12.しょちょーさんなんて、だいっきらい
家に帰ってもひとり。くたびれ探偵を出迎えてくれたのは、調査依頼の電話2件だけだった。
丸1日以上家を空けていたせいで何回もかけるはめになったのだろう、どちらの依頼人もいらだちが伝わる声。浮気調査と飼い猫探し、詳細を聞くための面談だけ取りつける。次は手が止まっていた既存の案件。
旅荷の片づけもそこそこに、急いで取りかかろうと――したのだが。
身が入らない。調査対象の同僚から送られてきた資料を読み込む頭にも、ストーカーの行動調査の報告書を書く手にも。どうしようもなく、昨日の出来事を引きずっていた。
一刻も早くこのろくでもない依頼を解決せねば、他の案件がまともに遂行できない気がして。毒殺犯の命令だって守らねばあるまい。けれど、英樹たちの秘密を突き刺す少年の閻魔もかくやという顔が、頑なに脳裏の真ん中で。
書きかけのタイプライターに背を向けて、英樹は奥の戸棚から2枚の紙を取り出した。それは市内最大の病院のカルテ。一方は原本で英樹自身の、そしてもう一方のコピーは――美穂のものだった。養護施設の好意で、第2の保護者と言っても過言ではない英樹に手渡されたもの。
秘密のすべてがそこにある。
デスクの椅子に力なく身を預け、英樹は苦々しい顔で読み返した。何度も見てきたそれぞれの冒頭には、このような記載がある。
『患者 白鳥 英樹 24歳 ,男性〈第8講の症例の4か月後,1985年8月〉
プロブレム
#1行動嗜癖の一種・流行り物の無用な購入〈少年期の学校及び家庭でのストレス〉
備考
診断〈SSRI (デプロメール)の投与及び認知行動療法の適用[1984年4月]→不安回想表作成,曝露反応妨害法の開始
#2抑うつ状態
備考
診断〈傾聴と支持的態度で対応〉[1984年4月]→やや軽快[1985年8月]』
『患者 片桐 美穂 13歳,女性〈第8講の症例の6か月後,1985年9月〉
プロブレム
#1 精神遅滞〈ボーダー〉〈実両親のネグレクト(6ヶ月~両親の蒸発・養護施設『めぐみ園』に引き取られる3歳0ヶ月まで)による全体的な発達の遅れ(おおむねマイナス2歳)〉
#2 反応性愛着障害〈上記に同じ実両親のネグレクトと、『めぐみ園』の不安定な養育環境によるもの(快方傾向)〉
備考
診断〈後天的かつ軽度のため認知行動療法は不適用〉[1983年5月]→軽快[知的・精神発達がマイナス3歳→マイナス2歳に]:カウンセリング毎年3,9月
健康行動に対する態度・雰囲気
従順かつ非常に熱心。自らの遅滞傾向及びその原因であるネグレクトについては知らされておらず、また無理に話す必要もないと判断。ただ今回のカウンセリングで「わたし何かへんなのかな」と述べるなど、主にクラスメイトとの関係性などから思うところがある様子。今後によっては遅滞傾向を打ち明けることも考慮。また、目を合わせられるのが一部の心を許した人物のみである点はさほどの改善が見られない。箱庭療法を一度試したが、自然が好きらしく木や草むら、ちょうちょなどを多く並べる』
長くつき合わねばならないというのに、ずっと目をそらしてきた。健常者の仮面をかぶり、いつも他人の『普通』に合わせて生きてきた。
場の流行りに合わせていなければ、普通とはみなされない。そう何かにせき立てられていて。
美穂のことも含めて初見で見抜いたというのなら、耳かき1杯程度は健一に感謝をくれるべきなのか。そんな思いと共に、英樹は記されている事実を無理やり咀嚼する。暗記するほど読んできたのに、やはりうまくは飲み込めない。明かりがあってもなお薄暗い事務所の中、ひとり深くため息をついた。
☆
沼田から戻ってきたその翌日。相変わらず身の入りきらないまま、仕事としての義務感だけで英樹は働いていた。知り合いの元警官に協力を頼む電話をかけたり、領収書の整理をしたり。今の彼には気力が足りないから、重要書類以外の片づけは後回し。
里帰りを終えたばかりの西沢は、さっそく猫探しに出ている。これからは自分もより現地に出て経験を積まねばとおとといの反省をしながら、探偵は今できる作業を終わらせた。
昨日電話してきた依頼人が顔合わせに来るのは午後6時。それまで2時間半はほとんどやることがない。
そのうえ、もう1泊する旨の連絡を怠ったせいで養護施設長の機嫌を損ねたため、しばらく美穂には会わせてもらえない。
手持ちぶさたの中でひとり。必然、脳裏には健一たちのことが思い浮かんでしまうわけで。
惑っている自分。知らないなりに傷深そうな美穂。会わねばならない小さな犯人たち。今からの方針。
「……しょちょーさん」
思考の沼に沈みこみかけたとき、聞こえるはずのない声がした。普段より背筋よく、なにか決心したかのように見つめてくるその少女は。
「どうして来たんだ。あと、どうやって」
「帰り道だもん。ちょっと寄るくらいならわかんないよ。……なんかね、もやもやするの」
「気持ちはわかるが、仕事中だ。また来てくれ」
今の英樹には、「もやもや」につき合ってやれるだけの気力が存在しない。ビジネスチェアの背もたれに身体を沈め、嘘であしらうよりほかなかった。たとえ、お互いの心が痛んでも。
――だが、
「ほんとう? なんだか、ひまそうだった。それにね、今のしょちょーさん、なんだかおどおどしてる……っていうのかな? まいごの子みたい」
「どんなんだ、それ。……わかったわかった、そこのお菓子食べてていいぞ」
「はーい。あ、豆せんべいある」
少女は引き下がってくれない。変に鋭いところのある少女だ、これ以上はねつけても無駄だろうと。探偵はそうそうに白旗を揚げた。
「なにか話したいことはあるか」
テーブルを挟んで、ふたりソファに腰かける。
「……かなしいの」
「そうか。なにが悲しいんだ?」
「初めて会った人に、あんなに悪口言われるなんて思ってなかったの。おとなの人なのに」
「そうだな、しかも健一君だけじゃなかったしなあ」
英樹たちが沼田で出会った人の反応は、遠巻きに眺めている場合とあれこれ聞いてくる場合のどちらかがほとんどだった。
いずれにしても、とかく見慣れない者が気になるらしい。人の移動が少なそうな田舎町であるからだろうか。あの街がというよりは、田舎などの閉鎖的環境にありがちな。
特に美穂は周りの注目を集めた。ふわふわと浮世離れしている変わった子だと思われたのか、老若男女問わず声をかけてくる。その声かけの中には、悪意からのものもわずかながら含まれていた。それも、公園で会った中学生3人組のみならず。
あの光景を思い出してしまったのか、少女のまぶたは固く閉ざされていた。咀嚼音だけが薄暗い事務所にばりぼり響く。
「もう行きたくない。泊めてくれたおばあちゃんは優しかったけど」
「あの人のおかげで少し心が安らいだ所はあるよなあ」
決して否定しない。うなずいたり相づちを打ったり、相手のことを褒めたたえたり。「この人は自分ごと話を受け入れてくれる人だ」と相手に思わせる。安心感を抱かせる。
それが、依頼人からすべての事情を聞き出すために、英樹がたどり着いた方法だった。かつて彼自身が世話になった、カウンセリングの応用である。
「ごはんもおいしかったし。……でも、やっぱりかなしいの。変な子とか、おかしいって言われて」
「気にしなくていい。ろくに話したこともないくせに自分のことを決めつけてくるような輩のことは……と言っても、気にしちまうよな」
一応は社会人である英樹ですら、この聞き込みで深く傷ついているのだから。
「あとね……あとね、」
それきり、美穂は言葉に詰まった。頬を赤く染めながら、あとね、えっとね、とうわごとのように繰り返す。
「身体触られそうになったの、すっごく気持ち悪かった」
泣き出しそうに。えずくように。絞り出すという言葉がよく似合う、心底嫌そうな言い方だった。
「前におうちでもね、目が覚めたら同い年の男の子が……その、わたしのパジャマのボタン開けてたことがあったの。それとおんなじくらい、怖かった」
「わかった、気持ちはわかったから」
神妙な顔でオフホワイトのフリルブラウスに手を掛ける美穂を、探偵は慌てて止めに入った。当の少女はそのままの態勢できょとんとしている。
「人前で肌を晒されたりしたくないって思ったんだろう? それはな、自分の肌は見せてもいいと思った時、思った人にだけ見せる大切なものだからなんだ」
「……そうなんだ。わたし、ちょっとかしこくなった」
「まあ詳しいことは学校でも教えてくれるだろう。それで、パジャマ脱がされそうになったときは大丈夫だったのか?」
「絶対職員さんにばらすなよって言われたけど、ちゃんと伝えたよ。たぶん、よくないことなんだよね? わたしは、とってもいやだなあって思って……はずかしかった」
少女の脳裏にはそのときの光景が鮮明によみがえっているのだろう。縮こまるように、ひしと体をかき抱いている。
「そうだよな。怖かったよな。だから、おととい似たようなことされたときもやめてほしかったということか」
「うん。頭がわーってなってたから、やめてって言えなかった。しょちょーさんが怒ってくれて、本当にほっとしたの」
「あの状況じゃ誰だって止めに入るだろうよ」
誰かがやってくれるだろうとさえ思わなければ、きっと。
「まあ、無理して考え込まないほうがいいんじゃないか?」
つとめて明るく。どうにかはげましたい。できるだけ自然になるように、表情筋を精いっぱい使って笑う。
慣れない笑顔と少しのアドバイスだけが、今の探偵にできること。
「誰かに話したいなら、次の通院のときなんかがおすすめだが。あの先生ならじっくり向き合ってくれる」
「わたしもあの先生すきだけど……しょちょーさんは? しょちょーさんになら、だいたい全部話せるよ?」
「あいにくだが、俺はなんでも知ってる天才博士じゃあないんだよ」
ぽえっとした声音の彼女は、心底そう思っているのだろう。無邪気そうなまなざしを浴びながら、気まずい気持ちで打ち明ける。
「わからないことがあったなら、知ってそうな人に尋ねる。スーパーで買いたいもののある場所がわからないとき、美穂は誰に聞く?」
「店員さん!」
「そういうことだよ」
「よくわかったの。しょちょーさんはお医者さんじゃないもんね」
得心がいったことがよほど嬉しかったと見え、うんうんと小刻みにうなずいている。そのたびに、れんげ草のヘアゴムで留められたサイドテールがひょこひょこ揺れた。
「そんな笑顔で言われるのもなんだかな……とにかく、俺も聞かれたら調べるかわかる範囲で答えるかするし、一緒に考えるから安心してくれ」
「えへへ、優しいね」
「ありがとな。でも、子どもから何か聞かれたらそれを当たり前にやろうとするのが大人ってもんだと思ってる。まあ俺も一応は大人だ、ほどほどに頼ってくれると嬉しい」
彼女の不安感を取り除くように、ひとことひとこと。ただ美穂には難しかったのか、あいまいに見つめ返すだけだった。
ぬるい空気にチャイムが鳴る。チリンチリンとこだまする。
「はい、白鳥探偵事務所です」
「回覧板ですー。あら、美穂ちゃんいるの!」
「あっ……」
玄関の引き戸が開くやいなや、英樹の背中に服をつかまれる感触。首だけで振り返ると、激しく視線をさまよわせる少女の姿があった。
「相変わらず恥ずかしがり屋さんねえ! おばさん、ちょっとお話ししたいんだけど」
「とかいって、実は用件も何もないんでしょう?」
「あらやだ、バレちゃったらしかたないわね。さっすが探偵さん」
「……探偵、関係ありますかね? この子今はあまり話したい気分じゃなさそうですし、今日のところはご勘弁を」
用があるたびに美穂がいないか尋ねてくるこの女性も、あくまで隣人。円滑な人付き合いのためにはあまり強くも当たれない。丁重にお辞儀をし、お引き取り願おうとする。
「そうね、あまりお邪魔しても悪いし。では失礼するわ」
「お疲れ様です。それから回覧板ありがとうございます」
こちらを向かずに手を振って、優雅な足取りで立ち去る女性。かつてモデルをやっていたらしい彼女は、かわいいものや人に目がないようで。
「ごめんな。あの人も決して悪い人じゃ……美穂?」
ひとつ大きく息をついて、背後の隠れん坊に話しかけた。はずだった。
そこに少女の姿はない。
いつの間に服から手を離されたのだろうかと辺りを見回すと、案外すぐに見つかった。事務所の奥だ。何やら事務机の上を見つめて、棒立ちになっている。捨てに行こうとしてくれたのか、豆せんべいの空き袋を抱えたまま。
ぞわりと、悪寒が舐め回した。探偵の全身を、丹念に丹念に。嫌な予感に二の足を踏みそうになるも、弾かれたように駆け寄っていく。
「どうしたんだ?」
「……しょちょーさん、これなに?」
いつもの舌っ足らず。だが、声が冷えている。言葉としては同じでも、普段のような好奇心からの単純な質問ではない。それくらいは今の探偵にも察しがついた。
振り向いてはくれない。依然として目線は落ちたまま。思い当たる節がないか探しながら、彼女の見つめる先を追う。
――それは、たった二枚の紙きれで。
「むずかしくてあんまり読めないけど、わかったよ。これ、健康診断の紙みたいなものだよね? 病気の人の」
同時に、すこぶる大事な機密書類だった。昨日からずっとしまい忘れたままだった、英樹と美穂のカルテ。
うろたえるわけにはいかない。この場において必要なのは、まずは落ち着いてもらうこと。相手の抱えている疑問を知ること。そして、その疑問を少しずつ溶かしていくこと。使える頭を全開に回して、探偵はそんな段取りをはじき出した。
「間違ってはないな。……で、なにか気になる事でも書いてあったか? たとえば、お前自身のことだとか」
彼女は何も知らない。知らされていない。だが、『めぐみ園』の園長からの頼みを反故にしてでも、伝える必要があるのだろうと。探偵は、その覚悟ができていた。
「最近ね、クラスのみんなができてるのにわたしだけできない、ってことが多いような気がしてきたの。わたしのほう見て笑ってきてたのもそうなのかなあって。……あれ? えと、ちがうの。ちがう」
シミの目立つ天井を見上げながら、美穂はけいれんしているかのような動きで両手をひらひらさせる。
少女のこういう手癖は、決まって困った時に出る。どうにかして、思考をまとめようとしているのだろう。
こういう状況になると、英樹はこれまた決まってじっと待つのだった。
「あっ、わかった。だからね、わたしなにか変なのかなって思ったの。ほんとにみんなが笑うんだもん。でも、赤ちゃんのときからびょうきだ……って書いてあるんだよね? これって。すこしわかった気がするの、わたしのこと」
「もしちゃんと知りたいんだったら、俺から教えてやれることもあるから。園長さんも遠くないうちに許してくれる……と思いたいし、そうなったらまた来るといい」
知らない自分を見つめ直し、受け入れようとする。恐ろしい事のようにさえ感じるかもしれない。だが、必要なことでもある。それを手助けするくらい喜んでしようというのが、英樹の偽らざる本心だった。
少女に帰ってもらえそうだというやましい喜びが背後にあっても、それは変わらない。だから、彼のやわらかい笑みはいつになく自然だった。おどける余裕すらある。
「ただ今日は時間がないだろ? そろそろ帰らないと怪しまれるぞ……主に俺が」
「まだ帰らないよ」
冷たさが戻ってきた。およそ普段見せないような険しい顔つきで、キッと英樹をにらむ少女。目尻には潤んだ粒を浮かばせて。
「知りたいけど、わたしのことは今はいいの。……しょちょーさんだよ」
「ん、俺がどうかしたか?」
英樹はあくまで無難な態度。これ以上美穂の話を聞けば、なにかが傷つく気がしたから。
――そして、それは当たっていた。すすり泣き交じりの声が、英樹を追い詰める。
「しょちょーさんも、びょうきなんでしょう? みんなが持ってる新しいものばっかり買ってたの、そういうびょうきだったから。そうなっちゃったのは、たくさんつらいことがあったから。読むのむずかしかったけど、たぶんわかったよ」
「……とてもざっくりと言うなら、そういうことになる」
「じゃあなんで、なんでおとなの人をしてたの?」
「俺はとっくに二十歳を越えてる。だから大人だぞ? 長くなっていいから、説明してくれないか」
探偵は意図が読めなかった。定義の話ではないのだろうとは察しつつも、しらばっくれるように逃げることしかできない。
「しょちょーさん、いつでもわたしのこと大事にしてくれてる。嫌そうな顔してる時もあるけど、でも本当にやさしい。学校の宿題とか私が悲しいときとか、一緒にゆっくり考えてくれるの、嬉しいんだよ。だけど……がんばるの、お休みしよ?」
悲痛だった。泣き濡れた瞳は、ただただ懇願に満ちていた。
「ぜんぜんわかんないけど、たぶんとっても大変なんだよね? いつも私とお話しするときも、きのうまで一緒にお出かけした時も、ほんとに優しくてどーんとしてて、がんばってて。しょちょーさんは、わたしの知ってる一番すごいおとなの人だって思ってる」
「お前の周りは、なんというか大変そうな人多いもんなあ」
「おうちの職員さんも、学校の先生も、たぶん悪い人じゃないんだよ。でも、わたしにはあんまりやさしくない。わたしが悪いのかな。それでね、おとなの人ってすごいなー、えらいなーって思ってたけど、最近よくわからなくなってきたの。でも、しょちょーさんはだーいすき! ……だからね、」
ひとつずつ、言葉を噛みしめるように。あるいは感情のまままくし立てるように。語調とテンションがインターバル走をしながらも、決して止まらずに言いつくす。
最後、深く息をついた。
「そんなに、無理しないでほしかった」
「……それが、言いたかったのか」
身を護るすべてを取り払われた上で、ひと思いに斬られた心地だった。
「無理したらね、しんどいの。わたしね、クラスの人となかよくなれなくてさみしいから、がんばってなかよしになりたくていっぱいお話ししたりみんなと一緒のことしようとしたことある。でもね、無理だったの。とってもつかれた。なかよしにもなれなかった。しょちょーさんも、無理したらよくないのは知ってると思う。だから……なんでそんな泣きそうな顔するまでがんばってたのか、わかんないの!」
「俺、そこまでひどい表情してるか?」
「してるもん。わたしのことはいいから……そういう顔してても、きらいになったりしないのに」
「心配かけたな、すまなかった。だが俺もな、今ちょっと弱気になってるわけにはいかないんだよ。なにしろ片づけなきゃなんないことが山ほどある」
他の依頼も、健一のことも、そして自分自身のことも。毒殺犯の件に至っては、ひょっとすれば自分たちの命ですら危ういのだ。
譲れない意志と優しさをまなざしに乗せて、真正面から伝えにいく。
メッキが剥がれかけていようがかまわない。この少女の前では、どこまでも強がれるつもりでいた。嘘でもいい。そうでもしなければ、美穂の前から頼れる大人がいなくなる。
「だから気にしないでくれ。俺はそこまで弱い人間じゃない、安心しろ」
「……うそばっかり。だって見たもん、新幹線で帰るときのしょちょーさん、とっても落ち込んでた。いつもみたいに、どわーんって落ち着いてなかった! びっくりしたよ、あんなとこ今まで見たことなかったから。だからね、ね? これからもがんばってしょちょーさんがぺしょーんってなったりしたら、ぐすっ……わたし、いやなの! きらいには絶対ならないけど、そんなの見たいわけないもん」
「そうか、本当にありがとう」
まなざしの雰囲気は変えないまま、左手で肩を支え、右手で背中をやわらかくたたいてやる。抱き寄せるわけではない。あくまで控えめに、やわらかく受け止めて落ち着かせるための。
「美穂は優しいな」
「いやなの……」
涙の河が弱まるまで、英樹はしばらくそうしていた。
ひとしきり吐き出せたのか、少女はそっと頭を上げて絞り出すようにつぶやく。注意して聞かないと、わからない程度の声量で。
「やっぱり、そんな目してる。しょちょーさんなんて、だいっきらい」
「お、おい……美穂!」
そっと身体を離して、ぐしゃぐしゃの顔で目をつむる。手にしたままだったお菓子の袋を落としながら、逃げるような早足で少女は出ていった。
「しつれいしました」
最後にひとつ、丁寧なおじぎがこちらを向く。こんな状況でも、あいさつは忘れないらしい。
開いたままの扉の先。探偵は、ただ呆然と見送っていた。




