1 グラスの修理とトウモロコシ
一瞬の迂闊。
「あっ!」
大きくマウスを動かした手に押され、麦茶を入れていたグラスはカシャンと脆い音を立てて床に落ちた。
「あー……」
床板に拡がる麦茶より、散らばったグラスの破片に葉月はへこんだ。
「よりにもよって……」
テーブルの足の上に落ちるとは。
資料を乗せているテーブルは、ネットで見つけた猫足の小洒落たもの。いつもは部屋の隅に置いているのに、今日に限って資料が多く、わざわざパソコンデスクの脇に置いて使っていたのだ。天板は木製だが、足は真鍮製だった。
葉月は仕事を中断し、キッチンからキッチンペーパーを敷いたボウル、バスルームからは雑巾を持ってきた。
まずはグラスを拾いあげる。
まろみを帯びたフォルムの、明るい水色と藤色のグラスだ。つるりとした無色透明な硝子の下で、細かな結晶が水色と藤色できらきらと流水文様を描いている。ところどころに水草のような小さな緑のきらめき、陽光のような小さな金色のきらめきが混じっている。夏に使うのにはうってつけな、涼しげなグラスだ。
そのお気に入りのグラスの縁の部分が二センチほど三角に欠けてしまっていた。
「うう……」
お気に入りの一品の、変わり果てた姿からのダメージは大きかった。葉月は呻きながら、グラス本体と散らばった破片をボウルに入れていく。破片は丁寧に、どんな小さな破片でもできる限り集めておく。
それから雑巾で床とテーブルの猫足を拭いて綺麗にすると、欠けてしまったグラスと破片を洗い、大きめのタッパーに詰めた。
「……トメさん、いるかなあ……」
呟きながら、ささっと日焼け防止の軽い化粧をして、セミロングの髪をブラシで梳かし、身支度をした。
目的地は葉月の住むマンションから徒歩五分の距離にある。気分転換の散歩がてらと思えば、あらためて連絡しておかなくてもいいか、と葉月は家を出た。
七月の陽射しは容赦なく眩しい。ジリジリと暑い。
葉月は街路樹の陰を選び、タッパーを入れたトートバッグを手に、てくてくと細い裏道を抜けて商店街へ。
「あ」
八百屋のやお源さんの前を通ると、ちょうど旬のトウモロコシが店先に並んでいた。どれも大きくて、ふさふさの黄色いヒゲと瑞々しい淡い緑の葉っぱに包まれている。一本手に持ってみるとずっしりと重い。一皿五本で七百円。お買い得である。
「いらっしゃい」
「トウモロコシを一皿ください」
「まいど、七百円だよ」
「はい」
小銭と引き換えにトートバッグに入れてもらう。これで準備万端である。あとはトメさんが工房にいれば、グラスを直してもらえるだろう。
葉月は八百屋をあとにして、またてくてくと歩いていく。商店街のなかほどで小さな神社の角の小道を曲がった。
その小道の突き当たりには二階建ての真新しい日本家屋が建っている。小道の幅そのままで、間口は広くない。表札も真新しく、白木の板に艶々した黒漆の文字、流れるような筆跡で『竜遊舎』と書かれている。
葉月は玄関の呼び鈴を押した。家のなかからコロンコロンコロンと軽やかな硝子の音が聞こえてくる。
「――はい、どちらさま?」
すぐに大きな人影が玄関扉の曇り硝子の向こうに現れた。
「葉月です。こんにちは」
からからと引き戸が開けられ、藍染めの作務衣をまとった若い男が顔を出した。ざっくりと短く刈られた髪は夏空を糸にしたような鮮やかなスカイブルー。瞳の虹彩は淡く緑がかった眩いマリンブルー。瞳孔は黒だが紡錘型をしている。驚くほど整った容貌をしている彼は、人ではない。
現実離れした美貌に葉月も初対面ではドギマギさせられたが、三年半のご近所付き合いですっかり慣れてしまった。
「おう、葉月ちゃんか。どうした」
「こんにちは、トメさん。突然ですみません。グラスを落としてしまって、縁が欠けてしまいました。修理してもらえますか?」
「まあ、上がりな」
「おじゃまします」
玄関の下駄箱のうえには、茄子紺色のほっそりとした一輪挿しの花瓶。とても綺麗なのだが花は生けられていない。トメさんは夢のような見た目を裏切って、仕事以外のことに対してはひどく物臭なのだ。本当なら一輪挿しも片付けてしまいたいとぼやいていたこともあったが、それができないでいるのは、やったら最後、彼の弟にしこたま説教されるからであった。
ちょっと猫背な藍染めの後ろ姿について廊下を進み、六畳の和室に通される。入って向こう側には和室の三倍はある土間が広がっている。土間はトメさんの工房、家の半分を占領している作業場だ。
草花が茂る小さな庭に面した土間の硝子戸は、今は閉ざされている。トメさんには夏の暑さも関係ないはずなので、葉月のために室内が涼しくなるよう、初夏の暑さを閉め出してくれているのだろう。
「見せてみな」
藺草の座布団をすすめられてから、葉月はタッパーごと割れてしまったグラスをトメさんに渡した。
座卓の向かいに腰を下ろしたトメさんは、欠けたグラスを骨太な指で摘まみあげ、マリンブルーの目のまえでくるりと回す。
「金属とぶつかったか」
「ご名答です。真鍮のうえに落ちました。……あの、直りますか?」
「欠片もほぼ揃っている。若干、色や文様は変わっちまうが直せるよ」
「良かった。それ、すごく気に入ってるんです」
「ああ、大切に使ってもらってるってのは、ちゃんとわかるぜ」
グラスをタッパーに戻し、それを手にしてトメさんは立ちあがった。
「ちょっと待ってな」
鋭い犬歯、もとい牙を覗かせてニッと笑う。
草履をつっかけて土間に下りると、トメさんは欠けたグラスと破片を手にした。素手のまま、左手に乗せたそれを目の前まで持ち上げる。息を吸う。グラスに向かって吹き付けられたのは吐息ではなく、青い高温の炎。グラスは青い炎に包まれて、赤く色を変えていく。小さな欠片は炎のなかでキラキラと舞い上がり、それぞれが意志を持っているかのように、グラスの欠けた縁へ戻っていく。
そのあいだも、トメさんはおのれの手のなかに向かって、細く長く青い炎を吹き続けている。硝子が赤く柔らかくなるほどの高温であるはずなのに、その手は燃えるどころか赤くなることすらない。
炎の輝きに目がチカチカしてきたので、葉月は途中でトメさんの横顔へと目を逸らした。トメさんは瞬きもせずにグラスの変化を凝視している。マリンブルーの瞳を活き活きと輝かせ、葉月には見えない力でもって、グラスを元の姿へ戻していく。
――何度見ても、不思議な光景だなあ……。
トメさんはドラゴンなのだ。
元々、キラキラした綺麗なものが大好きで、日本に遊びに来たときに、日本の硝子工芸品のあれこれを目にして、その造詣の、他の国の硝子製品にはない繊細さに惚れ込んでしまったらしい。
四年前、隣の白露神社に祀られている龍神様経由で神主さんに頼み込み、神社の敷地の隅っこにこの家を建て、それ以来硝子工芸品を作りながら暮らしている。
白露神社の御祭神である龍神の露姫様は、ことあるごとに酔狂なことだと零しながらも、幼子相手のように微笑ましくトメさんの暮らしを見守っておられる。
――あ、そうだ。あとでもう一度やお源さんでトウモロコシを買ってきて、お隣の露姫様にもお供えしよう……。
お供えとは言っても、葉月は神主の露木さんに渡すだけだ。露木さんの奥さんが茹でて、おやつかなにかで露姫様に出してくれるだろう。
葉月がぼんやり考えごとをしていると、トメさんが綺麗になったグラスを片手に和室へ戻ってきた。
「直ったぞ」
「ありがとうございます! 私が触っても、もう大丈夫ですか?」
トメさんの手は高熱を物ともしないので、硝子に限らず、熱したものが冷めたかどうかの確認は必須だ。
「ああ、大丈夫だ」
受け取ったグラスは、ぱっと見ただけでは、どこが欠けていたのかもわからない。キラキラと煌めいている縁をぐるりと回して見ていくと、一部、葉月の記憶と少しだけ色が違っている箇所があった。流水のような明るい水色が、わずかに緑を含んでそこだけ水底の深さを増している。
「はー、やっぱり綺麗……。色が少し変わったのも、川の景色が変わったみたいで大満足です。突然のことだったのに、ありがとうございました」
「なんの、お安いご用だ。なにかあったら遠慮しないで、いつでも持ってきな」
「はい。あ、お礼を用意したいんですが、台所借りてもいいですか?」
「構わねえが。修復代はなんだ?」
「旬のトウモロコシです。やお源さんで見つけたので買ってきました」
「茹でてくれるのか」
「はい、任せてください」
繰り返しになるが、トメさんは物臭だ。生のまま渡すと、生のまま食べるか、焼き加減を失敗して焦げ焦げのトウモロコシを食べることになる。硝子を溶かすときは繊細かつ慎重に火を扱うのに、他のことになると周りがびっくりするほど適当になるのだ。
トウモロコシが生でも焦げ焦げでも、ドラゴンであるトメさんはお腹を壊すことがない。とはいえ、せっかくの旬のトウモロコシなので、どうせなら美味しく食べていただきたい。
――ファンタジーではお馴染みの、ドラゴンブレスで焼いたトウモロコシっていうのも、ちょっと食べてみたい気もするけどね。
葉月や知り合いが頼めば嫌とは言わないだろうが、焦げ焦げになるのは目に見えている。
去年の秋にトメさんが焼き芋を焦がしたことを思い出し、葉月は笑いを噛み殺しながら、こぢんまりとした台所へ入っていった。
恋愛要素はまだまだ少なめですが、よろしくお願いします。