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七億円の当選券より、三億円の離婚届

掲載日:2026/09/04

# 七億円の当選券より、三億円の離婚届


「お前さえ死ねば、あの七億円は俺のものだァ!」


夜の十一時、夫のトモヒロが台所の万能包丁を振りかざし、寝室へ飛び込んできた。紺色のスウェットは腹の下までずり落ち、片方の靴下には穴が開いている。普段は冷蔵庫まで三歩歩くのも面倒がり、「お茶」「リモコン」「爪切り」と私を呼びつける男が、今夜だけは野生動物のように素早かった。七億円には、人間の眠っていた本性を叩き起こす力があるらしい。


私は花柄のパジャマの襟を直し、ベッド脇の時計へ目をやった。読みかけの推理小説には、昨日食べた煎餅の欠片が挟まっている。明日は燃えるごみの日なので早く眠りたかったが、包丁を持った夫をそのまま寝室に立たせておくわけにもいかない。


「大声を出さないで。隣の佐藤さん、朝が早いのよ」


「怖がれよ! なんだ、その態度は!」


トモヒロは包丁を握ったまま、床に脱ぎ捨ててあった私のカーディガンを踏んだ。昼間に干した洗濯物を畳みきれず、ベッドの脇へ置いてあったものだ。刃先が震えるたび、天井の豆電球の光が銀色に揺れた。


「昨日、お前の机を調べたんだ! 通帳の写しも見たぞ! サマージャンボの一等前後賞、合わせて七億円! どうして俺に隠していた!」


「机を調べたのではなく、勝手に引き出しを荒らしたのでしょう。封筒まで破いてあったわ」


「細かいことはどうでもいい! あれは俺たち夫婦の金だ!」


「宝くじを買った三千円は、私が毎月の食費から少しずつ残したお金よ。あなたは一円も出していないでしょう」


トモヒロは鼻を鳴らし、包丁を胸の高さまで持ち上げた。焼酎とニンニク入り餃子の臭いが、数歩離れた場所からでも漂ってくる。夕食の皿を洗わずに流しへ積み上げたのも、当然のように私だった。


「結婚している間に手に入れた金なら、夫婦のものだ! それに、お前が今ここで死ねば、夫の俺が相続できる!」


「自宅で、指紋のついた包丁を使って妻を刺して?」


「うるさい! 俺には完璧な計画がある!」


その計画には、逃走方法も証拠隠滅も含まれていないらしい。トモヒロは昔から、都合のよい結末だけを思いつき、そこへ至る手順を考えない男だった。新婚時代にも、脱サラしてラーメン店を開くと言い出しながら、寸胴鍋一つ洗わずに三日で飽きたことがある。


「ねえ、トモヒロ。私を刺す前に、ダイニングテーブルの上を見てちょうだい」


「命乞いか? 警察を呼んだんじゃないだろうな!」


「呼んでいたら、とっくに玄関のチャイムが鳴っているわ。それとも、七億円を手に入れるより刑務所へ入るほうがお好み?」


トモヒロは目を細め、包丁を構えたまま廊下へ下がった。床には、彼が三日前から放置している漫画雑誌と空のペットボトルが転がっている。その一本をかかとで踏み、派手な音を立ててよろめいたが、本人は何事もなかったようにリビングを覗き込んだ。


「な、なんだ、これは……?」


ダイニングテーブルの中央には、記入済みの離婚届が置いてあった。その隣には、弁護士が用意した合意書と封筒が重ねてある。朝食で使った苺ジャムの瓶が端に残っていたので、書類へ赤い染みがつかないよう、私は念のため盆を下へ敷いておいた。


「見れば分かるでしょう。離婚届よ」


「どうしてこんなものを用意している!」


「あなたが通帳の写しを見つけるよう、わざと机の一番上へ入れておいたからよ」


トモヒロの口が半開きになった。包丁を持つ手から力が抜け、刃先が床へ向く。怒鳴り込んできたときには真っ赤だった顔が、今度は古い障子紙のように白くなった。


「わざと……?」


「ええ。あなたが七億円を知ったら、私を脅すか、殺そうとすると思っていたの。結婚して二十二年も一緒に暮らせば、そのくらい分かるわ」


「俺を試したのか!」


「試験なら不合格ね。でも、追試は用意してあるわ」


私は寝室から出ると、トモヒロの脇を通ってテーブルの前へ座った。夕食後に飲み残したほうじ茶は、すっかり冷めて表面に薄い膜が張っている。その湯飲みを端へ動かし、合意書の金額を指先で叩いた。


「離婚届へ署名して、明日の朝、一緒に役所へ提出する。それが済んだら、手切れ金として三億円をあなたへ渡します」


「さ、三億円?」


「聞こえなかった? 三億円よ」


トモヒロの喉が大きく動いた。殺意で血走っていた目が、今度は数字を数える目へ変わっていく。包丁が手から滑り落ち、フローリングの上で乾いた音を立てた。


「本当にくれるのか? あとで惜しくなったと言っても駄目だからな!」


「必要な手続きは弁護士へ頼んであるわ。あなたが合意書と離婚届へ署名し、届出が受理されたら三億円を送金する。ただし、税金やあなた自身の借金は、あなたの責任で払うこと。ここにも書いてあるわ」


「そんなもの、あとで読む! 三億円あれば一生遊んで暮らせる!」


「先に読んだほうがいいと思うけれど」


「俺を馬鹿にするな! 漢字くらい読める!」


トモヒロは書類をろくに見ないまま椅子へ座った。油の染みたスウェットの袖で口元を拭き、私が差し出したボールペンを奪うようにつかむ。離婚届へ氏名を書き殴ると、朱肉をつけすぎた印鑑を力いっぱい押しつけた。


「これでいいんだろう! 明日の朝、絶対に三億円を払えよ!」


「合意書にも署名して。全ページに割り印が必要よ」


「面倒くさいな。金を受け取るだけなのに、どうしてこんなに書くものがあるんだ」


「七億円を相続する計画よりは簡単でしょう?」


トモヒロは不満そうに舌打ちしながら、それでも言われた場所すべてへ署名した。途中でテレビの上に置いてある認め印を取りに行き、ついでに残っていたポテトチップスを二枚口へ入れた。妻を殺そうとした直後でも食欲を失わないところだけは、昔から一貫している。


「よし、終わった! これで俺は三億円の男だ!」


「まだ離婚届を提出していないわ」


「朝一番で行くぞ。寝坊したら起こせよ!」


「最後くらい、自分で目覚まし時計をかけなさい」


翌朝、トモヒロは午前六時に起きた。結婚してから一度も自分で起きたことのない男が、目覚まし時計の鳴る前に布団を蹴り飛ばしたので、私は台所で味噌汁を温めながら笑いそうになった。彼はお気に入りの赤いポロシャツと白いズボンに着替え、髪へ私の整髪料をたっぷり塗りつけていた。


「朝飯はまだか? 役所が開く前に食べておきたい」


「離婚する日の朝まで、私に作らせるの?」


「今日で最後なんだから、いいだろ。卵焼きもつけてくれ」


私は冷蔵庫に残っていた卵を二個割り、甘い卵焼きを作った。焦げた端を自分の皿へ入れ、形のよい三切れをトモヒロへ出す。この男のために朝食を整えるのも最後だと思うと、菜箸を置く指から余計な力が抜けた。


「味噌汁が少しぬるいぞ」


「そう。明日からは自分の好きな温度で作れるわね」


「三億円あれば、家政婦を雇える。若くて美人の家政婦にな」


「雇用契約書だけは、きちんと読んであげてね」


午前九時過ぎ、離婚届は問題なく受理された。役所を出ると、九月の陽射しが歩道を白く照らし、街路樹では蝉が最後の力を振り絞って鳴いていた。トモヒロは庁舎前で何度もスマートフォンを確認し、送金完了の通知が届いた途端、大きな腹を揺らして笑い出した。


「入った! 本当に三億円だ! ハハハッ、これでお前みたいな年増の世話にならずに済む!」


「それはよかったわ」


「あばよ、貴美子! 俺は今日から人生をやり直す!」


「まず借金をやり直さないように気をつけてね」


トモヒロは私の言葉を最後まで聞かず、道路の向こうで待たせていたタクシーへ乗り込んだ。後部座席には若い女が座っており、派手な黄色のワンピースと大きなサングラスが窓越しにも見えた。浮気相手の麻里奈だろう。彼女は私と目が合うと慌てて顔を背けたが、トモヒロは三億円の入った口座を見せるのに夢中だった。


それから一時間後、私のスマートフォンが震え始めた。私は駅前の喫茶店でモーニングセットを食べており、厚切りトーストへ二つ目のバターを塗っているところだった。画面には「元夫」と表示されていたので、熱いコーヒーを一口飲んでから通話ボタンを押した。


『おい! どういうことだ、貴美子ォォォッ!』


「おはよう、トモヒロさん。声が大きいわよ」


『銀行で説明されたぞ! 三億円をそのまま使えるんじゃないのか! 贈与として申告が必要になるかもしれないって、どういうことだ!』


「宝くじの当選金が非課税なのは、当選金を受け取った本人よ。離婚に伴う支払いでも、財産分与として相当な範囲を超えれば、贈与と判断される可能性がある。だから税理士へ相談しなさいと、合意書にも書いてあったでしょう」


『そんなもの読んでない!』


「あなた、昨夜は漢字くらい読めると言っていたわよ」


受話器の向こうで、トモヒロが何かを机へ叩きつけた。銀行の窓口らしいざわめきに混じって、女性職員の困った声が聞こえる。私はゆで卵の殻をむきながら、塩の小袋を指先で切った。


『税金を払ったら、俺の三億円が減るじゃないか!』


「それから、合意書の第七条も確認してね。あなた名義の消費者金融の借入金と、あなたの実家の住宅ローン残債、合わせて八千万円は、受け取ったお金から一括返済する約束よ」


『は、八千万円!? 実家のローンまで俺が払うのか!』


「あなたが連帯保証人になったのでしょう。五年前、私に内緒で」


『あれは親父が勝手に……いや、待て! そんなに払ったら、一生遊んで暮らせないじゃないか!』


「働けばいいのよ。まだ五十二歳でしょう」


トモヒロの荒い息遣いが聞こえた。やがて、その奥から麻里奈らしい女の声が飛んでくる。「三億全部使えるって言ったじゃない」「じゃあ、昨日注文した車はどうするのよ」と甲高く責めていた。離婚届を出して一時間で高級車を注文したらしい。


『貴美子、今すぐ合意を取り消せ! 三億円を返すから、離婚もなかったことにしろ!』


「戻ってきて、今度こそ私を刺すの?」


『そ、それは言葉のあやだ! 夫婦なら喧嘩くらいするだろ!』


「包丁を持って寝室へ入ることを、世間では夫婦喧嘩とは呼ばないわ。防犯カメラの映像も録音も、弁護士に預けてあるから安心してね」


『録音していたのか!?』


「あなたが合意書へ署名したところまで、きれいに映っているわ」


電話の向こうが静かになった。トモヒロはようやく、自分が何をしたのか理解したらしい。けれど反省したのではなく、自分が損をしたと気づいただけだろう。


「それと、麻里奈さんへ伝えて。昨夜、彼女の旦那さんへ調査報告書を渡しておいたわ」


『な……』


「慰謝料を請求するそうよ。あなたにも内容証明が届くと思うから、郵便物は捨てないでね」


『貴美子ォォォッ! お前、最初から俺をはめたな!』


「いいえ。私は三億円を渡すと約束して、本当に渡した。税金も借金も慰謝料も、あなたが自分で作った支払いでしょう」


私は最後に残ったトーストの耳をコーヒーへ浸した。家ではトモヒロが嫌がるのでできなかった食べ方だが、柔らかくなったパンへ苦い香りが染み込み、思ったよりおいしかった。窓の外では、出勤途中の人々が信号の変わるのを待っている。


『俺の手元には、いくら残るんだよ……』


「さあ。きちんと申告して、借金を返して、慰謝料を払って、それから計算してちょうだい」


『俺は昨日、命まで見逃してやったんだぞ!』


「反対よ。命拾いしたのは、あなたのほうでしょう」


私は伝票を手に取り、椅子の背へ掛けていた薄紫色のカーディガンを羽織った。元夫の怒鳴り声はまだ続いていたが、もう最後まで聞く必要はない。通話を切って着信を拒否すると、喫茶店には食器の触れ合う音と、挽きたてのコーヒーの香りだけが残った。


七億円のうち、三億円はトモヒロへ渡した。それでも私の手元には四億円がある。私は駅前の旅行代理店へ入り、以前から泊まってみたかった海辺の五つ星ホテルについて尋ねた。


「お一人様でございますか?」


「はい。一人です」


店員はパンフレットを広げ、最上階のスイートルームを指した。大きな窓から海が見え、夕食には伊勢海老と鮑が出るという。私は料金表を見たあと、ためらわずに財布から身分証を取り出した。


「こちらのお部屋を三泊でお願いします」


「かしこまりました。何か記念日のご旅行でしょうか?」


私は少し考え、昨日まで左手の薬指にあった指輪の跡を親指で撫でた。二十二年間、トモヒロの好みに合わせて選んできた地味な服も、冷めた味噌汁も、床に脱ぎ捨てられた靴下も、今夜からは私の暮らしに入ってこない。


窓口の若い女性店員は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに営業用の柔らかな笑顔を取り戻し、「それは……本当におめでとうございます」と丁寧に頭を下げた。


手続きを済ませて店を出ると、午前中の生温かい風が私の頬をかすめた。


スマートフォンの通知欄を見ると、元夫からの着信履歴が着信拒否の通知として何十件も並んでいる。さらに、見知らぬ番号からの不在着信も一件。留守番電話を再生すると、予想通り、麻里奈の夫の弁護士からだった。「奥様、先ほどトモヒロ氏の口座および車に対して仮差押えの手続きを取りました。迅速な情報提供に感謝いたします」という、極めて事務的で頼もしい声が吹き込まれていた。


離婚してわずか数時間。トモヒロの「一生遊んで暮らせる三億円」は、贈与税、長年放置していた実家と自身の借金、そして浮気の慰謝料と仮差押えによって、みるみるうちに削り取られているはずだ。


手元に残るのは、おそらく高級車どころか、軽自動車を買って借金の残債に怯える程度の端た金だろう。おまけに、金目当てで近寄ってきた麻里奈からも、今頃は銀行のロビーで派手に罵倒されているに違いない。


「自業自得ね」


私は小さく呟いてスマートフォンをバッグの底へと滑り込ませた。


駅前広場の花屋の前を通りかかると、鮮やかな大輪の向日葵が目に入った。トモヒロは「花なんかに金を払う奴は馬鹿だ」と言って、結婚記念日に私が一輪のガーベラを買うことすら許さなかった男だ。


私は財布から真新しい一万円札を取り出し、一番立派な向日葵のブーケを買い求めた。


海辺のホテル行きの特急列車が出るまで、あと一時間。


私は両手いっぱいの黄色い花を抱えながら、どこまでも高く晴れ渡った秋の空を見上げた。私の人生の、本当の初夏がようやく始まった気がした。




「ええ。命拾いした記念日です」


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― 新着の感想 ―
ついでに殺人未遂で起訴されればいいのに。 50歳も過ぎて気持ち悪い。 きっと、今日は会社無断欠勤してるよね、元夫。 仕事もできなさそうだし、なんなら役もついてなさそうだし。不倫の果ての離婚じゃあ、居心…
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