16.壊想:片桐美穂の知らないこと
片桐 美穂には、幼いころの記憶がない――たったひとつを除いては。
誰もいない荒れた部屋の中で、ひとりさみしく泣いていたこと。それだけを覚えている。両親の顔すらも記憶のかなた。
単純に忘れてしまったのか、あるいは防衛反応か。嫌な思い出を、脳が無意識に切り離そうとした可能性。どちらにせよ、彼女は何も知らない。覚えていない。
ゆえに無垢なまま生きていて……ゆえに、真実を知りたがった。
☆
美穂の両親は、とかくお金に困っていた。父は建設業で母は介護職、仕事のきつさに対して実入りは少ない。
お互いまだ成人したてで美穂を産んだために、子育てにも生活にも苦労した。おまけに母は、若さと自分を曲げられない性格がたたって主婦の輪から浮きがちで。
そんなふたりはギャンブルに逃げ込んだ。パチンコやら競馬やら、外せばなおさら困窮するのがわかっているのに、心のオアシスにしてしまう。そうして借金と、取り立て屋の訪問だけが増える。
育児疲れと賭け事への没頭が重なって、美穂を顧みなくなっていく。家を空けることが増える。洗濯をしてやったり風呂に入れたり、食事を用意することすらおろそかになる。
教育など、なおさらできるわけもない。美穂に手を出すことこそなかったが、暴力と同しくらいの仕打ちであろう。
しわくちゃで汚れの目立つ服を着ている子どもを見れば、普通は近所の人も気にかける。しかし、外で美穂を遊ばせる心の余裕すらほぼなかったのだ。めったに見かけないのなら、誰も気づけない。片桐家に子どもがいることすら知らない近所の人もいた。
そんな状態が続いた、ある秋の日。
「もう無理です 私たちは最低の親です どうかこの子を幸せにしてやってください」
置き手紙と3歳になったばかりの美穂を残して、彼女の両親は蒸発した。ひどい泣き声で気づいた隣家の人たちによって美穂は発見されたが、ふたりの行方はついぞ知れなかった。
児童相談所に一時保護されたが、この幼い少女に知的な遅れがあるのは明らかだった。
単語しか発せず、呼びかけになかなか反応しない。
植物や昆虫など、自然のものに強いこだわりを示す。
他人、特に大人が近づくのをひどく怖がる。
まっすぐ歩けない。
身なりや発育状況の悪さも含めて、まともな育児を受けていないのが一目瞭然。
児相もかつて美穂に接触しようとして、両親から「そんな必要はありません」と抵抗されたために叶わなかったことがあった。どうしてこんな状況になるまで何もできずにいたのか。児相の職員たちは、深い後悔に包まれていた。
3歳児検診など、いくつか検査を受けさせられる。ちゃんとした育児を受けられなかったことによる、後天性かつ軽度の精神遅滞と診断された。俗に言う知恵遅れである。
そんな彼女が入所することになったのは、障害児施設ではない一般の養護施設「めぐみ園」だった。障害児教育のノウハウを持っており、新しく児童を受け入れる余裕もあったのだ。
――少なくとも、その当時は。
生まれてから3年近くを育児放棄の状態で過ごしたとはいえ、あきらめることはない。
アメリカには、生後6歳半まで部屋に監禁されて育ちながら、わずか2年で普通に話せるようになったイザベルという少女がいるのだ。ましてや3歳までだというなら、適切な指導を受けさえすれば。美穂の精神遅滞が生まれつきのものではない以上、望みは十分にあった。
そして「めぐみ園」は、立派に美穂を育てていたのだ。養護学校ではなく、公立小学校の特殊学級に入れたくらいには。同じ学年の子たちにはまだまだ追いつけなくても、一歩ずつ近づいてきてはいた。
特殊学級の中でも、言葉を獲得するにつれ、だんだん他の児童との交流が増えていく。職員たちにとっても、それは嬉しいことだった。
いずれは同級生と完全に肩を並べられる未来もあっただろう。
美穂がもうじき11歳になるころ。「めぐみ園」の経営が悪化して、多くの職員がリストラに遭うことさえなければ。
首を切られた中には、ベテランで美穂になつかれていた者が多かった。ノウハウの大半は失われ、残った職員も次第に余裕をなくす。いやな空気が施設内を満たしていく。
そんな状況だから児童の入れ替わりは激しい。なかよくなれないまま、あるいはなかよくなっても、他の子どもは去ってしまう。
美穂については、施設に残すより養子縁組先を探してやったほうがこの子のためになるのでは。そう考える職員もおり、何度か行動に移された。しかし、精神遅滞持ちかつ大人を怖がる彼女には、希望者は現れなかった。
新たな親になる身として、最後まで責任を持てる自信がない。立候補しなかった者たちの多くは、そのように答えた。しかたのないことであろう。
ただ結果として、少女の成長がゆるやかになっていくだけで。
訓練をしようとしても、枕を抱きしめていやいやをすることが増えた。覚えたはずの言葉に対して、今初めて聞いたような反応を見せることがあった。ときおり理由もなしに泣き出すようになった。
彼女が大好きな自然も、宅地開発で消えていく。お気に入りだった原生林の中の神社も取り壊され、跡地を通るたびにぐずり出す。
そのようなサインに対して、「めぐみ園」は何もできていない。とても暖かく接しているが、具体的な支援が思いつかないのだ。ギリギリまで人員を削らざるを得なかったため、手が回りきらないのもあった。
とても大切にしている、でもうまくいかない。そんな状態。それでも、対外的には成功しているように見せていた。
美穂と「めぐみ園」はたまに取材を受けることがある。数年単位の育児放棄がありながらも、みるみる回復しつつある事例として。地方紙の小さな(ベタ)記事や市の広報誌が主だったが、それでも市民にアピールするには十分役立った。
それが経営はかんばしくない、美穂の成長も止まり気味ではたちまち評判は下がる。そうなればますます経営が傾くのは目に見えていた。
上手く伝わってはいなくとも、子どもたちのことは職員みんなが大事にしているのだ。だから、彼ら彼女らを路頭に迷わせるわけにはいかない。美穂に演技をさせるわけにはいかないから、ちょっとずつ話を盛る。
そして、それが通ってしまった。なにも上向いていないまま、外面だけが整っていく。
学校では、通常の学級の子どもたちと授業で関わることが少ないために、特段の不都合が起きていないことだけが救いであった。そこでは彼女も楽しんでいた。
それも、中学校に入ると様変わりする。順調に回復しているとされて、通常学級に通うことになったからだ。前もって生徒には美穂の事情が知らされたが、それでもずれは出る。
12,3歳の空間で生きるには、あまりに幼く純粋だった。少々マイペースに過ぎた。彼女の現状に見合った、専用の授業内容が用意されたように、学力からして違うのだ。
彼女はまだ、小学4~5年生相当の知能であった。もっとも、幼児のころからすれば見違えるような回復である。
理解のある生徒がほとんどだったが、同級生の中には快く思わない者もいた。
どうしてこんな子どもの面倒を見なきゃならないのか。他人に合わせることも覚えてくれ。そういった類のもどかしさ。美穂に暴言を吐きかけるまで、それほど時間はかからなかった。
「ぐず、のろま」
「なかよし(特殊)学級に行ったほうがいいんじゃない?」
陰口の場合もあれば、面と向かってたたきつけられることもあった。
その大半、美穂は意味をわかっていない。受け取るための回路と知識が足りていないから、彼女は基本的に動じない。ふわふわしている、とも言える。それでも、傷つけられていることは感じ取れるのだ。
わたしはおかしいのかな、普通じゃないからこんなこと言われてるのかな。彼女の心の内側には抱えるものがあった。かといって、どうすればいいかもわからない。つかみどころのない不安がわだかまる。
「めぐみ園」での生活も相変わらずで、彼女の心はたまに弱る。
誰ともあまりなかよくなれなくてさみしい。事情は違えど、彼女と同じで親と過ごせず、傷を負ってここにきた子どもたち。それでも、集団は集団だ。うまく輪に入れない子どもはどうしたって出るし、優しさばかりではない。
就寝中、同じ建物で暮らす男子にパジャマの上を脱がされて胸を触られたことさえある。何をされたかも十分にはわかっていないけど、とにかく恐ろしくて。
それから、大人だけでなく年の近い男の子も怖くなった。
次第に、今まではあまり考えることもなかった両親のことが気にかかる。どこにいるんだろう、会いたいよ。施設に今いる職員たちを親代わりと思えていない。だから美穂は彼らに訴えた。
「お父さんとお母さん、みつからないの?」
「……調べることはできるでしょうけど」
この子は知らない。知らされていない。親が自分に対してどんな仕打ちをしたのか。その影響で精神遅滞になっていることも。知らないから嫌いではないし、会いたいとも思える。無意識に知らない大人を怖がるのは、きっと両親のせいなのに。
仮に両親が見つかって引き合わせることができたとして、それでめでたしとなるのだろうか? 不安でしばらく悩んだ末、園長は親探しに踏み切った。
依頼した近所の私立探偵。それが、まだ開業して半年ちょっとの白鳥 英樹だった。
今年の5月。やけにじめっとしたある日のこと。緊張しながら電話を一本。
頼りなさげだけど誠実で優しそう。それが、園長が英樹に抱いた第一印象。実際その通りだった。
初対面では事務員の西沢が前に出てきており、英樹の印象は薄い。いかにも快活な近所のおばさんである彼女に、こちらの緊張をほぐす役を担ってもらっているのだろう。
しかし顔を合わせるたびに、不器用ながら実直な態度が見えてきた。同時に、かつては流行り物だったはずのがらくたを、大量に持て余している変人であることもわかったけれど。
子どもの相手は慣れていないのか、最初は目も合わせようとしない美穂に当惑する場面も見られた。それでも、彼女の事情と性格を知って、どう対応すればいいか真面目に考えている様子。
仏頂面になりがちでどこか怖く見える彼だったが、美穂の前ではやわらかい表情であろうとしているのがわかった。
数々の努力によって、美穂は少しずつ探偵になついていった。
勉強を教えてほしいと自分から頼みに行くこと。
目を見て話すようになったこと。
自分になんだか悲しくなる感じのことを言ってくる子がいる。めぐみ園の先生が、ちょっとだけ怖い。大事にしてくれてるのはわかるのに。
……わたしはへんなの? みんなと同じにならなきゃいけないのかな。どうしてこういう気持ちになるのか、わからない。
そういった悩みを、ぽつぽつと打ち明け始めたこと。
ふだん保護者をしている自分たちよりも心を許していないか? ある職員には、そう思えてしかたがない。ほんの少しだけ不満だった。
美穂の両親が見つかったときには、依頼をしてから2か月あまりが経っていた。探偵から連絡があって、美穂と園長は事務所へ向かう。
美穂はテーブル越しに英樹と向き合った。年齢のわりにかなり小さな手を、指先が赤くなるほど握りしめて。
「たんていさん、お父さんとお母さんは元気だった? わたしも会える……?」
「写真よりかなりやせていたけど、元気そうだ。一人前の漁師さんになろうと頑張っているらしい。ただ……会えないと言っていたよ。電話ですら話したくないと」
「……おはなししたいのに」
「ごめんな。こればかりは、どうにもできない。詳しくは言えないが、お父さんとお母さんの気持ちはわかるから」
美穂の両親は、山口県のひなびた港町で見つかった。
人当たりはよかったが、英樹が身分を明かすとたちまちふたりの表情が曇る。ギャンブルに溺れ、娘をまともに育てず、しまいには置き去りにして消えたのだ。今も負い目が彼らを刺すのだろう。
「わたしたちには会う資格なんてないんです。あの子が幸せなら、それ以上は望みませんから」
心底しんみりと、母親は答えた。
あの子の抱える傷は、幸せになりきれない理由は、大半あなたたちが作ったんですよ……それだけは、思っていても言えなかった。良心が拒んだ。
あるいは、突きつけたほうがよかったのかもしれないが。ともかく、もう彼らに美穂を育てる気がないのは明確だった。
同意を得て、親権を失うための手続きをしてもらう。
万一のために、連絡先を交換する。
失踪宣告の取り消し。
そういった事務的なことだけは終わらせて、探偵は戻ってきたのだ。
「……わかったの。たんていさん、ありがとうございました」
会えない悲しみで少し泣いて、それでも少女は礼をした。
探偵と(実質的な)依頼者。本来なら、ふたりの関係はここで終わる。でも、すっかり心を許したのだ。
よく笑いかけてくれるのに、なぜかずっと何かに悩んでいるように見える。そんなところに自分を重ね合わせて。英樹は、美穂の大事なよりどころになった。
学校帰りには、わざわざ通学路を外れて事務所に寄ることも増えた。授業でわからなかった部分について教えを乞うこともあった。
それから、少女にはわずかずつ笑顔が戻ってきて。
さみしさと痛みだけが募っていく。それは変わらない。自分のことをほぼ知らない、ということさえわからないのだから、誰かが教えるまではこのままだ。
けれど、幸せになってほしい、自然な笑顔を浮かべていてほしいと、心から思える存在ができた。そのぶんだけ、彼女の前途はましなのかもしれない。




