殿下……本当にコレを選ぶのですか?
「……つまらない」
リート王太子は、今日だけでもう何十回目かのため息を吐きながら、紙を篭に落としていく。
近くの机で一次選考を務める文官や側近達は、退屈そうな主の様子に、どうせ今日も収穫はないだろうと肩を落としていた。
文学の神二ナローを主神とするこのニナリア国では、特殊な方法で王太子の妃……つまりは未来の王妃を選ぶと、国が繁栄すると言い伝えられている。
今年18歳を迎えたリート王太子の妃も、もちろんその方法で選考しているのだが、ひと月を過ぎても本命どころか候補すら見つからず、選考審査員達は焦り始めていた。
応募資格は、全国の16歳から22歳までの年頃の娘。容姿や身分は問わない。
詩や歌、あるいは短編小説など────応募要項はその時により異なるが、とにかく王太子が一番気に入った作品を書いた者が、妃に選ばれるのであった。
資格さえあれば、誰でも玉の輿に乗れる大チャンス。しかも優秀で大変な美丈夫と評判の王太子とあれば、年頃の娘達はもちろん、娘を持つ親や親戚達までもがそわそわし、国中がお祭りムードに包まれていた。
さて、今回の応募要項は、『春』をテーマにした歌。それも最近東国で流行しているという、五七五七七の五句で綴られる『短歌』という珍しいお題だ。
幼い頃からニナローを崇め、意識的に文学に触れている国民達も、これには苦戦しているらしい。通常一人一作のところを、今回は三作まで応募可にしたというのに、一次選考を突破する者すらなかなか現れない状況だった。
「殿下! こちらの作品はいかがでしょう!?」
欠伸をふわあと噛み殺しながら、差し出された紙を受け取る王太子。審査員達が固唾を呑んで見守るも、主の形の良い眉はピクリとも動かない。これはそう……興味がないという時の表情だ。
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
桜雨
乾く間もなく
花は散り
初夏という名の
風よ煽るな
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
「……何だこれは」
「ええと……作者の解説によりますと、友との別れを綴った歌だそうです。涙がまだ乾かぬうちに、新しい季節がやって来ることへの戸惑いと悲しみが……」
「もういい。他にないのか」
ポイと落とす王太子に、別の審査員が「こちらを」と新しい紙を渡す。
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
愛は去り
凍え続けた
私の手
繋ぎ歩くは
暖かな風
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
「…………」
「ええと、失恋から立ち直る女心を綴った歌だそうです。恋人を失い寒空に晒されていた手も、季節は巡り暖かな春風に癒され……」
「もういい」
落選した紙が積もっていく篭に、審査員達の中で一番若い文官は、次第に苛々し始める。
ちゃっちゃと妃を決めて、残業続きのこの日々とおさらばしたい。さっさと有給を取りまくって、可愛い恋人とイチャイチャするんだ! という一心で、似たり寄ったりの歌に目を通していく。
そんな中、今までのものとは全く違う歌が目に止まる。低すぎるクオリティに唖然とするが、半ばヤケクソで、それを王太子へ差し出した。
「こちらは? 非常に斬新ですよ」
『どうせまた大したことないんだろう?』という表情で受け取る王太子。が、それに視線を落とした瞬間、気だるそうな青色の瞳はパッと見開き、みるみる光が差していく。
王太子が初めて見せた『感動』に、審査員達はざわつく。皆手を止め立ち上がると、主の元へ駆け寄り、その歌を覗いた。
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
舞う桜
全部金なら
いいのにな
ひらひらひらり
ひらひらきらら
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
何だコレ。
唖然とする審査員達の中で、王太子だけが感動に打ち震えている。
「解説……解説は!?」
「……特に何も。あ、あと二作同封されていましたよ」
王太子は、奪い取るようにして別の紙を開く。
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
春は好き
タダでごちそう
手に入る
つくしにクレソン
食べ放題ね
負けられない
熊より先に
採ってやる
筍タラの芽
ぜんぶ私の
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
「素晴らしい……何て素晴らしいんだ!! 美しい桜を汚い金にたとえる感性、雑草を食らう生命力、そして熊をも恐れぬ欲深さ! 誰だ……この歌を詠んだのは誰だ!」
殿下……本当にコレを選ぶのですか?
と主の感性を疑いながらも、若い文官は淡々と応募者の情報を読み上げる。
「エルバ・ロッセ男爵令嬢です。年齢は17歳。あ、ロッセ領といえば、確か土地の大半を山が占めている辺鄙な場所ですね」
「会いたい! 彼女に会いたい! すぐに王宮へ招待……いや、こちらから会いに行く! 大至急、山登りの装備を!」
今にも飛び出しそうなのを、数人がかりで抑え込まれた王太子。
興奮冷めやらぬまま書いた直筆の招待状──── “ そなたの歌に大変感動した。直接会って解説を聴きたいので、王宮へ来て欲しい ” ────を、渋々使いへ託した。
ここに来て、やっと進展が見られた妃選考。ホッとした空気が漂う中、一番年長の側近だけは内心穏やかではなかった。
◇◇◇
一週間後、王宮へとやって来たのは、若草色の大きな瞳ばかりが目立つ、痩せた少女だった。
生地は良い物だが、もう十数年も前の、古い型のドレスを身に纏っている。
紅茶と菓子を勧めれば、素直に礼を述べ手を付ける。甘い物が好きなのか、大分雰囲気が柔らかくなってきたところで、王太子は切り出した。
「そなたの口から、あの歌の解説を聴きたい」
「……解説なんて何も。ふふっ、そのまんまです」
年頃の娘であれば、緊張して口も利けなくなる程の美貌とオーラに、彼女は全く怯まない。それどころか王太子そっちのけで、ケーキや菓子を幸せそうに頬張っている。
「そんな……勿体ぶらずに教えてくれ! 何故桜を金にたとえたのだ?」
「たとえたのではなく、ただお金に見えただけです。我が家は貧しいので」
『たとえたのではなく、見えただけ』
その言葉に彼は衝撃を受ける。近隣諸国と比べても裕福な我がニナリア国に、それ程までに貧しい国民……しかも貴族がいたとは。
事前調査によると、彼女の父親のロッセ男爵は、事業に失敗し、多額の借金を負ったまま亡くなったらしい。母親も数年前に他界している為、四人兄弟の長女である彼女は、十三歳の弟が成人し爵位を継承するまで、実質家長として男爵家を支えているという。
王太子として何不自由なく育った彼は、調査報告を受けてもただ漠然と気の毒だと思うだけだったが、彼女の言葉にようやくその境遇を窺い知る。王族は国民に寄り添い……などと言っているくせに、甚く能天気だった自分を酷く恥じた。それなのに……
「クレソンはともかく、つくしは美味しいのか?」
興味本位から、ついそんな質問をしてしまう。貧しさから嫌々食べているのであれば、『ごちそう』という言葉は使わないと思ったからだ。
失礼だったかと後悔する王太子に、エルバ・ロッセ嬢は若草色を輝かせながらこう答えた。
「はい、とっても。つくしは油で炒めると、すごく美味しいんです。クレソンは添え物のイメージが強いですが、細かく刻んでパンに混ぜると香りがいいですし、乾燥させれば素敵なお茶になります。どちらもお腹にはあまり溜まらないんですけどね」
「そう……なのか。それは飲んでみたいな。あと、そなたは本当に熊と戦うのか? 危険ではないのか?」
興味津々の王太子に、エルバはチーズタルトを噛りながら、悪戯っぽい顔で笑う。その愛らしさに、王太子の胸はドキリと跳ねた。
「はい、危険を承知で戦っていますよ。山菜やらキノコやら、一年を通して常に採り合いっこしているようなものです。でも目が合うと、いつも向こうが怯えて逃げていくんです。そんなに睨んでいるつもりはないのですけどね……私が山の主だと、ちゃんと分かっているのでしょう」
熊をも怯えさせる女性。この華奢な身体の、一体どこにそんなパワーがあるのかと王太子は驚く。あの歌から感じた生命力は本物だったと、ますます彼女に惹かれていった。
会ってからまだたったの数十分。それでも王太子は、エルバと一緒に雑草や山菜料理を食べる、幸せな未来を描き始めていた。
タルトからクッキーへ。なかなか空かない彼女の忙しない右手を、王太子はすかさず両手で掴んだ。
自分とは全く違う、荒れた肌の感触にハッとしながらも、溢れる想いを言葉に乗せた。
「エルバ嬢。私はそなたの歌だけでなく、そなた自身にも大変惹かれている。もしよければ……私の妃になってもらえないだろうか?」
田舎の山奥の貧しい男爵令嬢が、王太子の妃になる。若い女性なら誰もが憧れるシンデレラストーリーだが……
エルバはクッキーのかすを口の周りに付けたまま、ぽかんと王太子を見上げる。慌ててナプキンで口を拭うと、さっきまでの生き生きとした表情はどこへやら。伏せ目がちにこう呟いた。
「それは……大変有難いお話ですが……まさか殿下のお妃様になるだなんて、私、そんなつもりは全くなくて。今日こうしてお招きいただいたのも、おかしな歌に興味を持たれただけだろうと」
「……どういうことだ?」
怪訝な顔で問えば、エルバは掴まれていた手をするりと抜き、申し訳なさそうに理由を話し始めた。
「既にお気付きでしょうが……私は幼い頃から、文学が大の苦手なのです。本も嫌いですし、作文も作詩もいつも酷い有り様で。家庭教師からは匙を投げられていました。ですから、まさか私の下手くそな歌が、殿下のお目に止まるなどとは思っていなかったのです」
「では何故、妃選考に応募したのだ?」
そう、妃選考は、強制ではなく任意である。
文学の神ニナローの加護を賜るには、妃を選ぶ王太子側だけでなく、女性の方にも妃になりたいという強い意思が必要とされているからだ。
その為、既に恋人や婚約者がいたり、王妃になる自信がない娘は、応募しなくても構わないというのに。
「それは……お恥ずかしながら、我が家の家計は火の車で。食費は山や川で何とか賄えるのですが、私の稼ぎでは弟の学費だけはどうにもならず……来月までに滞納分を支払わなければ、王立学園を中退せざるを得ない状況なのです。かといって、土砂災害で散々苦しんできた領民から税金を巻き上げることも出来ず、追い込まれていました。
もし、この状況を歌に綴れば、選考に関わった方が救いの手を差し伸べてくださるのではないかと。そんな甘えた希望を抱いてしまいました。父の遺した負債を娘の私が背負うのは当然のことですのに……。愚かな考えで神聖な妃選考に応募してしまい、誠に申し訳ありませんでした」
下げられた頭と共に、ハラリと落ちる金髪。
食費は山で賄えると言っていたが、その色艶から、若い女性に必要な栄養が充分に足りていないことが分かる。崖っぷちに立たされ、必死に縋った彼女を、どうして愚かだと責めることが出来ようか。
「……ならば、尚更私との結婚を考えては? 妃になれば、その実家や領地にも、国から公的に援助が出来る」
「いいえ。妃など、私には荷が重すぎます。殿下はあの歌をお気に召してくださったようですが……ニナロー様の加護を賜る程の文才がないことは、私自身が一番よく分かっていますから。国の繁栄の為にも、もっと殿下に相応しいお妃様をお選びください」
そのようなことはないと言い掛けるも、彼女の硬い表情に、王太子は口をつぐむ。
「では……そなたはこれからどうする気だ?」
「……実は、私に求婚してくださっている方がいらっしゃるのです。父の友人なので少し歳上ですけれど、遺された私達を気に掛けてくださっている優しい方で。良いお話なのに躊躇してしまっていましたが、今日殿下とこうしてお話させていただいたことで、ようやく踏ん切りがつきました」
「求婚……? そう……そうなのか」
「……お怒りになっても仕方ないのに、温かいお言葉や、美味しいお菓子まで頂いてしまって……どうもありがとうございました」
告げられた言葉と、さっきよりも深く下げられる頭に、王太子は激しく動揺する。何とか口を開き、『夕飯はそなたの好きなものを』『観光がてら数日王宮に滞在しては?』などと引き止めようとするが、幼い妹達が家で待っているのでと断られてしまった。
土産に渡した焼き菓子を宝物のように抱えて馬車に乗り込む姿に、王太子の胸はつきんと痛んだ。
◇◇◇
あの日から、王太子の頭を占めるのは、寝ても覚めてもエルバ嬢の若草色ばかり。
何故強引に妃にしなかったのだろう、だが本人にその気がないものを……と初めての恋心に揺れる中、せめて公的にロッセ領を援助する法はないかと模索していた。
エルバ嬢とは縁がなかったとされ、再開した妃選考。王太子は今日も心ここにあらずといった状態で、似たり寄ったりの歌を篭に落としている。
今日はもう終いにするかと立ち上がりかけた時、一番年長の側近が、興奮しながら一枚の紙を差し出した。
「 殿下! こちらの作品はいかがでしょう!?」
どうせまた……と視線を落とした瞬間、光を失っていた瞳がカッと見開く。
王太子が見せた『何か』に、ざわつく審査員達。主の元へと駆け寄るが、あの時とは違い、覗く前にくしゃりと閉じられてしまった。
「……この歌を詠んだのは誰だ」
「フローネ・シャムス侯爵令嬢。シャムス宰相のお嬢様です。さすが詩歌のコンクールで受賞されただけあって……」
「会わせろ。大至急」
感情の読めない王太子に、微妙な空気が流れる室内。前回の件もあり、皆慎重になっている中、フローネ嬢の歌を勧めた側近だけがほくそ笑んでいた。
◇◇◇
翌朝、招かれることが分かっていたかのように、準備万端でやって来た宰相の娘。
自分の目の色と同じ、サファイアのアクセサリーと青いドレスでふんぞり返る姿に、もう王妃にでもなったつもりかと、王太子は内心呆れていた。
菓子や紅茶には目もくれず、こちらだけをうっとりと見上げる彼女に、王太子は例の紙を差し出す。
「まあ! 私の歌、読んでくださったのですね」
「ああ。斬新で素晴らしかったよ。よければ、そなたの声で聴かせてもらえないだろうか。……解説付きで」
「はい……はいっ! もちろん!」
令嬢は背筋を伸ばすと、白い手に紙を持ち、笑みを湛えながら唇を開いた。
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
雪解けの
ほとりに輝く
クレソンは
肉を彩り
引き立てる草
「初春の、冷たく清らかな川のほとりに息づくクレソン。ただの雑草も、上等な肉に添えれば彩りとなり、その旨味を引き立て輝くのです」
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
解説の最後の一音まで、丁寧に声を響かせる令嬢。
瞳を潤ませながら王太子の反応を窺うも、それは一向に返ってこない。
口を固く結んだままこちらを見る王太子に、令嬢は次第に不安になる。とうとう痺れを切らし、「いかがでしたでしょうか?」と自ら尋ねてしまった。
愚かな問いに、王太子の唇がふっと歪む。薄く開いたそのすき間からは、初春の川よりも冷たい声が漏れた。
「……誰の入れ知恵かは知らないが。物真似で私を感動させられると思っているのか」
『物真似』という言葉に、令嬢の顔色がサッと変わる。先程までの自信はどこへやら、身を縮こまらせて震え出した。
「クレソンは添え物にしかならない雑草……私もそなたと同じように思っている。だから、こんな歌を聴いたところで、全く感動などしないのだよ。……クレソンを食べる歌を書けば、王太子を落とせるとでも聞いたか? ああ、つくし、筍、タラの芽よりも、クレソンの方がまだイメージが湧きやすいからな」
目を伏せたままの令嬢に、王太子は畳み掛ける。
「私の想像が正しければ……宰相であるそなたの父親と、妃選考の審査を務める側近の誰かが通じて、情報を漏らしたのだろう。厳正なる選考会で、決してあってはならない不正行為だ」
「そっ、そのような!! 私はただ肉を飾るクレソンを見て……」
「幼い頃からそなたとコンクールを争ってきた私が、そなたの詩歌を知らないと思うか? 折角素晴らしい歌を詠むのに、人の真似をした挙げ句、心のない解説までするとは……残念だ」
咎めているのにどこか優しい彼の口調は、令嬢の胸に文学への純粋な想いを呼び起こす。
妃の座欲しさに、愛のない歌を詠んでしまった自分を酷く恥じ、その場に崩れ落ちた。
神聖なる妃選考での不正行為は、主神ニナローを愚弄する大罪だが、宰相とあの年長の側近は、軽い謹慎処分で済まされた。何故なら、フローネ嬢の詠んだ他の二作は大変素晴らしく、若い才能を潰すことは神も喜ばないと、王太子が王に進言した為だ。
それにフェアではないと思った。あのエルバ嬢だって、その気がないのに応募したにもかかわらず、私情を挟み何の罰も与えなかったからだ。
将来国の頂点に立つ者として、あるまじき行為だ────
そう考えた王太子は、完璧な装備を整えると、王命を手に険しい一歩を踏み出した。
◇◇◇
「優しくて素敵な方だったなあ」
ぽつりとつぶやいた言葉は、川のせせらぎに消えていく。エルバは手を伸ばし、青々と茂るクレソンを摘むと、泥の付いた手ごと川で濯いだ。
キンと冷たかった雪解け水も、今では陽の光を湛え、穏やかに流れている。この山が完全に夏に模様替えする頃には、自分はあの男の元へ嫁がなければならない……そう考える度にため息が溢れた。
王太子には良い話だと言ったが、エルバは結婚相手となるその男が苦手だった。会う度に必要以上に身体に触れてきたり、なめ回すような視線が気持ち悪かった。
だが、今更断ることも出来ない。父の事業が傾いた時には何度も融資してくれたり、赤字続きの古い工場を引き取ってくれたり。父の死後も、遺された家族を何かと気に掛けてくれている恩を、無下にする訳にはいかないのだ。
もう一つ、エルバの気を重くさせていることがある。この結婚は本当は結婚ではなく、いわゆる愛人契約だということだ。
既に本妻がいる男に囲われる。そんなことを考えれば余計に惨めになる為、これは結婚なのだと自分に言い聞かせているのだ。
(もし、殿下と結婚していたら……
王宮から戻ってからというもの、そんな夢みたいなことばかりを考えてしまう。
あり得ない。私なんかが妃になったら、ニナロー様も国民もお怒りになるわ。あんな素敵な方、どう考えても私には釣り合わないのよ)
エルバは初めて芽生えた恋心を、クレソンに絡めて必死に摘み取ろうとしていた。
長いこと川辺の風に当たっていたせいか、すっかり冷えてしまった頬を、生温かい何かにペロッと舐められる。
「ふふ、くすぐったい」
黒い大きな友達を撫でると、ふわふわのその胸に、こてんと頭を預けた。
(嫁いだら、もうこの子ともこんな風にいられなくなるわね。……たまに会いに来るくらいなら、許してもらえるかしら)
その時ふと、友達を包む空気が、野生のものに変わる。人間には気付かない気配を感じているのか、鋭い目で一点を睨みながら、エルバを守るように前に立った。
カサ……カサカサ……
「……ほら! こっち、こっちに川があるぞ!」
「殿下! お待ちください!」
「危のうございます!」
ガサッ
長く伸びた草が割れ、そこから長身の男性がニュッと現れる。泥や汗にまみれた顔の中で、余計に光を放つ青い瞳。その高貴な輝きに、エルバはすぐにある人物だと気付き、息を呑んだ。
それは向こうも同じだった。草の向こうに突然現れた想い人と……自分を威嚇する巨大な熊の姿に、ひゅっと息を呑む。恐怖と疲労で、そのままバタリと気を失ってしまった。
◇
「ん……」
目を開ければ、そこには心配そうに自分を覗き込むエルバがいた。
「殿下! ご気分はいかがですか?」
頭はぼんやりしているものの、額に当てられている温もりに気付き、ただただ嬉しくなる。「すぐに側近の方を……」と立ち上がろうとする彼女を、手を掴んで咄嗟に引き止めてしまった。
「あ……申し訳ありません。貴いお顔に触れてしまって」
勘違いしたのか、しゅんとした顔で詫びる彼女に、王太子はぶんぶんと首を振る。その振動で頭の霧が晴れ、何故自分が気絶したのかを、ようやく思い出した。
「そうだ……熊っ……熊は!? そなたは大丈夫なのか!?」
エルバは一瞬きょとんとするも、あの悪戯っぽく愛らしい顔でこう答えた。
「はい。大丈夫です。あの子とは友達なので」
「トモ……ダチ?」
「はい。この山に住む生き物とはみんな友達なんですよ。特にあの子とは一番の親友で。……熊と友達なんて言ったら引かれてしまうと思い、先日は嘘を吐いてしまいました。ごめんなさい」
「そう……か」
熊を怯えさせるどころか、手懐ける女性。更に上をいく彼女のパワーに、王太子は圧倒され、そしてますます惹かれていく。
────欲しい。
その一心で身体を起こすと、厳しい顔で彼女を見据えた。
「その気がないのに妃選考に応募しただけでなく、嘘を吐いて王族を嘲笑うとは……とんだ罪人だな」
明るかったエルバの顔は途端に曇り、眉がくっと下がる。豊かな表情に笑いを堪えながら、王太子はわざと声のトーンを落とした。
「エルバ・ロッセ嬢。今日はそなたに王命を授けに来たのだ」
「王命……」
若草色の瞳が、大きく瞠られる。
(お家断絶……領地没収……最悪、死刑……
主神と王室を愚弄したのだから当然のこと。だけど、罪のない幼い弟や妹達だけは、何とか見逃してもらえないだろうか)
覚悟しながら次の言葉を待つエルバ。王太子はそんな彼女を余所に、王家の紋章入りのいかにもな文書を広げ、厳かに言葉を放った。
「大罪人、エルバ・ロッセ男爵令嬢へ命ずる。
主神ニナローの加護の元、そなたをリート・バーセニ王太子の妃に定める。妃教育、及び結婚式の準備の為、速やかに入宮せよ」
「…………へ?」
予想だにしなかった命に、思わず間抜けな声が出てしまう。ぽかんと開いた桜色の唇と、くるくる揺れる若草色に、王太子は堪らずふっと笑いを漏らした。
「あの……これはどのような……」
「そのままだよ。私の妃にする為、そなたを王宮に迎えるというご命令だ」
「あの、ですがそれは先日」
「ああ、断られたな。そなたの歌も、そなた自身も大変気に入ったと伝えたのに、信じてもらえなかった」
美しい唇を子供みたいに尖らせる王太子に、エルバは次の言葉が見つからない。
「……確かそなたは、もっと私に相応しい妃を選べと言ったな? 国の繁栄の為に。だが、もし私が他の女性と望まぬ結婚をして、ニナロー様の加護を賜るどころか怒りを買うことがあれば……私を拒絶したそなたのせいだ」
「そっ、そんな……!」
王太子は王命を脇に放ると、エルバの華奢な手を握る。荒れたその肌を優しく撫でながら、若草色を真っ直ぐに見つめた。
「エルバ・ロッセ嬢。私はそなたのことが好きだ。日に日に高まるこの想いを抱えながら、どうして他の女性と結婚することなど出来ようか。どうか……どうか、覚悟を決めて、私の妻になって欲しい」
彼の青い瞳からは、激しくも純粋な熱が伝わる。この熱に灼かれたらどんなに心地好いだろうと、心を預けそうになる。が────
ふと大事なことを思い出す。
「私……私には、結婚を約束した方が……」
「ああ、あの罪人なら、昨日投獄した」
「え?」
「そなたの話から引っ掛かるものを感じ、調査していたんだ。結果、アイツは恩人どころか、お父上の事業を乗っ取る為に、裏で手を回していた悪人だということが分かったよ。挙げ句に、心労で心臓が弱っていたお父上に、負荷の掛かる増強剤を渡して死に追いやった」
エルバは言葉を失う。男爵家を突然襲った不幸は、全てあの男によってもたらされたものだと聞けば、何故かすとんと腑に落ちてしまった。
「若く魅力的なそなたを自分の愛人に据えた後は、弟の後見人となり、この領地も手に入れるつもりだったと吐いた。妹達も、ゆくゆくは政略結婚の駒として利用する予定だったと」
エルバは唇をギュッと噛み締める。
「悔しい……悔しいわ」
家族を守る為に決断したことが、いずれ家族を不幸にしていたかもしれない。貧しさのあまりあの男の本質を見抜けず、安易に縋ろうとしていた自分が情けなかった。
泣くことも出来ず身体を震わせるエルバ。やり場のない怒りや悲しみを、王太子は華奢な身体ごと胸に抱き寄せた。
「自分を誇っていい。そなたは家長として、立派に家族を守ってきたのだから……。これからは私に、そなたの大切なものを預けてくれないだろうか」
温かな言葉に、ほろりと落ちる涙。と同時に、意思を持った細い腕が、広い背にゆっくりと回された。それは彼女の持ち得る全てを、彼に許し引き継ぐ為の儀式にも見える。
やがて彼女は小さな声で……だがはっきりと、「私も殿下に毎日美味しいクレソンティーを淹れて差し上げたいです」と返事をした。
「わあ、本物の王子様だわ」
「素敵ね」
可愛らしい声に振り向けば、細く開いたドアのすき間から、オリーブ色の四つの瞳が覗いている。
「あ……私の双子の妹達です。ほら、こちらへ来て殿下にご挨拶しなさい」
エルバによく似た小さな淑女達の挨拶に、王太子は顔を綻ばせる。
「そっきんの方から、お菓子やバナナをいただきました」
「でんかも一緒にお茶を召し上がりませんか?」
可愛い誘いを断る理由などない。
爽やかなクレソンティーと山菜料理の並ぶ食卓で、王太子は想い人と共に、少し早い家族団欒を味わった。
その数日後、王太子らと諸々の支度を整えたエルバは、幼い双子だけでなく、『黒い親友』も連れて山を下りた。
熊にとっては当然山の方が暮らしやすいだろうと、泣く泣く離れようとしたのだが……長い別れだと分かっているのか、とうとう麓まで付いてきてしまったのだ。
泣きながら何度も抱き合うエルバと熊。やっぱり山に残る! なんて言われたら……と恐れた王太子は、親友も王宮に連れて行く決断をする。一旦エルバから熊を引き剥がすと、自分のマントで黒い巨体を飾り、馬車の隣を堂々と歩かせることにした。
主神ニナローは、狂暴な熊に本を読み聞かせ、従えたという伝説もある女神。王家の馬車と王太子の紋章を背負った熊が並んで歩くその光景に、「次の妃殿下は、ニナロー様の化身に違いない!」「ニナロー様のご加護を!」と、勝手に国中が沸き立ってくれた。
ところがなんとその期待通り、エルバ妃が愛したロッセ領の山々からは、結婚後すぐに大量の天然資源が発掘される。ニナローの化身と謳われる明るい妃の元、ニナリア国はますます潤い栄えていった。
◇◇◇
────まさか本当に、コレが選ばれるとはな。
歴代の王族達の歌が飾られた部屋。
すっかり白髪になったいつかの若い文官は、立派な額に納められた、あのおかしな歌を感慨深く眺めていた。
隣へ視線を移せば、現国王が結婚式で妃へ贈った歌が並んでいる。
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
移りゆく
若草色を
追わずとも
私の傍に
いつも在る春
✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽.。.:*・゜ ✽
文字から溢れる春の色は、あれから何十年経った今でも、見る者の胸を暖かく染めていくのだった。
ありがとうございました。