4 露姫様は面白がっているだけ
じっと見据えられて、葉月はぽつぽつと言葉を紡いだ。
「えっと、そうですね、毎日、使ってあげればいいんじゃないでしょうか。私は天然水や好きなお茶を注いで、傍に置いて、仕事の合間に飲んでます。あと、飲み終わる都度、綺麗に洗って食器棚に片付けてます」
ごく普通のグラスの使用方法だが、人ならざるものであるユカリには、細かく説明しないと伝わらないだろう。
「水でいいのか」
「私は甘い飲物が苦手なので、水とお茶にしていますが、ユカリさんの好きな飲物でいいんですよ。――あ、これって耐熱硝子でしたっけ?」
「タイネツ?」
今度はトメさんに首を傾げられた。
「熱湯をいきなり注いでも割れたりしませんか?」
「ああ、そういうことか。なら、大丈夫だ」
「ドラゴンブレスで作られたグラスですから、沸騰しているお湯どころか三百度を越えた油でも平気なのではありませんか?」
古物商の沙流渡が訳知り顔で言った。客としてユカリを紹介するくらいなので、人ならざるものたちを主な客として商いをしているのかもしれない。
「なら、熱い飲物も平気ですね。ユカリさんはどんな飲物が好きですか?」
「酒と果汁が好きだ」
そうだろうな、と葉月は胸のうちで頷いた。
露姫様から聞いた話だと、神様や神使、幻獣と呼ばれる種族は、古今東西、基本的には天然の清らかな水、神酒、果汁が好きなのだ。
ちなみにドラゴンのトメさんは酒より果汁、それも絞りたてのフレッシュジュースが好きだが、日本では好奇心の方が勝って、水でも酒でもお茶でも、興味があればなんでも喜んで飲んでいる。
「なら、水やお酒をそれで飲んであげてください。飲み終わったら、綺麗に洗ってあげてください」
「あなたは仕事の合間に飲んでいると言ったが、やはり近くから離さぬ方が良いのだろうか」
「それはそうだろう」
答えたのはトメさんだった。
「あんたに付き従っている、その古物商のことを考えてみればわかるだろう。ともに過ごす時間が長ければ長いほど、情は深まる」
へー、と葉月はトメさんの比喩に感嘆を覚えた。
――トメさんのなかでは、グラスも人も等しいものってことなのかも……。
ユカリは沙流渡を見て、またトメさんへ向き直ると頷いた。
「たしかにそうだ」
葉月には完全に同じとはいかないけれど、それでも情が移るというのはよくわかる。大切という気持ちは、愛しいという気持ちにも通じる。トメさんに作ってもらったグラスが、もし、ハムスターやインコなどだったら、人だったら、と想像すれば、大切な家族や友人と思っているだろう。
「だが……」
頷いたあと、ユカリは無表情のなかに困惑を漂わせた。
「普段の私は人の姿をとらない。だから器を用いることもない。このグラスと情を交わすために人の姿で暮らすにしても、私の棲まいは人の姿で暮らすには適していない」
一旦、言葉を切ったユカリは逡巡して、躊躇いつつも口を開いた。
「あなたの棲まいで、しばし暮らしをともにしたい。人がどのようにグラスを大切に扱うのか、学ばせてほしい」
「……はい?」
「あなたの棲まいで、しばしともに暮らしたい」
ようようユカリの言葉の意味を呑み込むことができるや否や、葉月は慌てた。
「そんなの無理です! うちは二人で暮らせるほど広くはありません。それに仕事もあるので、ユカリさんのお世話までできません」
早口で断ったが、ユカリは淡々とした口調と無表情で食い下がった。
「世話などいらない。あなたのグラスをどう扱うのかを見せてもらえればそれでいい。この姿で邪魔だというなら、これならばどうだろうか」
ふわりと金色の光がユカリを包みこむと、次の瞬間には光が花びらように解けて、そこには朱金の色をした鳥が翼を打ち付け、音もなく座卓のうえに舞い降りた。
鷹や鷲に似ているが、体格は鳩よりも小さい。炎に照らされた黄金を思わせる、きらびやかな羽毛に包まれていた。
――ま、眩しい……っ。
真夏の太陽を彷彿とさせるまばゆさで小さな猛禽はキラキラと煌めいている。
目をしょぼしょぼさせながら、それでも葉月はへこたれなかった。
「こんな眩しくちゃ、なおさら無理です」
あっ、とトメさんが声を上げたが、それに葉月が問いかけるより早く、鳥になったユカリが頷いた。
「ならばこれで」
もう一度羽ばたくと、小さな黄金の猛禽は小さな黄色のインコになった。尾羽が短く、顔と胸が杏色のグラデーション。ずんぐりむっくりしたコザクラインコだ。くりっと黒いつぶらな目でユカリは葉月を見上げた。
つい先程、インコみたいだと葉月は思ったが、ユカリはインコそのものになった。
「止まり木代わりのものを用意してもらえれば、それで充分だ。もちろん、グラスを使うときには、人の姿にさせてもらうが」
コザクラインコが小首を傾げてこちらを見上げる。可愛い。もっふりしていて非常に可愛い。可愛すぎる。
葉月はほわんとして、はい、と了承しそうになった。そのとたん、
「駄目だ」
鋭い口調でトメさんが言った。
葉月ははっと我に返る。
「どんなに姿を変えたところで、あんたは人ならざるものだ。葉月ちゃん一人の家に棲まわせるなんてこと、させられるわけがねえだろうが」
トメさんの頑なな警戒心に葉月は首を傾げた。
表情のない絶世の美女っぷりには、葉月も初め警戒していたが、グラスのことで一喜一憂する様子から(ずっと無表情ではあったけれど)、すっかり気持ちは緩んでいた。座卓のうえでちまっと佇んでいるコザクラインコは、葉月からすればただただ可愛いの一言である。
「あの……インコになったユカリさんと同居することの、どの辺がよろしくないんでしょうか?」
「こいつは火を使う。しかも、こちらの神々の監督下で何年か生活したあとならともかく、日本にやって来たばっかりじゃねえか。寝惚けたはずみに家を燃やされかねねえ」
ひょえっ、とおかしな声が出てしまった。たしかにそれは困る。
「話は聞いた……!」
すぱんっ! と勢いよく襖を開けて現れたのは、露姫様だった。デニムのショートパンツに半袖のTシャツという、いたって気軽な格好をした和風美人。
長く癖のない艶々な黒髪は後ろで高く結われ、首から上だけであれば、絵に描いたような江戸時代のお姫様のよう。
しかし一方、すらりとした白い足は惜しげもなく晒され、着ている水色のTシャツの胸には『昼寝の達人』とか意味不明な言葉が飛沫の散る激しい筆遣いで黒く書かれている。
「氏子の一大事だってぇのに、いらっしゃるのがちょいと遅くはねえですか?」
トメさんから冷ややかな眼差しを送られたが、露姫様はいっこうに悪びれない。
「西瓜を食していたからの。手と顔を洗ってから来たのだ」
ずかずかと和室に入り込み、ぐるりとその場にいる全員を見回した。
「そなたは目利きだの」
座卓のうえにちょこんと立っている黄色と杏色のコザクラインコへ向かい、露姫様は腕組みをしながらそう言った。
「トメの作る硝子細工はどれも見事なものばかりだ。そなたが執着する気持ちもようわかる。だが、人ならざるものとして、守らなければならぬ法がある。人のなかに交わろうとするなら尚更のこと。それはもちろん承知していような」
「うむ」
もふっとしたまん丸の頭を可愛らしく下げて、ユカリは頷いてみせた。あまりの可愛さに、はたから成り行きを見守っていた葉月はウズウズした。ぴょこっと頭を下げるあのポーズ、知ってる。あれは頭撫でてのポーズだ。可愛い。すごく可愛い。
そんな葉月のウズウズした内心を知らず、ユカリはもふっと膨らんだと思うや、ぷるぷると震えて細くなった。
「むろん守る」
「ならば良い――」
「ちょっと待った!」
露姫様の言葉を遮って、トメさんがふいに声を荒げた。
「そいつは日本にやって来たばかりだろうが。そんな右も左もわからねえヤツを、葉月ちゃんと一緒に生活なんぞさせられるか!」
「トメよ、人の話は最後まできちんと聞かぬか。こういうときにこそ、普段の物臭さを発揮して、アザラシのごとく転がっておれば良いものを」
やれやれと、幼い子供に言い聞かせるように、露姫様はトメさんへと身を屈め、人差し指を立てて言葉を続けた。
「むろん、葉月と二人切りというのは、危うい。離れていてはわたしとてとっさに対処できぬからな。だから、ここでそやつと葉月をトメ――そなたと同居させるのだ」
「……はい?」
葉月とトメさんは同時にぽかんとした。
ユカリと沙流渡も露姫様の意図がわからないようだった。二人して無表情かつ無反応で、仁王立ちしている露姫様をただ見上げている。
「トメの家はわたしの縄張りに重ねて建てられておる。表向きは人の建てたままにして、奥だけ部屋数を増やせばよい」
「……そんなことができるのか」
「わたしの手に掛かれば、ちょちょいのちょい、というヤツだの」
露姫様は背筋を伸ばし、人差し指を魔法のスティックさながらに振る。
「ほれ」
ぴっと指さした壁へ四人が目をやれば、そこにはいつの間にか、真新しい襖が現れていた。
「開けてみよ」
トメさんへむかって、露姫様は顎で指図する。むっつりしながらもトメさんは襖を開ける。そこには今葉月たちがいる和室とよく似た、しかし十二畳ほどの真新しい和室が広がっていた。そこへトメさんがのしのしと入っていって、和室の反対側にある襖を開けると、そこにはぴかぴかの廊下があって、向かいには別の襖があった。その襖が開けられると、十二畳ほどのやはり新しい和室があった。
「風呂場や便所も洗面所もトメとは別に用意したぞ。なお、水回りの参考にしたのは箱根の老舗旅館だが、リクエストがあればいつでも変更を加えてやろうぞ」
えっへんとばかりに露姫様が葉月に向かって胸を張る。
「いや、そういうことじゃねえでしょうが……!」
のしのしと足早に戻ってきたトメさんが、焦りもあらわに露姫様へ抗議を始めた。
「俺は露姫様に、そいつが葉月ちゃんと暮らそうとするのを阻止してほしいんですよ。その上で、葉月ちゃんにちょっかいを出せねえように、氏神として葉月ちゃんを守ってほしいんです……!」
アグレッシブな服装はともかく、黒髪のなよやかな佳人へと、青い髪の偉丈夫が屈み込んで必死に言い募っている。
「俺が守ってやれればいいが、俺がこの国でできることは限られている。姫様に頼るしかねえんですよ」
言い募るトメさんを見上げ、露姫様は生温い眼差しで息をついた。
「トメよ、悋気もほどほどにな」
とたんにトメさんはたじろいだ。
「……っな、な、にを言って……!」
「ここでつっぱねても、あの様子では、葉月が了承するまであやつは葉月に付きまとうぞ。ならば、ここでそなたとわたしの目の届くところで望みを叶えてやるのが、得策というものだ。違うか、トメ」
「……」
トメさんは返す言葉もない。
「それにのう、わたしが見たところ、葉月はあと十分もしないうちに陥落するであろうな」
葉月とユカリへと目を戻したトメさんはがっくりと肩を落とした。
杏色をしたコザクラインコ姿のユカリは、体勢が斜めになりながらも、上げた片足を目にも留まらぬ早さで動かして、気持ちよさそうにもふもふなほっぺたをかいていた。
それを葉月がほっこりとした表情で見守っている。
「葉月よ、ここでそやつと棲むか?」
「あ、はい」
露姫様の問いかけに、葉月はほっこりした笑顔で躊躇いもなく首肯した。
「葉月ちゃん……」
「トメよ、これも試練だのう」
しみじみとした露姫様の声に、トメさんはさらにがっくりと肩を落とした。
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