7 葉月の仕事
水浴びで綺麗になったユカリへ、葉月は桃のジュースではなく、ミネラルウォーターを一瓶用意した。今度はすぐ隣に座って、グラスの角度や、手の持っていき方、口の開け具合などを、補助しつつ、細かいところまで説明していった。
「驚いた。グラスを使うとは存外難しい。これは修練が必要になる」
無表情かつ真顔でそんなことを洩らしていたが、それでも二度繰り返すと、ユカリは拙いながらも一人で飲めるようになった。
もう少し練習するとユカリが言うので、沙流渡にあとは頼んで、葉月は自分に宛がわれた和室へ。
「仕事、仕事……」
予想以上に時間をくってしまったので、少々、巻いていかなければならない。
ありがたいことに、露姫様は和室にちゃんとワークデスクを用意してくれていた。木製でシンプルだが温もりの感じられるデザインだ。天板には充分な広さもある。
そこにノートパソコンと資料、筆記用具とノートを出していった。
「ええっと、コンセント……」
葉月が室内を見回したとき、自分の両肩からふわりと丸い光が二つ、手元へと下りてきた。光の綿毛だ。
「あ、鞠蛍さん」
重さもなく、鳴いたり、ごそごそと音を立てたりしないので、うっかり忘れてしまっていた。
鞠蛍は葉月に忘れ去れていたことなど気にすることなく、葉月が右手に持っているプラグへ向かって、ふわんふわんと交互に小さく飛び上がる。
――くっ、可愛いっ、可愛過ぎるっ。
今日は可愛いもふもふのオンパレードだ。
「君たちに、これを持ってもらえばいいって、露姫様は言ってたけど」
けれど、綿毛のようにも見える鞠蛍へ、がっちりとしたパソコンのプラグなどを渡してもいいものだろうか。
しかし葉月の心配に反して、一匹の鞠蛍がふわんとプラグに飛び乗った。光のもふもふがプラグを包みこんでいる。と、パソコンのモニターを見ると、充電中の表示に変わっていた。
「おお、すごいね、君たち。こんなに小さいのに、パワフルだね」
ふわんふわんと跳ねている一匹と、プラグを呑み込んでいる一匹へ、葉月は心からの賛辞を送る。
パソコン一台をまかなえるエネルギーを生み出しているのに、葉月が触っても、感電したりしないのだ。
――あれ? 本来なら、この子たちもユカリさん並みに危険といえば危険なの……かも……?
そうはならないのは、おそらく、露姫様の眷属だからなのだろう。露姫様の意に反したことは決してしないのだ。
――本当に不思議……。露姫様やトメさんたち、この子たちが、どうしてわたしたちと仲良くしてくれるのか……。
人ならざるものとは、すべからく人の世の範疇を超えるもの、と心得よ。とは、人ならざるものについて語られるとき、戒めとしてよく言われることだ。
――なにがどう、人の世の範疇を超えるのか、わたしにはさっぱりわからないけど……。あ、範疇を超えてるから、わからないのか。まあ、でも、わからなくてもいっか。
ほっこりとした気分で、こうして一緒にいられるんだから。と葉月はプラグに乗っかっている鞠蛍をそっとデスクのうえに下ろし、パソコンを立ち上げた。コンセントに差し込んだときと変わりなく、パソコンは起動する。
「すごいなあ……」
あらためて感嘆の声を洩らすと、二匹の光の綿毛は、ふわんと二匹同時に飛び上がった。嬉しそうだし、すごいでしょ、と自慢しているようでもある。可愛い。すごく可愛い。
葉月は人差し指を伸ばして一匹ずつ、頭かな、と思われるあたりを、ふわふわと撫でた。
「ありがとね。この家で暮らしているあいだ、よろしくね」
ふわん、と二匹は飛び上がる。
そうしているあいだにパソコンが立ちあがり、葉月はモニターへ向き直って、仕事を始めた。アプリケーションを立ち上げ、資料を拡げる。
葉月の仕事はイラストレーター兼デザイナーだ。
美術部に入ったり、美術関連の学校で勉強したり、ということはしていなかったが、葉月は物心ついた幼いときから、絵を描くのが好きだった。
学生のころは、勉強と友達と遊ぶ以外は、絵を描いて過ごしていた。
主に描いていたのは、ふわふわしたもの。
身近な猫や犬から始まって、ウサギ、インコ、と小動物になり、次第に綿毛や丸い花なども描くようになっていった。
今では大型肉食獣でも、もふもふしていれば夢中になって描く。一見たてがみがもふもふなライオンよりも、アムールトラやユキヒョウの方が全身もっふもふなので、もふもふマニアである葉月としてはオススメだ。
閑話休題。
ともかくそうして長年、葉月が趣味として愛すべきもふもふたちを毎日のように描いていたところ、幼馴染みの浅輪菫子からデザインの仕事を依頼された。大学一年のときのことだ。
菫子の趣味は物作りだった。興味を持ったものはなんでも作る。ぬいぐるみ、刺繍、編み物、パッチワークキルト、ビーズアクセサリー、レジン、などなどなど。彫刻を施した木工細工に留まらず、DIYにまで手を出していた。ちょっとした棚や箱ならあっという間に作り上げる。
その菫子から、フェイクファーを使った小物を作って販売してみたい、と葉月は話を持ちかけられたのだ。自分でデザインを考えてもいいが、もふもふを愛して止まない葉月ならば、一人で考えるより、ずっと面白いアイディアやデザインを提供してくれるのではないか、と思ったらしい。
そのときは、丸に近い円筒形のポーチを作った。両端に長い尻尾と耳が付いていて、猫が香箱座りしている感じだ。
菫子がメインとなってまとまった数の猫ポーチを作り、ハンドメイドの通販サイトを通して販売をした。ラッピングなどのデザインを考えるだけでなく、梱包や発送などの雑務も手伝った。売上はささやかなものだったが数日で完売した。それが嬉しくて嬉しくて、学業のあいまに菫子と二人、せっせと小物を作っては通販サイトで販売を続けた。
若さゆえの怖れ知らずで、思いついたことを片っ端からやっていったら、二人が大学を卒業するころには、社員を三人抱える、小さいながらも立派な会社となっていた。会社名はバイオレット&オーガスト。二人の名前そのままだが、二人揃ってネーミングセンスは皆無なので「もうこれでいいや」と二人揃ってなかばヤケクソで決めた。もふもふカンパニーという案も出してみたが、菫子に即却下された。社長役は言い出しっぺの菫子に任せ、葉月はデザインとイラスト時々企画を担うこととなった。
ちなみに現在は、女性向けのファッション小物だけでなく文具や雑貨も手掛けるようになり、葉月と菫子を含めると社員は七人に増えている。
さらに最近ではバイオレット&オーガストの仕事が縁で、葉月はぽつぽつと純粋なイラストの仕事も受けている。ありがたいことに、そのほとんどはもふもふ関係である。もちろんそれは、葉月のもふもふにかける熱意と、もふもふの表現力の高さによるものでもあった。
「さて、と……」
ノートパソコンに繋げたマウスに手を掛ける。
ユカリのことで、竜遊舎でしばらくお世話になることは、SNSで菫子に伝えてある。
もともと葉月は仕事のほとんどを自宅でしているので、とくに影響はないはずだ。なお、バイオレット&オーガストは「一人一人が自由で自主独立、けど面白いネタはシェアしよう」がモットーで、事務所として借りているマンションの部屋はあるが、自宅でできる仕事は自宅でもしてよいことになっている。仕事内容によっては喫茶店や図書館でもオッケーだ。ノマドっぽいこの勤務形態は、菫子と二人、やりたい放題思いつくままやって来た結果の一つであったりする。
メールをチェックすると、いくつかの業務連絡が入っていたが、どれもルーティンや確認事項だったので、順番にさくさくと返信していった。
次いで葉月はペイントソフトを立ち上げた。作業の途中になっているファイルを開けて、タブレットのペンを手にする。なんとはなしに、鞠蛍たちのふわふわの頭をちょいちょいと撫でてから描き始めた。
今、描いているのは、今年の年末に出すクリスマスカードのイラストだ。
クリスマスのオーナメントやケーキを背景に、子猫や子犬、小鳥、ウサギなどの小動物、クマやライオンをはじめとする大型肉食獣の子供など、もふもふの可愛い子たちにサンタ帽を被せ、金の箔押しでクリスマスの祝いの言葉を英語で綴ったものだ。
二年前から描いているシリーズで、毎年、取引先から好評をいただいている。バイオレット&オーガストのオンラインショップでは、特に人気のあったイラストを特殊紙に高品質な印刷をして、額で装丁を施すという受注販売をするくらい、人気がある。
今年は企画の段階で、他の社員や取引先のもふもふを愛する人々から、色々とリクエストがあった。なので、すべてが商品になるとは限らないが、リクエストされた動物を描けるだけ描いてみようと思ったのだ。
「はぁあぁぁ、チーター可愛い……」
成獣はすらっとした胴体と長い脚を持った、地上最速の肉食獣だが、赤ん坊のころは頭も身体も丸っとしたもふもふである。とろんとした無垢の眼差しは、とても肉食獣とは思えない。
「なんでこんなに可愛いんだろう……」
可愛い可愛いとぶつぶつ独り言を洩らしながら、用意した資料を参考に、葉月はせっせとペンを動かしてモニターに丸いもふもふを描いていく。
丸い頭、あってなきがごときの小さい丸い耳、つきたての餅のような丸っとした身体。夢中になって、飽きることなく毛の一本一本から表現していく。
ふわっと見せるために、水で滲ませたような水彩画風のタッチだけで妥協せず、葉月は細い毛を丁寧に描くことで、他の追随を許さない、もふもふの世界を作り上げたのである。もふもふをいかにもふもふに描くかに、葉月は執心し、時間も労力も一切惜しむことはない。
もふもふがいかに素晴らしく、可愛らしく、人の心を癒し、また鷲掴みにしてくるのかは、誰もが知るところである。異論は認めない。動物が苦手だという人であっても、映像でもふもふの子猫や子犬がよちよち歩く姿を目にすれば、可愛いと相好を崩すのだから。
とまれ、そんな情熱を傾けて、葉月はもふもふを描くことに打ち込んだ。
「――葉月ちゃん」
「はっ」
ぽんと肩を叩かれるまで、周囲からの情報は葉月の五感から一切シャットアウトされていた。
顔をあげれば、すぐ隣にトメさんが。
長身を屈め、スカイブルーの前髪を揺らし、マリンブルーの目を細めて微笑んでいる。
「そろそろ飯時だぞ」
「……あ、すみま、せん……」
不意を突かれたせいで、葉月は激しく動揺した。
――あれ? お、おかしいな……。結構、慣れてたはずなのに……。
イケメンの、しかもどアップの破壊力たるや、想像以上のものだった。葉月の言語能力は木っ端微塵に粉砕された。やばい、言葉が出てこない。
はくはくと口ばかり動かしている葉月には気付かず、トメさんはノートパソコンのモニターに目を落として、瞠目する。
「すごいな……」
「はい……?」
いまだ言語能力が再起動せず、葉月はただ首を傾げるしかできなかった。トメさんは、なにを喋っているんだろう。わあ、トメさんの瞳、キラキラ。南国の海そのものみたいな色してる。
「葉月ちゃんが仕事で絵を描いていることは聞いていたが、猫の子がそこにいるみてえだな。大したもんだ」
「……あ、ありがとう、ございます……」
「よければ今度、葉月ちゃんが描いた、他の絵も見せてくれねえか?」
ようやく言語能力が再起動した。
「……あ、えーと、わたしの絵で、よければ……っ、わっ!」
視界の端から小さななにかが、葉月の頭目掛けて飛んできた。頭にびしっと小さな衝撃が伝わったと思うや、前髪を掴んでその小さいなにかがぶらんと目の前にぶらさがった。杏色のコザクラインコだった。
杏色のコザクラインコは逆さまでぶらさがりながら報告する。
「深山殿、グラスで水やジュースが飲めるようになった」
おでこがインコの胸やお腹にもふもふとくすぐられる。あったかくてふわっふわな感触に葉月は相好を崩す。テレビのまえで、子猫や子犬に相好を崩す人々のように。
「わあ、それはがんばりましたねえ……!」
どこかだらしのない声になってしまったのは、インコのお腹がふわふわなせいだ。
「それはいいが、葉月ちゃん、腹はすいてねえか?」
「あ、まだ大丈夫――」
です、と言うより先に、腹の虫の方が正直に、ぐう、と鳴った。
恥ずかしすぎる。
「飯にするか。今日は他にも人がいるしな」
人ならざるものであるトメさんとユカリは食事がなくても問題ないが、葉月と沙流渡は必要だ。
「わたし作ります」
「一緒に作りゃあいい」
立ちあがろうとした葉月へ、トメさんは夜会で淑女にするように、さりげなく手を差し出した。断るのもおかしいし、ここにはツッコミを入れてくる輩もいない。葉月は開き直ってトメさんの手に自分の手を重ねた。
けれどつい、照れ臭くて下を向いてしまったことは、どうか大目に見てほしい。