第2話
月夜に浮かぶ
生命の糸を切ることができる―――――人形師の鋏。
夜風に揺れる
美しい赤薔薇を覆う棘―――――人形の操る花。
「死ねっ!」
夜の闇を駆ける人形師は鋏で切りかかった。
棘が鋏に絡みつき、人形師の男はその場に止まった。
「私をただの人形と見るなんて、愚かな人間だ。―――――薔薇のエチュード。」
暗闇に舞った、真っ赤に染まった真紅のバラ。
その薔薇の花びらが全て地に落ちたとき、そこに残っていたのは鋏だけだった・・・。
◆
「ライズ様。」
そんな闇を映す窓を眺めている男に跪く男はその名を呼んだ。
しかし男は依然、窓の向こうの闇を眺めている。そこに何があるわけでもないのに。
「真剣にお聞きくださいませんか。」
低い声が苛立ちを見せる。
しかしそれでも彼はやはりその闇から目を反らすことなく、男に背を向け答えた。
「聞いているよ。続き、話してくれない?これでも結構忙しいんだから。」
優しく柔らかい声はその部屋にまるで似合わない。
その声が発した言葉に跪いていた男は怒りを覚え、その気持ちをぐっと堪えて言葉を続ける。
夜の中を伝ってきたことを伝えるのが、この男の仕事であった。
「申し訳ございません。・・先ほどの話ですが。」
「もうおじいさまは出さないって言ってるんだね?」
「はい。」
「誰も?」
「全てをライズ様に任せる、と。」
窓がカタカタと音をたてて風に揺れた。
それから椅子がキィと鳴いて回ると、男は遣いにようやく顔を見せて言った。
「三日後なら空いていると伝えて。」
「はい。」
「もういいよ、下がって。」
跪いていた男なんかより、ずっと若いその青年は短くそういった。
その言葉に男は丁寧に頭を下げると、音も立てずに部屋から消えた。
たった今、若き男は望み手を伸ばし続けてきたその場所に上り詰めた。
「・・やっと。」
広い部屋に一人きりの男が呟くと、明るい光が部屋を照らし、燃えるような熱い風と共に大きな力の塊が現れた。
赤い炎に身を包み、空気の中をまるで流れるようにフワリと男の傍に寄り添う。
『おめでとう、ライズ。』
「聞いてたんだ。」
『えぇ。』
炎を宿す目を細く和らげてその魂は言った。
炎を纏い、天に召されたという幻の存在。天炎の白虎シザンクルス。
その存在はこの地のどんなものにも恐れられている。
『長かったような気がするわ。』
「長寿の君に言わせれば、息をついている間でしかないのにね。」
『そうね。』
二人が出会った時、シザンクルスはもう5千年という時を生きていた。
それでもまだ未熟で、人間にしてみれば青年期なのである。
『人間の傍にいると、とても時間が長く思えて仕方ないわ。』
「人間の寿命なんて、ほんと。君の生きる時間の中で、ほんの一瞬に過ぎないからかもしれないね。」
ライズがそういうと、シザンクルスは綺麗に笑った。
それからスッと伸ばされたライズの手に頭を摺り寄せて、小さく鳴く。
シザンクルスだってもとは高貴な契約獣なのだ。人に遣える魔獣が成り上がり、神に召され、天炎の支配者となった。
そんなシザンクルスは自ら望み天をくだり、一人の少年の契約獣と成り下がったのだ。
『面白い人間ね。』
「そうかな。こんな人間どこにでもいるよ。」
『ふふ。そうかしらね。私は貴方以外でお目にかかったことがないわ。』
シザンクルスさえも従える、彼は人形師。
「そう?」
穏やかに笑ってみせるとシザンクルスは返事の変わりに優しく擦り寄った。
熱のベールを解き、溶け合うように二人は触れる。
二人は今共に同じ喜びを得ていた。
「・・あぁ、嬉しいよシザンクルス。」
『長かった気がするわ。・・あの椅子一つ得るために、時間が掛かった。』
「それでも最短距離だよ。まだ僕は十八だ。異例のスピード出世だよ。」
『ふふっ、それもそうね。その年の子が、地を意のままにするなんて怖いことね。』
「そのために、全てを捨ててきたんじゃないか。」
そう。この日のためだけに、全てを。
少年が全てを迷いなく捨ててきたのをシザンクルスだけは知っていた。
契約を交わしたその日からずっと、自分を従えしその幼き主が高みへと上り詰めていくその背を。
『世界を変えられる椅子のためだから。』
「僕が・・変えなくちゃならないから。」
その想いだけを抱えて。一心不乱にこの高みへと上り詰めた。
権力の最高峰へ。
椅子はあけ渡された。全てが始まる祝いに。全てが変わる祝いに。
その椅子は与えられた。
たった一人の若き人形師に。