしたから」
それを聞いて、ジュールとラーズは「ほう」と笑った。
けれど、他のメンバーはさらに困惑した表情を浮かべている。
ジュールに声を掛けられた村人は、〈勇者一行〉を名乗る怪しげな集団を値踏みするように見回してから、完全に詐欺師に対する態度で言った。
「――で、アンタたち、なんて言いましたっけ?」
ジュールたちはその村に留まるのをやめて、少しだけ情報収集を行ってからすぐに次の村を目指した。移動の途中、ハッカがみなの疑問を代弁した。
「僕たち以外の〈勇者一行〉、一体何ものなんでしょう?」
「話に聞く限り、あちらも〈勇者の剣〉を持っているとのことですね。ジュールさんは何かご存じないですか、同じ〈勇者の剣〉使いとして?」
ドグにそう話を振られて、ジュールは自分の剣の柄に手を触れた。
とはいえ、旅に出るまではただの猟師だった男だ。
心当たりなどあるはずもない。
「知らんな。俺はこの一振りしか〈勇者の剣〉というのを見たことがない」
「そらまっ、あんまりゴロゴロはしとらんやろな、勇者の剣っちゅうのは」
「じゃあ、あちらが偽物なんですね?」
ハッカが念を押すように問い掛ける。
ジュールは軽く顎に手を添えながら答えた。
「さてな。まぁしかし、心強いことだとは思う」
「こ、心強い……ですか?」
「俺たち以外にも、怪物どもと戦っている人間がいたんだからな」
ジュールがそう言うと、ラーズは「せやな」と笑った。
ハッカはイマイチ納得のいっていない顔で「勇者の偽物かもしれないんですよ?」とぼやいていた。アウロラとドグは、それぞれで考え込んでいた。
しかし、とりあえずは一端、この話はここまでとなった。
その後も、ジュールたちの行動に変化はなく、噂を集めては村々を巡った。
変わったことといえば、訪れた村で怪物を倒す回数より、すでに倒された怪物の話を聞かされる回数の方が増えたくらいだった。
「もう一組の勇者一行は、随分と優秀らしい」
ジュールとラーズは、そんな風に笑い合った。
けれど、ハッカはあまり面白くなさそうだった。アウロラとドグについては、表情からではどう思っているのかまでわからなかった。けれど、改めて言及しない様子には、何かしらの意志を感じさせた。
それでも、五人は離れることなく旅を続けた。
そして、そうこうしている内に、その日は訪れるべくして訪れた。
街道沿いにある宿場町でのことだった。
ジュールたちは、もう一つの〈勇者一行〉に遭遇した。
〇
とても寒い日だった。
近くの山稜は白く覆われて、近々その宿場町にも雪が降ると思われた。
「俺は勇者の〈ジュール〉だ、人食いが現れたという村はここか」
ジュールが白い息を吐きながら名乗りを上げると、もう一つの〈勇者一行〉は対峙するように彼らの前に立ち塞がった。三人の男と、一人の女だった。
その四人の中から、一人の男がジュールたちの方に進み出た。ジュールにも勝るとも劣らない体躯を持つ、年若い青年だった。絹のように柔らかな金色の髪を後ろで束ねて、誇り高い獅子のような男だった。その男の腰には、鞘に収められた剣がある。
「私は勇者の〈レイオン〉、虚偽の悪神〈カー〉を追うものだ」
そう名乗るや、レイオンという青年は腰の剣を抜き放った。
それは一見して、尋常ならざる剣だった。刀身は淡く光を纏い、「リィィィン」と小さく鳴いている。思わず目を奪われるような〈勇者の剣〉だった。
すると、レイオンの後ろにいた巫女装束の女性が、彼の横に並んで続けた。
「私は〈剣の聖女〉一統に属する〈辞書乙女〉です。レイオンが手にしているのは、邪龍殺しの大英雄〈ライズ〉の聖剣〈エルンガスト〉。私たちの一統が彼に授けた、疑問の余地のない第一級の〈勇者の剣〉です」
「なるほど」
ジュールはとりあえず、頷いた。本当はチンプンカンプンだった。
その隣でハッカが縋るように彼を見ていた。アウロラとドグは静観している。
ラーズだけは緩く気を抜いている素振りを見せつつも、隙なく周囲を警戒していた。首を回しながら、レイオンの後ろに並ぶ男たちの武器や、伏兵の存在を確かめている。三叉槍を両肩に乗せておきつつ、いつでも構えられるように心づもりしていた。
レイオンという青年は、ジュールを凝視しながら問うた。
「貴方も〈勇者の剣〉を持つというなら、証を立ててくれないか?」
「ああ、構わない」
ジュールは迷わずに剣を抜いた。
それは一見して、使い込まれた剣だった。かつては濡れたように輝いていた刀身は、微かに刃こぼれが浮かび、すっかり鈍い鉛色に変わっていた。刃も丸みを帯びて、〈叩き斬る〉ことしかできなくなっている。到底、綺麗に〈斬り裂く〉ことなど叶わない剣だ。
それは凡庸で、どこにでもありそうな、使い込まれた一振りの剣だった。
レイオンの剣を見た後では、誰もがそう思った。
「それはなんという名前の剣ですか?」
辞書乙女を名乗る女性が訊いた。彼女は知らないようだ。
「ものに名前をつける趣味はない」
ジュールはそう答えた。名前があるなど考えたこともなかった。
「どこで手に入れたものだ?」
レイオンという勇者の青年が重ねて尋ねた。
「街で買ったものだ」
静寂が広がった。レイオン一行が、にわかに殺気立った。
ジュールはその変化を不思議がり、詳しく説明することにした。つまりは勇者の剣を怪しげな商人から買った話をした。レイオンは「何が目的だ?」と絞り出すように訊いた。
「なんの目的だ?」
「勇者を騙り、諸方を旅する目的はなんだ?」
「この災禍の原因を突き止めて、元凶を打ち倒す。というか、騙ってなんぞ――」
「この期に及んでまだ白を切るか、ペテン師ッ!」
ジュールには、わけがわからなかった。
レイオンは剣を持つ手を戦慄かせながら、ジュールを睨み付けて言った。
「虚偽の悪神〈カー〉は、十の姿を持ち、百の詐術を操り、千の絶望を寿ぐもの。諸方に広がる被害から、行商人や旅芸人に扮しているものと思っていたが、よもや世界の希望たる勇者を騙っていようとは。いや、それこそが、人民の絶望を呼ぶ、最大の詐術であったか……」
「アンタ、何を言っている?」
「詐術の精度が落ちたな、貴様の仲間たちはすでに貴様の正体に気づいたぞ!」
ジュールはわけがわからないまま、仲間の顔を確かめた。
ハッカが、アウロラが、ドグが、詐欺師を見るように自分のことを見ていた。
レイオンが〈勇者の剣〉を構えて叫んだ。
「ついに正体を現したか、虚偽の悪神よッ!」
ジュールは自分の右手を見た。
彼の右手は黒く変色して、冷えて固まった溶岩のようになっていた。
明らかに怪物の手だった。
ジュールは思わず、彼自身の〈勇者の剣〉を取り落とした。もうすでに誰もそうとは信じていない、偽りの〈勇者の剣〉が、地面に落ちてカランと鳴った。
レイオンは素晴らしい剣術家の足捌きで間合いを詰めると、龍殺しの一撃を見舞った。
「ボケッとしてんな、馬鹿ッ」
ジュールの首を刎ねるはずだった一撃が、三叉槍の刃に弾かれた。
続けて、ラーズは石突きによる牽制打を放つ。
すかさず距離を取るレイオンを、今度は突き上げと払いでさらに後退させた。そして、大きくブン回した三叉槍で周囲全体を威嚇すると、ジュールを庇うように位置取る。
ラーズは油断なく構えたまま、背中越しに叱咤した。
「タダで首やれるほど気前ええんかい、お前はッ!」
ジュールはしかし、状況に対応できていなかった。足下に転がった剣を見て、それに手を伸ばす。そのとき、自分の変質した腕を見て、呆然とした。わけがわからなくなっていた。
「剣を取らせるなッ、ここで叩くッ!」
レイオンが勇ましく叫ぶと、それに呼応して後ろの男たちも武器を構えた。
ラーズは三叉槍で応戦して、すべての攻撃をいなした。
大鎚の軌道を撫でるように外し、懐深く入り込もうとする短剣使いを突きで押し留め、怪物すら霞む龍殺しの一撃を三本の刃でどうにか防いだ。疾風のごとき突きを放ち、稲妻のごとく打ち込んで、激流のように槍を払った。
三対一でありながら、決して引けを取らない獅子奮迅の戦いぶりだった。
高い練度の槍術と、人間離れした反応速度、強靱な肉体。何より、ここから一歩も通さないという気迫が、ラーズの実力を後押ししていた。
ただ、彼の気迫に対して、三叉槍の方が着いて来られなくなっていた。
龍殺しの一撃を受け止めた瞬間、ラーズは嫌な手応えを覚えた。
(今の感じ、どっかにヒビ入ってんな……)
次の一撃は、耐え切れないだろうとわかった。
それはレイオンも手応えで察していた。そして、彼は相手の弱点を見逃すほど、半端な剣士ではなかった。三叉槍の破壊を狙って、続けざまに龍殺しの一撃を繰り出す。
ラーズはそれをあっさりと槍で受け止めた。結果、三叉槍は軸から真っ二つに折れた。
武器を失ったラーズに対して、レイオンは大きく剣を振り被った。
「もらったぞ、悪神の手下ああああッ!」
ラーズの左手が、その剣を掴み止めた。怪物化し、鱗を纏っていた左手だ。ラーズはその大振りを狙っていた。安全に打ち込めると油断した、わずかに隙のある一撃を。
だから、あえて槍を差し出したのだ。
ラーズの右手は、二つに折れた三叉槍の、穂先の側を掴んでいた。
「誰が手下じゃボケ」
ラーズは、穂先を突き立てるように振り下ろした。
しかし、レイオンの首筋に届く直前で一本の矢がラーズの腕を貫いた。
「アウロラ、テメェかぁぁあ……」
仲間であったはずの弓使いが、ラーズの腕を射抜いていた。
そして、アウロラに気を取られた瞬間、重量級の大槌がラーズを横薙ぎにした。ラーズの身体は血を吹き出しながら、突風に煽られる空桶のように転がった。
「おげっ、ぐっ、どいつ、もぉ、こいつもぉ、ゴミ屑かいな……」
ラーズは、悪態と血をまとめて吐きながら立ち上がった。
ひしゃげた腕を垂らしながら、震える膝で身体を支えている。
彼の容態は、満身創痍なんて言葉でおさまるレベルではなかった。いつ死んでしまってもおかしくなかった。焦点の定まり切らない双眸で、漠然と睨み上げていた。
けれど、絶望だけはしていなかった。
それは誰の目にも明らかだった。
なぜなら、左手の変質が、広がることはなかったからだ。
「しぶといな、槍使い――虚偽の悪神の狂信者よ。だが、それもここまでだ」
レイオンが、龍殺しの剣〈エルンガスト〉を振り被る。
ジュールが駆け出した。ラーズの身体を担ぎ上げると、彼の〈勇者の剣〉でレイオンの一撃を辛うじて受け流す。勢いを止めず、ジュールはラーズを担いで逃げ出した。
しかし、走り去るジュールの背中を狙って、アウロラが矢を番えた。
弓の名手である彼女にとって、真っ直ぐ走るだけの彼らはただの的だった。それを射抜けなかったのは、突如として発生した煙幕が、彼女の視界を遮ったからだ。
そして、煙幕が晴れたときにはもう、ジュールたちの姿は見えなくなっていた。
「ハッカ、貴方という人は……」
アウロラは、半泣きで地面に膝を着いている火薬師の少年を見た。
今にも雪が降りそうな、冷たい風が吹いていた。
ジュールは仲間を失い、レイオンたちの〈勇者一行〉に弓使いと解剖学者が加わった。火薬師の少年のその後を知るものは、いなかった。
〇
ジュールは走った。
ボロボロのラーズを担いで、もはや意味を失った〈勇者の剣〉を引き摺って。
どこを目指しているわけでもなかった。ただの敗走だ。できれば医者のいる場所に行きたいと思っていたが、レイオンたちに見つかる可能性を避ける必要があった。隣町程度では安心できない。どこか遠く、すぐに追い付かれないようところまで逃げる必要があった。
ジュールは、だから走った。
体力には自信があった。丈夫な身体だけが取り柄だった。
どこまでだって走ってやるつもりだった。走り続けるジュールは、この寒さの中、汗だらけで湯気を立てていた。反して、ラーズの身体は段々と冷たくなっているような気がした。右手の変質は少しずつ進行して、今では二の腕までが黒い岩石のようになっていた。
いつしか雪が降りはじめていた。
「止まれ」
ラーズがそう言った。だから止まった。
「降ろせ」
ラーズに言われるがまま、ジュールは彼を地面に降ろした。
「馬鹿ちゃうか、お前?」
ラーズがそう言うので、「そうかもしれん」とジュールは答えた。
ラーズはすっかり呆れた様子で、大の字に寝っ転がった。というより、身体を支えることすらできないほどに衰弱していた。大槌の一撃が、肋を砕き、内臓を破壊していたからだ。
すっかり死に体で、それでもラーズは笑いながら言った。
「お前、馬鹿みたいに人を信じるっちゅうのは知っとったけど、人を騙すんが絶望するほど嫌いっちゅうんは、どういう理屈やねん。不器用ちゅうか、なんちゅうか、馬鹿正直を拗らせてここまでなる人間、他におらんやろ」
「そうかもしれん」
ジュールはそう答えた。自分でも理由は知らなかった。
ただ、昔から大嫌いだった。人を騙すこと、嘘を吐くことが。
人を信じていたかった。
それと同じくらい、人に信じてもらえる人でありたいと思っていた。
だから、騙されてもいいと思っていた。自分は運がよかった。大きくて頑丈な身体に産まれていたし、失敗を一緒に笑い飛ばす友人にも恵まれた。
だから、人に騙されたって耐えられる。
それによる不利益くらい、自分で背負ってみせる。そう思っていた。
疑うことで守られる利益より、信じることで生まれる絆をこそ尊んだ。
けれど、今回のはダメだ。自分が馬鹿みたいに信じたせいで、仲間たちまで巻き込んで騙してしまった。自分の馬鹿さが、仲間を騙し、仲間の信頼を裏切ってしまった。
ジュールの右腕の変質は、気づけば肩口まで迫り上がっていた。
ラーズはそれを見て、昔の誰かを真似て言った。
「おい、絶望するのはその辺にしとけぇや、お前まで人食いになるんかい?」
昔、誰かが口にした台詞。それによく似ていた。
「絶望することなんか、ないんやろう?」
ラーズは笑った。顔色は真っ白で、頬に落ちた雪が中々解けなかった。
「お前が勇者なんやから」
ジュールは答えることができなかった。
ラーズはすっかり呆れた様子で、馬鹿を見るような優しい目で続けた。
「勇者っちゅうんは、職業でも、家名でも、国家資格でもない、せやろ?」
「ああ?」
ジュールは首を傾げながら頷いた。よくわかっていなかったのだ。
ラーズは「察しの悪いやっちゃなぁ」と悪態と血反吐をぶちまけた。
「まぁ、ええわ。一度しか言えんと思うから、よう聞けや」
「ラーズ、お前は――」
「騙された反省は勝手にやっとれ。今後の生き方は知らん。せやけど、今回限りの裏技だけは教えたるから、耳かっぽじってよう聞けや。有り難い、大僧正様のお言葉やぞ」
「……ああ、傾聴しよう」
ジュールが頷くと、ラーズは不敵に笑った。
喉の奥に詰まった血の塊を吐き捨てて、絞り出すように言った。
「お前が勇者になれ。その偽もんの剣ぶん回して、怪物倒して、元凶とやらもぶっ潰して、お前がその剣を本物にしてまえ。詐欺師の大嘘を真実に変えてまえ。いつもみたいに『俺は勇者のジュールだ』って馬鹿みたいな名乗り上げて、絶望の縁に立つ人間の隣に立って『絶望することはない』って馬鹿みたいに大笑いするんや」
「俺にまた、出来るだろうか?」
「大僧正が保証したるわ」
ラーズは、もう二度と開けないつもりで瞼を閉じた。
「お前は、俺を救った正真正銘の〈勇者〉やからな」
ラーズはそれだけ言い残した。そして、二度と瞼を開くことはなかった。
ジュールは〈勇者の剣〉を持って立ち上がった。
雪の降りしきる、凍えるように寒い日だった。あたり一面に雪が積もり、視界すら吹雪いて白く霞むほどになっていた。
けれど、ジュールの周りだけは、決して雪に犯されることはなかった。
ジュールの右腕は燃えていた。黒く冷えた溶岩のようだった腕が、内側から赤くなり、比喩ではなく燃え上がっていた。生まれたばかりのマグマのように赤々と熱せられていた。ジュールの右肩から、右腕から、その手に握られた剣から、揺らめく炎が生まれていた。
「ああ、そうだったな」
ジュールはそう答えた。
それはすでに独り言になってしまっていた。
「お前を信じるよ」
それでも、彼はそう続けた。
すべての仲間を失って、たった一人で荒野に立っていた。