1.嵐を呼ぶ手紙
白鳥 英樹は探偵だ。ひっきりなしに依頼が舞い込むということもない、まだまだ駆け出しの探偵だ。
受けているいくつかの依頼も、今できる作業はほぼ終わらせてしまった。
事態が動かない限り暇な身分。昼下がり、10月の陽光。仮眠するにはちょうどいい。
今は事務所に彼ひとり。電話番をせねばならないのだが、2,30分ならいいだろうと応接スペースのソファに横たわる。
時期にはやや早いが暖房を20度で入れ、沈み込むような感触に体を預ける。
あとは意識がスッと落ちるのを待つのみ――という態勢になったところで、表のすりガラス戸がだわんだわんと控えめに音を立てた。
かろうじて視認できるほどのしわを眉間に浮かべ、英樹は立ち上がりながらぼんやり思考する。この小さな事務所に来る人間は、たいてい3つのパターンのどれかだ。
ひとつ目は、依頼の際は必ず事前に電話予約しろと広報しているにもかかわらず、アポなしで飛び込んでくる人たち。けれどもノックの音がうるさくない。慌てているようには聞こえない。よってこの可能性は薄いだろう。
ふたつ目は、相談員兼事務の西沢さんが戻ってきた可能性。しかし、扉越しにぼんやり浮かび上がるシルエットは、彼女のそれより明らかに細身だ。
そうして最後の線だけが残る。今は午後4時、だいたいこの時間にうちへ訪れる軽いノックの細身な人物……となれば、
「美穂だよー、しょちょーさん」
「やっぱりか。今開ける」
ほわりとかわいらしいが、舌っ足らずでこもりがちな声。しかし、さながらこもれびのような癒しを含んでいる。
英樹が引き戸をガラガラ開けると、『片桐 美穂』と書かれた名札が縫い付けられた手提げかばんを持った、小柄なボブヘアの少女が飛び込んできた。元気そうな様子と裏腹に、少し身体をふらつかせながら。とてとてと小走りで。
彼女はかつて、(実質的な)依頼人としてやってきた。今は――
「こんにちは、なの。また勉強教えてほしくて。算数でやりたいところがあるの」
「急ぎの案件はないしかまわないが、暗くなる前に帰れよ。俺はもう施設の園長さんに『美穂ちゃんそちらにおられますか!?」って切羽詰まった声で電話かけてこられたくないんだ」
「わぁ今の声、とっても似てたよー。すごいすごい!」
「……早めに帰ろうな」
まんじゅうと張り合えそうなくらい色白なほっぺにかすかな興奮の朱が差し、大きな垂れ目でほにゃりと見つめられる。そんな風にされては、英樹には反撃する術などなかった。いつの時代でも、大人は子どもの純真さに勝てやしない。
「そういえば西沢さんいないねー。どこ行ったの?」
「お客様に出す紅茶がなくなりそうだったからそれを買いに行くのと、調査に協力してくれた人のところにお礼の品を持っていってもらってる。もうじき戻ってこられるんじゃないか」
「じゃあ、早く帰ってきてーってお祈りしようと思うの」
手提げを応接机に置いて革製のソファに座った美穂は、目をつむって合掌のポーズをとる。
「ほんとよくなついてるよな」
「わたしがなでなでしてほしかったりお話したかったりするときね、言ったらだいたいしてくれるんだもん」
ほわほわと笑う美穂の丸顔がほんの少しだけ陰ったことに、果たして英樹は気づけたのか。
「相手の手が空いてないときだったとしても、無視されたりすると悲しくなるのはわかるな」
「うん……でもしょちょーさんも私に優しくしてくれるから、本当のおとーさんみたい!」
そう言うなり、美穂はそばに立っている英樹の左腕を引っ張って隣に座らせ、そのまま腕にきゅっと抱きついた。えへ、ふえ、などと言葉未満の声を出して甘える姿は、なるほど親子のようである。
「ちょっやめ、今人が来たらどうするんだ」
慌てて少女を振りほどく。
「あっ……ごめんなさいっ」
「すまない、言いすぎた。お父さん代わりにはなれないが、来てくれればいつも通り相手する」
「ありがと……」
なにか言いたげな様子だが、美穂の口から出たのは感謝の四文字だけだった。しかし、その真意を感じ取った英樹は申し訳なそうに軽く頭を下げる。
「……だいじょうぶ、うん。それよりね、」
美穂は英樹の羽織るベージュのツイードジャケットを軽く引っ張って、
「しょちょーさん、また新しい服着てるね。あとなんだかおっきい?」
「ああ、ISSAI MIYAKOのやつだから当然だ。あと俺はその……いつでも流行りを追っているからな」
美穂からやや目をそむけるようにして、訥々と答えてよこす。
「わたしとは違うねー、流行ってるもの全然わかんないもん。ふわふわ~ってしたのがいい」
「それは知ってる」
低めのトーンで答えながら、英樹は少女を横目で見る。ゆるくシックな植物柄のワンピースの上に、ベージュのシャツと薄紅色のカーディガンの重ね着スタイル。下はカーキのタイツに毛皮つきのショートブーツ。
最近流行りのぴっちりとして清楚なファッションからはかなりの距離がある。おまけにどの服も着古したのがうかがえる。ただ、それはそれとして、落ち着きと柔らかさを感じさせる服装は、美穂のおっとりした印象を引き立てていた。
「……うぅ、じっと見られるとなんだか恥ずかしい」
「流行りなんて追わなくても、美穂にはこれが似合ってると思うが」
「えっ、ほんと!? やったぁ、クラスの子たちは『そんなカッコしてるの、あんた以外いないよ』って言うからちょっと不安だったの」
嬉しさがありあまったのだろう、美穂は両手を斜めに上げてその場でふわりと一回転――
「ひゃあっ!」
できなかった。バランスを崩し、応接机に置いた手提げに勢いよく手をついて倒れ込む。
はずみでその中身が吐き出され、バタバタと床に落ちていった。
「大丈夫か!?」
「うんっ。くる~ってしたらふら~ってなっただけなの」
何事もなかったかのようにぽえぽえ顔で返されたので、英樹は取り乱した自分がバカらしく思えてきた。それでも彼は散乱したものを拾い集める手伝いをしていたが、その中にあった茶封筒が妙に気になった。
彼女は一度学校から養護施設に帰り、身支度をしてここに来ている。つまり、意図的に封筒をこの事務所へ持ってきたことになるわけだが、英樹には一切の心当たりがなかった。ゆえに問う。
「美穂、この封筒はなんだ?」
「ええとね、郵便受けに入ってたから渡そうと思っただけだよー。忘れちゃってたけど、てへへ。たぶんお手紙だから開けてみて?」
「わかったが、そんなはずはないんだよな……いや、郵便なら昼前に来てるんだよ」
見逃したはずはないのにと、怪訝な目で封筒を見つめる英樹。
「まさか郵便爆弾の類いだったり……しないよな。ペラッペラだ。とりあえず、開けてみるか」
英樹は事務机の上の引き出しから木柄のペーパーナイフをわざわざ持ってきて、滑らせるように封を切る。そして中から1枚の紙を取り出して慎重に開いた。
ワードプロセッサで印字されたと思しきそれを、ゆっくりと読む。手紙の冒頭には、こんな一文が記されていた。
『私は、世間を騒がせている連続毒殺事件の犯人です』
投稿日などがおかしなことになっていますが、公募へ出すために、作品ページを残した状態で一時全文を取り下げていた経緯があるためです。お気になさらないでください。