18.アリバイになんの意味がある
「啓子さん……いえ、道場さんには速達でお伝えしたことですが、交渉の条件はご理解いただけたでしょうか。今日はよろしくお願いいたします」
「最初に言っておきますが、私たちにはアリバイがありますからね」
「そうだよ! だからぼくたちじゃない」
ぴしりと伸ばした両腕をひざに置き、きつい目つきで言い放つ母親。前のめりになって念押しする息子。事務所の応接スペースに似合わない威圧感で、健一と啓子はそこにいた。
引き戸が開いたときからこの調子。焦りといら立ちが見え隠れ。
テーブル越しに、西沢とふたり受けて立つ。ひと筋縄ではいかない、おそらく糾弾してくるだろう。目に見えていたことだが、こうして対面するとやはり背中に寒気が走る。それでも、絶対に気おされないようにするのが彼の目標だった。
――証拠なら持っているのだから。
アリバイに、なんの意味がある?
「自動販売機の近くから走り去る不審者が目撃されたのが、9月25日の16時ごろ。そのとき私は、デイサービスの利用者さんたちを車で家までお送りしておりました。その方々にも証言していただいたはずですが。もちろん自動販売機がある場所とは別の地区しか通っていません」
「ぼくがその日飲み物を買っているところも、近所のおじいさんが見てたって言ってましたし」
「そうでしたね。ただ、健一君が話してくれましたので」
振り返って目くばせすれば、ふだん西沢の使う事務机で見守る少女。英樹が座る黒革のソファからでも、真剣な顔でうなずくのが見えた。
「あれは探偵さんがおどしてきたから! しょうがなく嘘ついたんだ」
「あの日、帰ってきたこの子は泣いていました。逃げ場のない建物の中で問い詰められて、とても怖かったんだと。どうしてくれるんですか!」
ダイナミックな身振り手振り。悲壮な表情と声音。矢継ぎ早に動き、厚塗りの紅が輝くくちびる。それらがすべて、芝居がかる一歩前で止まっている。演劇をやっていれば成功しただろうに。それが英樹の素直な感想。
なるべく刺激せずに、でも本心と理由は引き出したい。本来それを聞くのは警察の仕事。しかし、探偵は個人的に知りたかったのだ。彼が純粋悪ではなかったとしたら?
あの日少年が漏らした気持ちのかけらに、自分たちと近しいものを感じていた。
「では聞いてみましょうか。あ、もし力ずくで奪おうものなら場合によっては通報しますよ」
おだやかで冷静な表情のまま。スーツの胸元からボイスレコーダーを取り出す。一週間前の音声が鮮明に収められている、それを。
健一の顔がやや引きつったのを見逃さない。見せつけるように、ゆっくりとボタンを押した。
☆
ひと通り流れたあとの重たい沈黙。それを破ったのは、怒りを隠しきれない母親の声だった。
「あの日、健一君は毒殺未遂がでっち上げであることを認めた。お母さん――道場さんが手伝ったとも。これは事実です」
「『君が自分でやったんだね? そして、お母さんも協力している。違う?』」
録音の中、英樹のセリフの繰り返し。それだけで、啓子はこの場を支配した。
「この子に『はい』って言わせたいのが見え見えですよ。ここだけじゃなくて、全体的にそう聞こえます」
「結果として逃げ道を消すかたちになったのは認めます。ただ、間違っても問い詰めたりおどしたりはしていません。論理的にことを進めたつもりです」
「つもりじゃダメなんですよ。大切なのはこの子がどう思ったかで。ね、健一」
「割り込んですみませんがね、あたしから意見言わせてもらいますよ。なぜって、一番中立に近いもの」
事態に巻き込まれている。英樹から沼田での話を聞いてもいる。ほんの少しだけ協力もした。けれど、調査自体には少しも触れていない。依頼の行く末より、探偵と少女のメンタルを心配していそうに見える。
限りなく傍観者に近い存在、それが彼女だった。
「実は今初めて聞いたんですけどね、白鳥所長はずっと冷静に接していると感じました。健一君は途中から感情むき出しのようですが、それでも変わらず。恫喝も脅迫もなくて、健一君が自分からしゃべったように聞こえます」
目が見開かれ、口角が下がるのが見て取れた。調子のいい明るさはなりをひそめ、実直さがうかがえる顔つきに。
話しているのは単なる感想。にもかかわらず、たしかな説得力があった。テーブルの向こう、ふたりはなにも言えないでいる。
焦点はどう聞こえたか、どんなつもりで言ったか。とどのつまり、当時の心情と感じ方の問題。証拠はないのだ、水かけ論にしかなり得ない。感情で押し切るのはむずかしいと悟っているのだろう。
生まれた空白に、英樹は言葉を投げ入れた。真実を語ってもらうためのちょっとした作戦。
「電話でお伝えしたこと、覚えていますでしょうか? 自作自演だったにしろ違うにしろ、事実を話してください。そうしたら、これを聞かせてあげますとね』
胸ポケットに戻していたボイスレコーダーをもう一度取り出して、立てたままくるりと回す。構造と機能がわかりやすいように。
「ふたつの音声を同時に保存できるすぐれものでして。前述した通り、もう一方の音声は、依頼人からの告発電話です。つまり、私があなたがたを調べ始めたきっかけ」
そんなものは実在しない。あるのは西沢の協力で録音したニセの音声。事務所の電話にボイスチェンジャーを取りつけ、彼女の家にかけたものだ。
そうとも知らず、健一の腕が半端に上がる。ボイスレコーダーに手を伸ばしたくてしかたないのだろう。諌める意も込めて、おだやかな口調のまま告げた。
「問答などしなくても、本当のことをお話しいただければすぐに聞けるんですよ。言いにくいのでしたら、ひとついいことを教えます」
「そう言って悲報だったりしませんよね」
疑り深そうながら、少年はそっと腕を下ろした。
「安心して聞いてください――もしおふたりの自作自演だったとしても、罪に問われることはおそらくありません。ほら、いいことでしょう?」
「……本当ですか?」
眉間に寄っていたしわが消え、笑顔が浮かぶ。目に見えてふたりの表情が輝いた。輝いてしまった。
露骨に安堵するというのがなにを示すのか、そこまでは考えが回らなかったのだろうか。内心ほっとしながら、英樹は続ける。
「法律の話、しかも今回は特殊ケースの可能性が高いです。少々大変かもしれませんがおつき合いください」
特に美穂と健一君、ごめんな。脳内だけでつぶやいた。少なくとも美穂には伝わったようで、うしろを向くと笑顔が見えた。
冷めたほうじ茶を飲み干して、湯のみを置く。ここまでずいぶん緊張していた。一呼吸おくのは大切だ。
そうして彼は解説を始める。美穂に勉強を教えるときのように、わかりやすさを重視して。
「あくまでも、もし自作自演をしていたのならという仮定の話で進めますね。まず、健一君は罪に問われませんし、少年院に送られることもありません。刑事責任――犯罪に対して罰を負う責任があるのは14歳からで、健一君は13歳ですので。これはわかりやすいですね。まだ子どもだからということです」
右腕を軽く広げて顎をしゃくる。ここまでは大丈夫ですかという確認の姿勢。親子は神妙な顔でうなずいていた。
「……問題は道場さんの件です。罪を問われこそしませんが、健一君の罪状は軽犯罪法第一条の16.『虚構の犯罪又は災害の事実を公務員に申し出た者』にあたります。要するに犯罪のでっち上げですね。軽犯罪は文字通り軽度の犯罪としてくくられている行為のことで、刑罰もごく軽いです。科料、1万円未満のお金を取ることなどですね。罰金と言えばいいじゃないかと思われるでしょうが、あれは1万円以上なのでまた違います」
「それが私に関係あるんですか?」
「大ありです。話はここからで、罰金より軽い刑の犯罪では、原則として共犯は処罰されません。ですが、軽犯罪法に違反した犯人の場合は、共犯も罰を受けるんです」
「えっ、じゃあ」
話が違うじゃないか、と啓子の顔には書いてある。戸惑いが見える。感情を操っている自覚があった。
「――と、お思いですよね。啓子さんの罪状はおそらく犯人蔵匿・隠避罪、犯罪者をかくまったり逮捕させないようにする行為のことです。たとえば証拠を隠すのもそうですね。そしてこの罪は、かばおうとしている主犯――この場合は健一君です――が罰金以上の罪を犯したときのみ成立します」
誰かが息をのむ音。正面のふたりも、隣の西沢も、もしやという顔をしていた。
「ええ、軽犯罪法違反は罰金以下の罪。つまりこの場合、共犯が犯人蔵匿・隠避罪しか犯していないのならその人は逮捕されません。だから今回はどちらも罪にならないだろうということです」
元からあった知識や刑法学の本の内容を思い出しつつ、論理的に突きつける。口調も当然はっきりと。
さすがに態度が露骨すぎたと思ったのか、無表情の親子。しかし啓子の口元にほころび。すべてを理解したことがうかがえる。
弛緩した空気。
――歓喜のままで、終わらせない。
「ですから安心してお話しください。それが真実なら、『ぼくたちは被害者です』だけでもいいんですよ?」
それ以上は急かさない。嘘を認めるのには、とてつもなく勇気がいるのだから。
先週見せた激情はなく、身を硬くしてうつむく彼。その勇気が充たされるまで、60秒は待っていた。ほほえんだまま待っていた。
やがて健一は、おもむろに背筋を伸ばす。なおもゆっくり息を吸い、一拍おいて吐き出した。きりっとした視線が探偵を見据える。めがねの奥の揺れない瞳、誠実な合図のようにして。
あるいは諦めかもしれないが。ともかく、彼は白旗を揚げた。
「…………ぼくたちがやりました」




