17.整理整頓が終わったら
いつものように探偵事務所で。同じソファ、隣に座る美穂へ声をかける。
「……長話になったが、疲れてないか?」
「へーきだよ? わたし、なーんにも知らなかったんだねえ。みんなに嫌われてたり、するのかな」
そんなことない、というのはたやすい。けれど、英樹はそれ以上の言葉を届けたいと願った。
現実を知り、落ち込むこともたまには必要だ。問題はその先につなげられるかどうか。彼女の未来につなげるための、最初の一歩を後押しできたら。
言葉はあとからついてくるだろう。感情のまま、とにかく口を開いた。
「心配ない、これから知っていけばいいんだ。自分はどういう人か。なにをしたいか。みんなはどんな人で、どんなこと考えてるのか。そういうことが少しでもわかったら、今よりもっと楽しく生きられるかもしれない。逆に、みんなに自分を知ってもらうのも」
「うん……でもね、こわいの」
「だよなあ。俺も怖い。もし俺が誰かに嫌われていたとして、それを知ったら1週間はへこむよ。でも、他人のことを知るのは大事だと思う。話しかけてその人のことを知れたら、ひょっとするとなかよくなれるかもしれない」
英樹は身体が熱を帯びるのを感じた。それが妙に心地よい。
「他の人の考え方が見えてきたら、自分の考え方と比べてみる。そしたら何かが見つかるかもしれない。その人の意見を取り入れることもできるし、考えが合わなくても、自分はこうしたいって気持ちが強くなったりする。そうなれたら最高だよな」
「やれたらいいなあ……! ぜったい、たのしいよ」
「ああ。だから、嫌われてるかもしれないと思っても、話してみたら違ってくるかもしれない。むずかしかったら、誰かお友達と一緒にその人に声かけてみるって方法もある。言いたかったのはそれだけだ」
「……うん、うん。しょちょーさん、ありがとう。どうしよどうしよってなるし、いっぱいお話してつかれたの。でもね、わかったことがある」
テーブルの菓子入れにえいっと細腕を伸ばし、美穂はほほえむ。
「わたし、みんなよりもできないことがいっぱいあるんだね……かなしかったけど、できるようになれたらいいなあ」
少女の大きな目は、確かに生きていた。絶望に染まってはいなかった。
「あとやっぱりね、お父さんとお母さんのこと、きらいじゃない」
育児放棄されてさえいなければ、おそらく人並みに育っていた。それを知ってもなお、彼女は言うのだ。
「いいんじゃないか、それで。俺も親のことは嫌いになれないしな」
「しょちょーさんがそんな大変だったなんて、知らなかった」
「しんどかったのはお互い様ということだな。まあ気にするなってのは無理な話だが、過去のことを引きずりたくはない」
クッキーの空き箱を丁寧につぶしながら、ぽつりとこぼす。
「これからどうするかを考えていきたいよな。障害――俺のは正確には違うが――にしてもそれ以外の悩みにしても、長いつきあいになるんだから」
「よくなる……?」
「わからない。けれど、これ以上逃げたってなにも変わらないだろうからさ。特に悩み事なんて、放っておけばいくらでも増える」
生きていたらな。そう言いながら、不安げな美穂の眼をそっと見る。
健一たちのことを通して自分を見つめ直したり、西沢からアドバイスをもらったり。これからを変えようとするきっかけになった。けれど、それだけで『今日から変わりました!』とはなれない。現状は以前の英樹のまま。ここで唯一できるのは、気持ちの整理をつけること。
――ただ、今は美穂に光を見せるのだ。きれいごとだったとしても言うのだ。立ち上がるならこの子とともに。
「大丈夫だ。たくさん悩んで、たくさん考えて、たくさん納得できるようにしよう。俺らと一緒に。おまえが安心できる居場所を見つけられるようにな」
背後で書類をまとめていた西沢も、しっかりとうなずく。
「ゆっくりでいい、『いつかそうなれるように』くらいの気持ちでかまわないんだ。うまくいかないときは、遠慮なく休憩すればいい。いくらがんばってもできないってなることがあったら、それは誰かに手伝ってもらおう。ひとりでぜんぶできる必要はないし、みんなと同じじゃなくても大丈夫。違うからこそいいこともある」
想いが届いたのか、彼女の頬がゆるんだのがわかった。
「……やってみる。わかんないこと知りたい。よろしくおねがいします、しょちょーさん」
「よろしくな、一緒にやっていこう。今言ったことは、俺もまだできていないんだよ。これからだ」
差し出された両手をしっかりと握った。白くて細い手と、それなりにがっしりした小麦色の手。対照的なふたつは、確かに今つながっていた。
その状態のまま、美穂が腕を軽く上下に振る。『せっせっせのよいよいよい』の手遊びのように。体を揺らしながら、彼女は心底うれしそうに笑っていた。
英樹にはまだ言いたいことがあったが、美穂が満足して手を離すまで待っていた。彼女の腕の動きに身をまかせつつ。
「それから、美穂を支えたいと思っているのは『めぐみ園』の人たちも、そこにいる西沢さんも同じはずだが。学校にも大勢いる。優しくしてくれる人のほうが多いよって前に聞いたの、覚えてるぞ」
「はずじゃないわ、同じよ。少なくともあたしはね」
会心の笑みを見せる事務員だったが、突如その表情が曇る。
「――で、これからどうするの? あなたたちじゃなくて、健一君のことね」
「そりゃあ早くあの子らに会って説得するだけですよ。そろそろ都合つけないと、依頼人が黙ってないだろうからねえ。こわいこわい」
英樹にはめずらしい軽口。やせ我慢のひとつでもしないと、弱音が漏れ出そうだったから。
なにしろ本気で命を狙ってくる可能性があるのだ。巻き込んでしまったふたりを不安にさせたくはない。
「どうにか交渉してうちに来てもらいます。根回しされているようなんで」
「あちらの土俵でやりたくないってことね?」
「ええ。10軒ほど連絡先交換していたんですが、昨日かけたら揃ってガチャ切りですよ。名前を出せばだれもが無言ではねつける。一周回って面白かったです。拷問様の逆みたいでね」
西沢が苦笑いなのに気づいても、この口ぶりを通すのだった。
「今週末をめどに。できれば西沢さんにも来てほしいんですが」
「いいわよ。殺気立ってそうなんでしょ? そういう手合いを落ち着かせるのには定評があるわ」
「助かります。せっかくの土日なのに申し訳ない」
「わ、わたしも――」
「だろうな。見るだけならいいぞ。向こうには『この子には触れないでくれ』と言っておくから」
園のほうにも電話する。その言葉とともに、探偵は立ち上がった。ピンと背筋が伸びている。
「横から見てると本当にお父さんみたい。気合い十分って感じ。『完全犯罪? そんなものはないんだよ! あなたが抱いた幻想ですよ』みたく言うつもりかしら」
「刑事ケチンボとは懐かしいですね。あれももう8年前か。まあ、罪に問えるかすら怪しくなってきたんですが」
「ほんと? でも、出頭させたいのは同じなのよね?」
「そりゃあそうですが。もし罪にならないなら、説得しづらいじゃあありませんか」
「たしかに、罪悪感に訴えるのは厳しそうね」
いかにも面倒そうに、西沢は軽く両手を広げる。その横に座る美穂が、おどろいて身体をのけぞらせた。 あらあらと謝る和やかな光景を見つつ、英樹はうしろを指さす。その先には、ガラス扉の本棚があった。
「刑法学の本をいくつか持ってまして。退職した知り合いの警官に押しつけられたんですけどね。ふと『どういう罪になるんだ』と思ってあやつらと格闘したところ、特殊ケースかもしれないと」
「それってわたしにもわかる?」
「悪いが厳しいかもしれない。ややこしすぎるんだよ。あの人たちを呼ぶときに説明はするが。こういうことは警察の領分なのに、なんで気にしちまったんだろうな……」
ため息をつきながら、力なく腕を下ろした。
「知りたがりなのはいいことじゃない。きっと美穂ちゃんの影響受けてるのよ」
「わたし知りたがり屋さんだったの?」
「おまえはな。俺はわからんが。――まあせっかくだ、西沢さんに影響されて掃除と片づけでもするか。お客様は丁重に迎えないとな」
きれい好きなのよくわかってるわね、という声を背中で受けつつ、掃除機を取りに向かう。
健一たちのことは他人事じゃないという強い予感。今度こそはしっかり向き合おう、気持ちと論理で受けて立とう。美穂と西沢もいるのだ。
ただの掃除にも、今までになく気力が湧いた。




