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第一幕 勇者の剣の贋作をつかまされた男


       〇


 ジュールという若者は、思い込みが強くて馬鹿だった。

 村で一番声がデカくて、声と同じくらい身体も大きかった。村の誰より豪快に笑い、彼が笑うと周りの村人も釣られて笑った。自分が馬鹿なことは知っていたし、出来ないことは出来ないのだという分別もあった。

 ただ、それでも彼は馬鹿だった。誰彼構わず信じて、信じたら疑わなかった。

 だから、彼は信じられないくらい簡単に騙された。


「これは勇者の剣です」


 十五歳か、そこらのことだった。

 ジュールはその日、オドリグマの毛皮を街に売りに来ていた。そして、目抜き通りから少し外れた薄暗い路地裏で、怪しげな商人につかまった。

 その商人は、先ほどのようなことを言って一振りの剣を見せた。

 その剣は最初、鞘に収められていた。

 ジュールの目には、その胡散臭い商人のあまりに怪しい風采のため、かえって本当に何かしらの霊験を持っているかのように見えた。そして、その怪しさが一周回るほどに怪しい商人はさらに信じがたいことを言った。


「戒めの鞘からこの剣を引き抜けたものは、いずれ現れる魔王を倒す〈勇者〉となるでしょう」


 そこらの三流劇団の方が、もう少しそれらしい台詞を用意するかと思われた。

 すると、これまた明らかに〈サクラ〉だと思われる禿げ頭の巨漢が、おもむろに前に進み出た。厳めしい顔をした禿げ頭は、商人の手から〈勇者の剣〉をもぎ取った。


「おうおう、では拙者が試してしんぜよう」


 大根役者は「ふん」と剣を引っ張ったが、ちっとも抜けなかった。

 その姿は質の悪いパントマイムのようだった。

 巨漢は「本当に抜けないぜ」と棒読みしてから、ジュールに向き直って言った。


「おい、そこの兄ちゃん。いいガタイをしているな、アンタもどうだ?」


 ジュールは断る文言が思い浮かばなかったので、とりあえず剣を受け取った。

 受け取ってしまったからには、抜いてみるのが礼儀かと思った。

 軽く柄を握り、力も込めずに剣を引っ張ると、よく鍛えられた鋼の色が鞘から覗いた。何も考えないまま、刀身をすべて引き抜いた


 その剣はずっしりと重く、両刃は濡れたように輝いていた。


 猟師であるジュールにも、「よい剣だ」ということはわかった。

 そして、ジュールという男は、お人好しの馬鹿だった。

 オドリグマの毛皮は、それなりの硬貨に化けていた。そして、最終的に〈勇者の剣〉に化けることになった。サービス価格だった。

 ジュールは〈勇者の剣〉を村に持ち帰り、村人に大層笑われた。


       〇


 それから三年間、ジュールの生活に変化はなかった。猟に出て、獲物を解体して、皮をなめして、麦畑を手伝って、たまに他人に騙されては、村のみんなと笑いを分かち合った。

 いつぞや買った〈勇者の剣〉は、台所で埃を被っていた。常に見えるところに置かれていたのは、母親の「あれを見るたびに自分の馬鹿さを思い出せ」という無言の圧力だ。

 とりあえず、この三年は世界中が平和だった。

 ジュールはこのところ、「そろそろ、幼馴染みの〈サーヤ〉と夫婦の誓いを交わして、子どもでも作るか」と考えていた。けれど、困ったことに彼は馬鹿だったので、いい口説き文句が思い浮かばなかった。

 浮かんでくるのを待っていると、〈ライズ〉の祭りが近づいてきた。

 冬の真ん中で行われる、長い歴史を持った祭りだ。〈ライズ〉というのは、古い時代の英雄の名前だった。美しい女神を攫った邪竜を倒し、その女神と結ばれたという男だった。

 ジュールは英雄の逸話にあやかって、祭りの日に告白することにした。祭りの日が迫るにつれて、多くの行商人や旅芸人が村にやってきた。


 そして、それは祭りの前夜に起きた。


 空気が冷たくて、星のよく見える日だった。


 ジュールは家の外に出て、明日の告白に向けて予行演習をしていた。場所やシチュエーションを変えつつ、どんな流れからでも告白できるよう入念に備えた。気合いが空回りして、念の入れ方は明後日を向いていた。

 けれど、その奇行のおかげで、ジュールは惨劇の現場を押さえることができた。


「おう、どなたさんかは知らんが、ひとんちの庭で何をしている?」


 ジュールは、暗がりで蠢く影に向かって言った。

 その影は、彼の家の裏庭に座り込んで、何かに馬乗りになっているようだった。

 ジュールは「強姦の類いであれば、殴り飛ばしてやろう」と考えていた。

 暗がりに潜む影が、顔を上げた。その瞬間、嗅ぎ慣れた匂いがした。動物を解体して、皮を剥ぐときの匂いだった。血の臭いだ。

 暗がりに潜んでいた影が、腕らしきものを振るった。

 ジュールは派手に吹き飛んで、家の土壁を突き破った。驚いたジュールの母親が、灯りを片手に顔を出した。そして、母と息子は異形の怪物を見た。


 その怪物は、人間をぶくぶくに膨張させたような姿をしていた。


 身体は熊のように大きくて、人間のように直立していたが、その腕は地面に届くほども細長かった。そして、デメキンのように張り出した目をギョロつかせて、腫れ上がった瓜のごとき唇から、おどろおどろしい牙を覗かせていた。

 つまり、見たことも聞いたこともない怪物だった。

 ジュールの母親は悲鳴を上げた。だが、声は突然に途切れた。怪物の長腕が、か細い首をへし折ってしまったからだ。

 血飛沫が吹き上がり、母親は力なく横たわった。

 悲鳴が届いたのか、村人や訪れていた商人たちが、何ごとかと夜空の下に出てきた。同じように怪物を見つけて、同じように悲鳴を上げた。そして、同じ末路を辿った。

 にわかに、村は恐慌へと転じた。

 怪物は細長い腕を乱雑に振り回し、花の茎でも折るように人間を殺した。人々は狭い村の中を逃げ惑い、たまに立ち向かうものが出ては返り討ちにあった。

 ジュールは最初に受けた一撃で、頭がくらくらしていた。そして、母親の死体を見つけて憤怒の形相を浮かべた。恐怖や混乱より、煮え立つような怒りが勝った。

 ジュールは単純な男だった。親の仇は討たねばならない。そのために〈勇者の剣〉を掴んだのは、たまたま近くに転がっていたからだ。

 引き抜いた両刃は、三年の歳月を経ても変わらず美しかった。

 ジュールに剣術の心得はなかった。

 だから、馬鹿正直に正面から近づいて、愚直なまでに全力で振り被った。


「ドオオオオオッッッッせええああああッッッ!」


 ジュールは雄叫びを上げながら、眼前に迫る長腕を切り落とした。もう一本もついでに切り飛ばして、喧しい顔面に柄頭を振り下ろした。怪物の牙がまとめて折れて、何本か拳に突き刺さった。ジュールは顔をしかめただけだった。


 ジュールは高々と剣を掲げ、怪物の首を刎ね飛ばした。


 怪物は死んだ。すると、醜く膨れあがっていた図体が、しゅるしゅると萎んで小男の身体になってしまった。刎ね飛ばされた頭も、どこにでもいそうな人間の顔になっていた。


 ジュールの奮闘により、村は危機から脱した。


 しかし、翌日になっても、混乱からは抜け出さなかった。


 このような現象、誰も聞いたことがなかったからだ。村々を旅する行商人たちすら、「人が怪物になるなんて信じられない」と口にするばかりだった。

 村は祭りどころではなくなった。村長や行商人、村の知恵ものたちが広場に集まって、しきりに頭を悩ませていた。「あれはなんだったのか」と議論していた。

 すると、旅支度を済ませたジュールが、件の広場に現れた。

 彼はその腰に〈勇者の剣〉を佩いていた。そして、心底真面目な顔で言った。


「予言のときが来たらしい」


 車座になっていた村人たちは、ぽかんと口を開けた。

 冗談のつもりではないとわかると、一斉に立ち上がってジュールに詰め寄った。


「それは詐欺師に騙されたんだ」

「みんなで笑ったの、忘れたんか?」

「お袋さんも死んで、家はどうすんだ?」

「サーヤと結婚するんじゃなかったんか?」

「馬鹿も休み休み言えよ、馬鹿なんか?」

「いや、こいつは馬鹿なんだ、でも、いいヤツなんだ」

「そんなことは知っとる。とりあえず、ここに座れよ」


 全員が必死になってジュールを引き留めた。

 村のみんなは、馬鹿で喧しい、村一番の大男のことが大好きだったのだ。けれど、ジュールは思い込んだら突っ走る男だった。そしてもう、すっかり思い込んでいた。


「俺は旅に出る。この災禍の原因を突き止めて、必ずや元凶を打ち倒す」


 結局、誰も彼の旅立ちを止められなかった。

 ジュールは〈勇者の剣〉を携えて旅に出た。

 ちょうどそのあたりからだ。ジュールの村で起きたのと同じような事件が、あちこちの人里で頻発するようになっていた。


       〇


 ジュールは村々を渡り歩き、噂を頼りに怪物退治に邁進した。

 人食いになる人間は、様々だった。

 村に立ち寄った行商人であったり、古くから村に住んでいた老婆だったり、稀に子どもまで怪物になることがあった。そして、凶行はいつも夜に行われて、翌朝には何ごともなかったかのように、怪物は人間に紛れて過ごした。

 人食いの現れた村では、住人同士が疑心暗鬼を起こしていた。

 猜疑心による不幸な事故も少なくなかった。

 ジュールはそういう村々を訪れて、人食いの怪物と戦った。

 彼はもともと猟師だった。小さな音もよく拾い、匂いに敏く、微かな痕跡も見逃さない、腕のいい猟師だった。彼は夜の村を見張り、凶行の現場を押さえては、独学の剣術で人食いたちと戦った。

 トドメを刺すのは、いつもあの〈勇者の剣〉だった。


「俺は勇者の〈ジュール〉だ、人食いが現れたという村はここか」


 弱い雨と強い雨を繰り返す、じっとりと温い雨季のことだった。

 雨除けの外套を纏ったジュールは、古びた塔が立ち並ぶ、黄昏どきの集落に辿り着いた。

 そして、すっかり口に馴染んだ名乗りを上げて、案内をしてくれそうな村人が現れるのを待っていた。

 馬鹿でかい声だったので、住人たちもすぐに気づいた。「ああ、頭のおかしなヤツが来たぞ」とそんな風に。


「なんぞ、馬鹿が来よったか」


 禿頭の若者が、塔の方角から近づいて来た。その青年は、宗教的な意匠を施された衣に身を包み、年代物の三叉槍を携えていた。


「おう、俺は勇者の――」

「でけぇ声なら聞こえとる、二度も言わんでええ」

「そうか、話が早くて助かる」

「なんも助かりゃせんわ、おどれは馬鹿か?」

「確かに馬鹿だが、それは槍を構えられるほどの罪なのか?」


 ジュールは、自分に向けられた三叉槍を見据えて言った。

 腰の剣には手を伸ばさなかった。彼は人食いを倒すときしか、剣を抜かない。相手がどれだけ怪しくても、彼に敵意を向けていても、「人食い」と現認するまでは戦いを避けた。馬鹿という自覚があるから、そういう縛りを自分に課していたのである。

 しかし、青年は油断なく槍を構え続けた。


「おうよ、今は時期が悪かったな。おかしな人食いが出て来よるようなときに、お前のような怪しいもんが来よったら、そらぁ警戒せんわけにぁいかん。馬鹿でもわかったか?」

「なるほど。よくわかった」


 ジュールは大人しく捕まった。

 槍持つ青年は、ジュールを寺院らしき塔に連行して、土蔵に閉じ込めた。そのとき、〈勇者の剣〉も彼に取り上げられてしまった。


       〇


 三叉槍の青年は、名前を〈ラーズ〉といった。

 ラーズは寺院で修行している僧職であり、夜な夜な発生する集落での人食いに神経を尖らせていた。彼には身体の弱い妹がいたのだ。

 彼の妹は、足が萎えて満足に歩くことができず、咳き込みがちで大声も出せなかった。怪物に襲われたら、助けも呼べず、逃げ出すこともできないだろう。

 ラーズは妹を大切にしていた。

 妹の身体に救いが欲しくて、いろんな医者にかかり、高価な薬草を買い求めた。詐欺師にも騙された。そうやって行き着いたのが、僧職だった。

 ラーズは最後の望みとして、神仏に縋った男だった。


「人食いが出よるのに、馬鹿の面倒まで見られるかい」


 ラーズはその夜も、僧職の仲間たちと一緒に集落の見回りに当たっていた。

 人食いによる被害は、すでに四件にも及んでいる。昨夜に至っては、槍を持った僧職が食い殺されていた。「今夜こそケリをつける」と、他の僧職たちも殺気立っている。

 ラーズも同じように意気込んでいた。

 妹が、人食いの脅威にさらされる前に――そう思っていた。そう思っていたからか、彼の足は見回りのコースを外れて、家の方へと向いていた。

 そしてそのせいで、妹の夜歩きを見つけてしまった。


「あら、兄さん?」


 足が萎えて、満足に歩けないはずの妹が、家の前に立っていた。

 ちょうど今帰ってきたような様子で、ドアノブを掴んでいた。彼女もラーズに気づいて、微笑を浮かべて振り返った。疎らに振る小雨の中、雲の隙間から星明かりが射していたのか、彼女の微笑みは不思議とよく見えた。

 それはいつも、看病するラーズを癒やしてくれた、あの愛くるしい笑みだ。

 けれど、ラーズは凍り付いた。

 妹の口許は、笑えないほどの血に濡れていたから。


「嫌だわ、兄さん。今の時間、兄さんはここにいないはずでしょう?」

 

 妹は寂しげにそう笑った。

 確かにラーズは、妹に見回りの時間帯や経路を教えていたのだ。


「こうなっちゃったら、もう、食べるしかないじゃない」


 妹が口にするはずのない台詞を吐いて、その口がバックリと十字に割れた。

 ラーズは生まれてはじめて絶叫した。心の折れる音を聞いた。

 彼の絶叫を聞いて、近くを巡回中だった仲間たちがすぐに集まった。


「どうした新入りッ、なっ――こいつ、人食いかッ!」


 ラーズの妹であった怪物は、変質した薄い布のような両腕を振り回し、槍を構えた僧職たちを八つ裂きにしていった。僧職たちはいとも容易く肉片になった。

 ラーズは膝を着いて、茫然自失の状態でそれを見た。妹であったものが、仲間を虐殺していく様を見た。彼の信仰心がガラガラと崩れて、生きる目的が失われていった。



「おい、絶望するのはその辺にしておけ、お前まで人食いになるつもりか?」



 聞き慣れない声で、ラーズは顔を上げた。

 見ると、自分の横に馬鹿でかい男が立っていた。その男はベコベコにヘコんだ扉の半分を抱えていた。それで土蔵に閉じ込めていた男のことを思い出した。


「お前……どう、やって……?」


 ジュールは質問には答えず、ラーズの左手を指差した。ラーズは自分の左手を見て、少しの間、それがなんなのか考えた。鱗が生えていて、鋭い爪があって、まるで人間の手ではないようだった。あまりに突拍子がなかったので、まるで他人ごとのように呟いていた。


「なんやこれ?」

「絶望することが、人食いになる条件の一つのようだ。お前は今、絶望しているな?」


 ジュールは、眼前の人食いから目を逸らさず、そう訊いた。

 ラーズは顔を上げて、目の前の妹だったものを見た。確かにそこに絶望があった。

 ジュールは、ベコベコにヘコんだ土蔵の扉を構えて言った。


「絶望することはない」


 ジュールは、襲い掛かる人食いの両腕を扉で防ぎながら続けた。


「そこで見ていろ、俺は勇者の〈ジュール〉だ」


 それ以上の説明は不要とばかりに、ジュールは人食いに挑みかかった。


       〇


「ドオオオオオッッッッせええああああッッッ!」


 ジュールは、土蔵の扉を盾にして怪物に肉薄した。

 その怪物の姿は、はじめて倒した〈ぶくぶく〉とは異なっていた。

 顔全体が十文字に裂ける口と化し、両手は薄く揺れる羽衣のようであった。それ以外の身体は基本的に女性の形を維持していたが、全身がバネのような筋肉に変わっており、獣のごとき敏捷さでジュールを攻め立てた。

 怪物たちは、新しく現れたものほど強くなっていた。

 その女性型の怪物は、ジュールの巌のごとき身体による体当たりをものともせず、布ともヒレともつかない腕を振るう。土蔵の扉が次第に小さくなり、ジュールを守るものは確実に削り取られていった。

 地面にへたり込んでいるラーズは、そのジュールの戦いぶりを見て思った。


「アイツ、全然素人やんか……」


 ジュールの戦い方は、正面から突っ込んで、相手の攻撃をギリギリで躱して、なんとか命を拾っているようなものだった。特攻じみた戦い方だ。

 槍術に覚えのあるラーズには、すぐに素人だと知れた。

 なんとか戦いの体を成しているのは、あの恵まれた体格のおかげだろう。残酷な話だが、矮躯が十年鍛えたより、恵まれた身体を持つ素人の方が強いというのは、ままあることだ。

 けれど、眼前の怪物は明らかに人間のフィジカルを超越している。

 恐ろしいはずだ。躊躇うはずだ。

 勝てないと、逃げ出そうという考えが、頭を過ぎるはずだ。


「アイツ、何を待っとるんや……」


 ジュールの戦い方はおかしかった。武器を拾わないのだ。

 足下には死んだ僧職の携行していた槍や剣がある。

 しかし、その巨漢はそれらを拾わず、削り続けられる土蔵の扉一枚で戦っていた。防ぎ続けて状況が改善するようには見えない。逃げる様子もない。では、何を待っている。


「ひょっとして、俺のせいなんか……」


 ラーズはその馬鹿でかい背中を見て思った。

 あの男は、こちらの決断を待っている。たぶん、アイツは察している。

 目の前の怪物が、ラーズにとって大切なものだったことを。

 自分が、今でも、それを失うことを怖れていることを。あんな怪物になってしまっても、あれを妹として見ている自分のことを、アイツは待っているのだ。


「絶望することが、人食いになる条件やから、か……」


 だから、今はまだ殺せないのだ。

 あの男は、俺を絶望させないために、満足に戦えないでいる。

 そして、あの男は信じているのだ。俺が、決断を下せることを。根拠もなく、こちらの事情も性格も知らないくせに、「妹に別れを告げられる」と無条件で信じている。

 信じているから、待っていられるのだ。

 反撃のときが来るのを、俺が絶望を振り切る瞬間を。


「何が勇者や、素人の分際で……」


 ラーズは立ち上がり、三叉槍を掴み上げた。

 彼の胸には悲しさがあった。大切なものに別れを告げるときの悲しさだ。


「お前が勇者なら、俺は大僧正じゃボケ!」


 ラーズは腰を低く落として、次の瞬間、ジュールの脇を擦り抜けるように踏み出した。

 彼の三叉槍が、妹の臓腑へと突き立ち、肉も骨も貫いた。


「キぃぃぃエエエエエエエエッッッ!」


 ラーズは、突き刺した勢いを殺すことなく、そのまま前に飛び込むようにして、怪物を家屋の壁にピン留めする。怪物と密着したその状態で、彼は叫んだ。


「おいこら勇者ッ、剣なら腰じゃあッ!」

「おう大僧正ッ、それを待っていたッ!」


 ジュールは、ラーズの腰から〈勇者の剣〉を引き抜くと、彼と位置を入れ替わった。その刹那、ジュールとラーズは、目と目で意思確認を終えた。


『殺るぞ?』

『構へんわ、殺ってまえ』 


 ジュールは〈勇者の剣〉を振り被り、振り抜いた。その一振りだけは、ラーズも見惚れるほどに美しかった。愚直であるが、迷いのない剣筋だ。

 だから、その一撃の後には、美しい少女の亡骸が眠るように横たわっていた。


       〇


 ジュールは、寺院の集落に一泊すると、買い物を済ませて旅支度を終えた。

 彼が宿を出ると、雨季の終わりを予感させる、澄み渡った空が見えた。そして、暑い日射しを反射する、綺麗な禿頭が宿の入り口で待っていた。ラーズである。

 ラーズは、すっかり泣き腫らした後の赤い目で、鱗と爪の生えた左手を見下ろしながら、思い詰めた様子で尋ねた。


「なぁ、教えてくれんか?」

「おう、なんでも訊くといい」

「お前は、怪物になる条件の一つは、絶望することや言うたやろ、他にもあるんか?」

「ある。というより、順序だな。俺が集めた話だと、〈人食い〉になる人間は、必ずその直前に外部の人間に騙されている。それもかなり手酷いやり口のようだ。その詐欺を受けて、深く絶望したものたちが、人食いになる。何か身に覚えはあるか?」

「おう、あるわ。妹の足を歩けるようにしちゃるって言われて、随分な額払わされた。今思うと怪しい話やったけど、そんときはなんでか、言いくるめられてしもうたんや」

「どんな人物だった?」

「若い女やったな」

「そうか、また違う外見か……」

「なんや、他にも目撃談があるんか?」

「ああ、ときによると大男であったり、老婆であったり、今度は若い女か。姿を変えながら人々を欺く――差し詰め相手は〈ペテンの魔王〉だな」

「お前はそいつを追っとるんか?」

「おう、俺は〈勇者の剣〉を持つ男だからな」

「どうかしとるな、お前。さては馬鹿やな?」


 ラーズは呆れたように笑った。ジュールは構うものかと笑い返した。

 何がおかしいわけでもなかったが、二人は笑い合っていた。

 すると、いつしか競い合うように馬鹿笑いしていた。

 負けず嫌いの馬鹿が、二人いたというだけである。

 酷い事件の後だったが、不思議と二人の笑いに釣られて、宿屋の親父も笑い、集落のものも微かな笑みを浮かべた。もちろん不謹慎だと憤るものもいた。ただ、絶望しているものはいなかった。笑うか、途惑うか、怒るか、そんな人々がいた。どこにでもある光景だ。

 一通り笑い終えると、ジュールは肩を揺すって荷物を背負い直した。「それじゃあな」と別れを告げたが、しかし、ラーズはジュールの横について歩いた。

 ジュールが眉を上げると、ラーズは肩に担いだ三叉槍を揺すって言った。


「手伝っちゃる、暇じゃし」

「そうか、そりゃ助かる」


 二人の男は村々を巡り、〈ペテンの魔王〉を追いながら怪物と戦った。

 やたらと罵り合い、笑い声をあげる二人組の噂は、じわじわと近隣の村々に広がった。その噂の人物は次第に三人になり、四人になり、五人になった。

 しばらくして、〈勇者一行〉と呼ばれる存在が、〈人食い〉から世界を守るために戦っていると、あちこちの村々で囁かれるようになった。〈人食い〉に対する恐怖で疑心暗鬼を起こしていた村々にとって、〈勇者一行〉の存在は一つの希望として育ちつつあった。

 そして、希望の中心にいる男は、伝説の〈勇者の剣〉を持つとも言われていた。


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「俺は旅に出る。この災禍の原因を突き止めて、必ずや元凶を打ち倒す」 馬鹿はこんな事言わない、いや馬鹿だから言えるんだろうけど、馬鹿が言える言い回しじゃない。
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