第20話
朝はいつもと何も変わらずに訪れた。
昼間に眠った白百合と赤薔薇の体の傷はすっかり治り、温かな朝日を浴び、白いベッドの上に横たわっていた。
先に目覚めたのは白百合だった。
真っ白の手を握ったり開いたりしながら、そっと窓ガラスを通して伝わる太陽の温度にかざす。
寝起きはよかった。何せ、寝心地は最高なのだから。
そしてその隣には滅多に人前で眠ることのない赤薔薇の寝顔が安らかにあったから。
「・・ここ。」
オレンジの光に目を閉じて、下を向き、また目を開くと呟いた。
朝の冷たい空気は、まだ冬の匂いを微かに連れていた。
まだ誰も目覚めていない時間なのか、廊下さえも足音ひとつしない静けさを保つ。
白百合は心の中に浮かんだ考えを、首を振って否定した。
「だって赤薔薇が・・信じたんだもの。」
もしや。もしやここに閉じ込められて、人形師の手によって殺されるのではないか。
そう考えるといくら赤薔薇が安心して眠っているとはいえ、怖くて仕方なくなった。
しかしそれも仕方のないことなのだ。
白百合が人形へと堕ちたのは、たった8歳にもならない年だった。
その日から白百合の時は止まり、自分を殺そうとする人形師たちから逃れるために闇を駆けてきたのだ。
心はまだ幼い少女だというのに、人形師にそんなことは関係なく、容赦なく刃を向けられた。
そして自らを守るために、自分の持つ力全てを使って人形師を殺めたことさえあった。
「・・あか・・ばら。」
白百合は小さく呟いて、まだ夢の中で彷徨っている赤薔薇の冷たい手に触れた。
大きなベッドで静かに眠ったのは、いつ以来だろう。
白百合は広い部屋で一人きりになると、いろいろなことを考えてしまうからいけないと思った。
赤薔薇が信じた男に不審を抱いて、不安になるなんて。
ありもしないことばかりを考えて、
今だってもしあの重い扉を開いて人形師が鋏を向けてきたら逃げられるように体が構えている。
「・・一人にしないで。」
だからだろうか。白百合は思った。
だから彼女は、赤薔薇は、白百合が闇の中で静かに眠りにつくまでいつも起きていて、
白百合が目覚める前に目を覚まして、笑いかけるのだろうか。
白百合が頬を緩めた瞬間、廊下から足音が響き、その足音に白百合が扉を見るとその扉が開いた。
キィ―――
白百合の藍色の目が、その扉を開いた男を捕らえた。
「誰!?」
朝の静まり返った部屋には少し、大きすぎる声が響く。
その声に扉の取っ手から手を離して、その目を見つめる男が言った。
「静かにしなくちゃ、その子が起きてしまう。」
赤い目を持つ男の声は優しく朝の空気に溶けこんだ。
白百合はその言葉にバッと赤薔薇を見てため息をつくと、また男に目を戻した。
睨みつけられた男はなるべく優しく、今できる最上級の笑顔を見せる。
「・・貴方は」
ようやく心が落ち着き殺気を消すと、目を穏やかにして白百合は言った。
「久しぶりかな、白百合のお嬢さん。」
「ライズ。」
昨日白百合が覚えていた最後は、ライズの優しい声だった。
「契約主。」
ライズを見て白百合は言った。
その言葉にライズは悲しい目をしてゆっくり白百合に近づいた。
「なんか、こう・・分かるものじゃないんだね。契約って。」
「そうだね。」
「もっとこう・・ご主人様、って感じだと思ってた。」
「そうなの?」
「うん、そう。」
契約なんてライズにとっては所詮、言葉上の約束でしかなかった。
そこにどんな意味を探そうとも、形あるものは見つけることはできない。
「契約なんて口だけの約束が、重くなったようなものだから。」
ライズの足が止まり、大きな手が白百合に伸ばされた。
白百合はその手を拒もうかと思ったが、結局目を閉じて構えることしかできず受け止めた。
大きな手が白百合の髪をそっと優しく撫でた。
「君の髪はもともとこの色なのかい?」
白百合の髪は鮮やかな蒼とは違う、少し穏やかな藍色だった。
「うん。」
「そっか、綺麗な色だね。」
白百合は彼の言葉にゆっくり目を開く。
もし言葉に意味がないというのなら、その綺麗という言葉さえ意味を持たないのではないか。
白百合は彼の目から目を逸らして、シーツの上に指を滑らせた。
しかしその目の端に映るのは、ただ優しく愛おしそうに自分を見つめる赤い目だった。
その目を見つめるように、藍色の目がまっすぐにライズを見た。
「その目は意味があるの?」
「え?」
「・・違う、なんでもない。」
もし言葉が意味を持たないのなら、綺麗という言葉さえ意味を持たないというなら。
その目は、何かしらの意味を持つのだろうか。
白百合はそう問いたくて、言葉を少し間違えて、頬を染めた。そんな白百合にライズは笑った。
「そうだね。もしかしたら全てに意味があるのかも知れない。」
「・・よく、わからない。」
「そう?そうだよね。まだ、君には難しいかもしれない。
ところで白百合、人形になると自分の名前を忘れると聞いたけど、本当かい?」
「本当だよ。過去は少ししか覚えてない。名前は忘れた。赤薔薇も、私も、白薔薇の姉さまも、人形はみんな。」
大きな手が撫でるのをやめて、白百合から離れた。
するとそこに立っていたライズが急に白百合の前にしゃがみ、目線の高さを合わせる。
そして静かな声をまた、朝の空気の中に溶け込ませながら呟いた。
「じゃぁ、俺が君に名前をつけてもいいですか?」
レディーを扱うようにそっと、ライズは聞いた。
「つけて・・くれるの?」
「ずっと白百合とか、君じゃ呼びにくい。君さえいいのなら。」
「いいよ。」
それからまるで自分のわが子でも見るかのように、愛しそうに見つめると声を響かせた。
「リリィとか・・どうかな。そのままだけど。本当に、君は百合にそっくりだから。」
「リリィ?・・ほんと、そのまんまだね。」
そういうと、リリィはほのかに笑って白い花をその体から散らせた。
「百合の匂いでこの部屋がいっぱいになるよ。」
「嫌・・だよね、ごめんなさい。」
リリィは散らすのをやめて、顔を落とした。
「どうして?」
そんなリリィにライズは笑いかける。
「リリィの散らす百合の花、すごくいい匂いだよ。」
「本当にっ?」
「俺は百合の匂い、大好きだよ。」
ライズが人形師という敵であり、そして今は主であることさえリリィは忘れた。
そしてその朝の空気にはライズの優しい声と百合の甘い香りが溶け込んでいた。




