プロローグ
イリスの杖1
「はぁ!はぁ!はぁ!はぁ!」
荒く早い息遣いが響く。
長い銀色の髪が、木々の間を抜けた陽光に照らされ、灰色に色褪せている。
その髪を揺らしながら彼女は、草木が生い茂る森の中を、小枝や葉を掻き分けながら走り続けていた。
「きゃっ!」
小石に躓き地面に身体を叩きつける。しかし身に付けている無駄に地味で実用的な衣服のお陰で、地面に散らばる小枝が刺さる、ということはなかった。
「走れ!!止まったら捕まるぞ!!」
野太い声がどこからともなく聞こえてくる。慌てて周囲を見渡せば一人の巨漢の男が、こっちに合図している。
ーーこの先に作戦ポイントがある。あと少しだ。
彼女は痛む足を動かし立ち上がる。そして男が指し示した先へと再び走り出す。
ずっと走り続ければいい。それで罠にかかった瞬間、総攻撃だ。
この作戦の前にチームのリーダーがそう言っていた。そして、
君達魔導師......君は魔導師じゃないかもしれないけど、魔法攻撃はこの種の魔物には非常に有効だ。頼りにしてるぞ。
と続けていた。
彼女は魔導師だ。魔法を扱うのを得意とし、主に後衛で戦闘を行う。だが彼女は今現在、魔物に追われる、つまり囮のような役目をしている。
これはある意味彼女の責任でもあった。
男が進む方向に合わせて彼女は走っていく。すると後方から、低い地響きとともに、枝が大量に折れていく乾いた音が迫ってくる。
ぎゃォォォォォォ!!
甲高い、決して人間には出せない音域の雄叫びが、すぐ側で聞こえ、それがだんだんと近づいてくる。
ーーあと少しだから......お願い間に合って!
彼女は自分の足に叱咤するように心の中で叫ぶ。既に今までの人生より多く走ったと言えるほどに、彼女の足は限界に来ていた。
走らなきゃ。
彼女はそれだけを考えて足を動かしていた。
その時、前を走っていたであろう巨漢の男が急にこちらを振り返り、何かを伝えるように叫んでいる。その額には汗、そして表情は焦り、危険を示していた。
だがその声が彼女に届くことはなかった。甲高い、人の声ではないおぞましい声に男の声はむなしくかき消されたからだ。
すぐ間近くで聞こえる音。彼女の思考がそれで停止した。
気力で走っていたとは言っても、それが脳を一切使っていないわけでは決してない。注意力を失えば、容易にバランスを崩してしまう。山の中なんて場所ならなおさらだ。
出っ張った石に引っかかり、そのまま茂みの中へと突っ込んでしまう。もう彼女の脳は何もかもがめちゃくちゃだった。グワングワンと目が回転し、何も考えれない。
地面が、大地がその生物によって揺れ動く。三半規管が何も機能せず上か下かもわからない。
生ぬるい、気持ちの悪い吐息が彼女の身体を舐め尽くす。むせ返るような匂いが吐き気を催す。
彼女が目を開ければそこには巨大な二つの目玉。真っ黒でまん丸なその目が彼女の姿を映している。仲間の大男よりもずっと大きな巨体に、少しピンクがかかった鱗のびっしり揃った堅牢な皮膚。二つの翼は、飛ぶというより寧ろ獲物を吹き飛ばし、叩きつける武器として使われているようだ。
そして彼女の目の前で巨大で硬質なクチバシがゆっくりと開かれる。
その奥には暗い、だが確かにそこには、僅かに鈍く光る魔法陣が見える。魔法が発生する際に必ず構築されるそれは、彼女が防ぐことにできる威力を遥かに超えている。
きっと彼女を丸焦げにして食べるつもりなんだろう。
ーー嫌だ...。まだ...死にたくない。
彼女はダラリと下げた右手に杖に力を加える。そのただの木の棒としか思えないそれが、僅かに発光する。
「我が魔力を喰らいて暗闇を照らす一筋の迅光と成れ」
彼女が覚えた唯一の攻撃魔法。最も弱い初級魔法で、まだ完璧に使いこなせているわけでもない。この魔物の魔法と力くらべすれば、豆腐を切るよりも容易く潰されてしまうだろう。だけど彼女は叫んだ。精一杯の生きる気持ちを乗せて。
「ライトニング・ボルト!!」
その光に包まれ、あるいは魔物の魔法に呑まれて、彼女の目の前は白光に染まった。