13.普通がわからなくたって
事務員の西沢が意外に早く帰ってきたことだけが、英樹にとって救いだった。
「猫ちゃんが元気でよかったわ」
薄手のブルゾンを小さな衣装掛けに置きながら、彼女はほっとした様子の声をあげた。
「お疲れ様です。調査報告書と請求書作るので手帳お借りしますね」
「いつも言ってるけど、乙女のプライべーーーットな部分は見ないでちょうだいよ」
「46歳は乙女ではないので見てもかまわないと思うんですが」
「このっ……と思ったけど、めずらしいわね。英樹君がそんなキツい冗談言うなんて。なにかあった?」
怒りと心配を音速で入れ替え、問うてくる。上げかけた手をそのままにして。
「別になにもって言いたいですけど、こういうときの西沢さんはやたら鋭くてしつこいので素直に吐きます」
「よくわかってるじゃない。もしかして昨日のこと?」
「いろいろありましてね、そういうことです。ほうじ茶でいいですよね?」
「もちろん。長くなる感じ?」
デスクから立ち上がり、お茶を入れに行く。積もる話には、温かい飲み物が不可欠だ。
「ある程度は。でも、次の依頼人が来るまでには終わります」
「わりとかかるじゃない。暇な日でよかった」
いつもの茶化した声色は、しかし普段より真剣そうに英樹には聞こえた。
☆
「まあ、こういうことがあったわけです」
「大変だったのね。道理でずいぶん疲れてるなと思った」
古ぼけてきたソファに座り、応接机を挟んで向かい合う。沈みつつある太陽に代わって、白熱灯の寒々しい光が部屋を照らしていた。
保護者達からの評判と同級生からのそれがまるで食い違う少年のこと。
見栄を張り続けているようだった母親のこと。
変に近寄られ、辱められ、かわいそうだった少女のこと。
年端も行かない少年に情けなくやり込められた自分のこと。
自分と美穂の、隠していた秘密のこと。
――美穂を、傷つけてしまったこと。
そのすべてを、話し相手にさらけ出した。
「今はあまり考え事したくないです。無理ですけども」
「そこはあたしが付き合うから大丈夫よ。で、所長さんはどうしたいのさ」
「……美穂と、話がしたいですね。あとはとっととこの案件を終わらせたい。あのふたりを、警察へ出頭する気にさせたい」
自分たちの命を守るため。ここで事態を放棄すれば、毒殺魔が口をふさぎにくるかもしれない。それに――
「もしやり直す必要があるのなら、できるだけ早いほうがいいと思いますから」
ソファに深く沈んでいた身体をまっすぐ起こす。その言葉の半分は、英樹自身に向けてのものだった。
「できれば先に美穂と仲直りしたいですね。しこりが残ったままあれこれ進めるのも嫌なので」
「仲直り……なんか違う気もするけどねえ。あの子に嫌われたわけじゃないんだろうってのは、英樹君ならよくわかってるんじゃないかな」
おばさんがなんか言っとるわくらいの気持ちで聞いてほしいんだけど、と前置きして、
「あの子は優しいから。人が辛そうにしてたら絶対に放っておかない、見ないふりしない子だよ。たぶん、それだけ」
「俺、思ったより顔に出さないようにするの苦手なんだなと。だから心配させた」
「どうだろうねえ。むしろ弱音吐いてもいいかもしれないよ?」
あたしは美穂ちゃんじゃないからわからないけど。
その言葉とは裏腹に、安心させるような柔らかい目つきをしていた。
――けれども、
「俺はあの子の心の支えにならないといけない。へこたれているところなんて見せられませんよ」
「そんな気負わなくても……あっ」
西沢が息をのむ音が響いた。
少女と出会ってからの5か月間、この事務員と見てきたのだから。美穂がどんな存在で、どんな環境に置かれているか、きっと西沢もわかっている。
誇張抜きに、美穂が今もっとも頼りにしているのは英樹であろうと。
「あの子と依頼者の前でくらいは、頼れる大人でいたいんですよ」
「あっ……いや、なんでもないわ。それはそうよねえ。本当なら、親代わりの存在ってのは園の職員さんの役目なんだろうけど」
「しかたないですよ。運営厳しくて4.5年前から最小限の人数で回しているって話ですから。一人ひとりにかまいたくても余裕がないんでしょう」
「それは前に聞いたけどさ、かまえてないツケが英樹君に回ってくるのは変な話じゃない? 勉強とか心身のことまでしっかり面倒見て支えるのが養護施設の責務だと思うけどねえ」
納得いかない様子の彼女は、英樹のよりもがっしりした手で乱雑に豆おかきをつかみ上げた。バリボリと威勢のいい音がする。
「負担ではないです。美穂は本当にいい子だと思うので。たしかに発達は他の子より遅いんでしょうけど、なにごとにもすごく熱心ですし。人付き合いなんかでもあの子なりに考えたり、うまくいかなくても簡単にはあきらめない……と、見てる限りでは思いますよ」
「よーく知ってる。それでも、って話よ」
「まあ、面倒見きれない部分を押しつけたいのか違うのか、どうもはっきりしないなとは思いますけど」
群馬に美穂を連れて行ってもいいかと電話をかけたときのことを思い出す。平板な声音、そっけないぶつ切り。それだけでなく、今までの態度も。
めぐみ園の職員――特に園長からは、本心からの笑顔を向けられたことが少ないようなと、探偵は記憶をさかのぼった。ともあれ、
「それでなにか思うわけでもないですから。むしろ、今回のことはもう一度出向いて謝るなりしないと。ずいぶん心配かけてしまいましたし」
「そうだねー……あたしも行けばいいじゃないって軽い気持ちで後押ししちゃったからさ。あちら様にはまた電話するわ」
「いいですよ、別に。最終的に決めて連れて行ったのは俺なので」
「あなた責任かぶるの好きよねえ」
「これでも社会人ですから。責任ある大人として貫きたい態度はありますよ」
くすくす笑いながら茶化す西沢に、至って気負うことなくそう答える。
それが英樹にとっての当たり前で、ありたい姿だから。
「あっ出た、『大人』と『社会人』!」
「……え?」
そう、思い込んでいたいから。
「あらま、気づいてなかった? 口癖になってるよ。あれこれ言うのもと思って、茶々入れずにいたけど……やっぱり、立派な大人でいたい?」
「当然ですよ。探偵なんぞやってても、まっとうな人間でいたいと思って毎日生きてます。いろいろ足りてないですけど」
「ずばり聞くけどさ、しんどいときあったりしない?」
「……ありますね」
ピンと伸ばされた人差し指が探偵を指す。彼にはそれが、よく切れるナイフのように見えた。
逃れられない。だから、ごまかしはもうやめだ。少し深めに息を吸い、言葉を吐いた。
「だと思った。英樹君わかりやすいからねー。まああれよ、大人ってそんな大層なものじゃないわよってこと」
「気負いすぎなんでしょうか。でもしっかり者の西沢さんが言っても説得力薄くありません?」
「上手なお世辞ありがと。そんなことないわよ、私だって失敗はよくするし、自分をできた大人だと思ってるわけじゃあない。うちの旦那よりはましかもしれないけど。そうだ聞いて! 旦那の話」
「聞きますよ」
西沢の声量と表情の動き方が一段上がる。今から愚痴を吐きますと言わんばかり。
話が脱線しそうでも、好きなように喋らせたほうがいいような気がして。英樹はめずらしく、なにも顔に出さずに話を促した。
「うちの旦那、プロ野球の虚人ファンなんだけど。居間で中継見てるときの態度が見れたもんじゃないのよ。特に半神に負けでもしたらまあ暴言の嵐。ヤジ飛ばしても聞こえないからって『地元に引っ込めこの若造!』はないでしょ。ひいきにそんなこと言う?」
「ひいき関係なく他人に言うことでないのは確かかと」
「そうよねえ! ほんっと子どもみたいなとこあるから。英樹君も何度か会ってるはずだからわかると思うけど」
「正直なところ否定はしづらいです」
普段は腰の低い好人物だというのが、英樹から見た印象だ。
だが、外食するか家で作るかで夫婦げんかになっているのを見たことがある身としては、そう言うしかなかった。西沢の夫が顔を振り乱して怒る様子を、思い出しては苦笑い。
「……でもね、それ以上にいいところがあるから共働きでもなかよくやれてるわけよ。外側だけ大人なのはあたしも旦那も一緒。英樹君も、きっと一緒。根っこのところは、子どものころからずっと変わらないもんじゃないかしら」
人差し指を立て、おどけるような言い方。そのしぐさからは、確かに無邪気さが伝わってくる。
「だったらいいんですけど」
「強情ねえ。あたしなんか、そもそもどうなったら大人なのかもよくわかってないわよ。ただこうしたほうがいいかなと思ったことをやってるだけ。でも、案外それで回るからね。適当に肩の力を抜くのも悪いことじゃないわよ」
軽い話しぶりのまま、西沢はそう言った。笑い混じりにリラックスした表情からは、説教臭さも押しつけも感じられない。
「『普通の人』なんかも英樹君からよく聞くけど、あたしにはあんまりわかんない。だから、あたしが元気にやれてりゃそれが普通よくらいの気持ちで生きてる。誰かが決めた基準があるわけじゃなし」
心底そう思えるようになれたら、なにか心境も変わってくるのだろうか。
たとえば、目下探偵を悩ませている、健一という少年のこと。ひたすらに牙をむく一方で、『普通の子でいたい、それだけだったのに』と言っていた彼。もし自分と近いものを抱えているとすれば?
一見理解しづらくとも、受け入れてみようと努力する姿勢。そのためにも、英樹には欲しいものがあった。
「自分に自信を持てるようになりたいですね」
「そうね……所長さんの事情は聞いてるけど、それでも前向きでいれたなら一番よ。まあ具体的にどうすればいいかというのは、なかなか難しいわよねえ」
「今後考えていきます。あまりゆっくりしたくはないですが。そろそろ家庭やら結婚やらから逃げているわけにもいかないので。根本の性格から変えていかないとできる気がしない、と思うことは多いです。たとえば――」
他人といい関係を保つことも。
この場にいない少女を脳裏に浮かべ、もどかしい気持ちを声にする。テーブルの向かいからは、悟ったような笑みが返ってきた。
「それこそ気楽にいくのもいいんじゃないかしら。開けっぴろげにしたって受け止めてくれるわよ。あの子はきっと、安心できる人を求めてると思うから。頼れる大人じゃなくてね」
「今のまま離れてしまうよりは、よほどいいですよね」
「自分でもおせっかいだと思うけど、ぎくしゃくしちゃうのは見たくないから。喧嘩したわけですらないし。だからさ、大人がどうとかは今は置いといて、あの子とおしゃべりするのをすすめるわ……って、占いの結果が言ってる」
「いつ占ったんですか。ともかく、明日行きます。園長さんには『しばらく美穂に会わせたくない』と言われましたけど、その件を改めて謝るのと一緒に」
ほんの少し明るい声音。
電話越しの謝罪では足りない。ほとぼりが冷めるのを待つには遅い。たとえいい顔をされなくとも、顔を突き合わせに行くことが必要じゃないのか。美穂にも、施設の方々にも。
方法はまだ見えないが、彼女を守り育てたいのだから。彼なりの最善を尽くすため、前を向こうとしている。
「今日一番いい顔してるわよ。運気上昇って感じ」
「やること山積みなのに落ち込んでばかりでもいられませんから。話聞いていただいてありがとうございました。少し肩の力が抜けた気がします」
「あたしは人間だから、他人の気持ちもどうすればいいかも完璧になんてわかりゃしないよ。ただ自分が理解できる範囲で、思ったことを言うだけ。受け入れるかどうかは所長さん次第。それでも、役に立ったならよかったわ」
「立ってますよ、少なくとも今回は」
笑いかけて、すっと腰を上げる。視界に入った時計は5時45分を示していた。
「依頼人の前でしょげた態度とるわけにいきませんから。支度始めましょう」
重要事項の説明書や調査契約書といった準備物を取り出し、茶菓子もあつらえる。普段の西沢にも負けない、てきぱきとした準備だった。
☆
いくばくかの期待をこめて、翌朝、英樹は電話をかけた。
「もしもし。おはようございます、白鳥探偵事務所の――」
「ちょうど連絡しようと思ってたんですよ! あのですね、片桐さんが風邪をひきました」
「あっ……」
英樹の口から、か細いうめきだけが漏れる。心当たりしかない。
「そういうことです。園長自身が許可を出したというのは重々承知したうえで、あの人もご立腹です」
「ではなおさら、謝罪に伺わせていただけますか」
己の信じる誠実さにかけて、探偵はそう答えるしかなかった。




