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無名の英雄たち  作者: 冷やし中華はじめました


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8/8

紡ぐもの

エマ・ブラッドストーンは、万年筆を握る右手に残った微かな痺れを感じながら、最後のピリオドを打ち込んだ。  ペン先が紙から離れるその瞬間、世界から音が消えたような錯覚に陥る。彼女は深く、肺の底に溜まっていた澱をすべて吐き出すように長い息をついた。


 ふと顔を上げると、西向きの窓から差し込む夕日が、部屋全体を燃えるような茜色に染め上げていた。オーク材の重厚な机の上には、幾重にも積み上げられた羊皮紙の山が広がっている。インクの匂いと古紙の香り。それが、彼女がこの数年間、世界中を旅して集めてきた「彼ら」の生きた証だった。


「終わった……」


 乾いた唇から零れた言葉は、部屋の静寂に吸い込まれて消えた。その声色には、長い登山を終えた登山家のような達成感と、祭りの後の広場に取り残されたような、どうしようもない寂寥感が入り混じっていた。  エマは軋む革張りの椅子の背もたれにゆっくりと身を預け、熱を持った瞼を閉じる。  瞼の裏に浮かぶのは、大陸全土を巡った数千日の旅路だ。凍てつく北の雪原、焼けるような南の砂漠、そして魔物が跋扈する深い森。数えきれないほどの出会いと、それ以上の別れ。幾多の困難と、その先に見つけた小さな希望。全てが今、この机の上で一つの物語として結実したのだ。


 目を開けると、机の最も目立つ場所に置かれた、銀色の写真立てが視界に入った。  写真の中の青年――ルークは、あの日と変わらない屈託のない笑顔でこちらを見つめている。癖のある茶色の髪、少し垂れた目尻、そして何よりも優しかった瞳。彼がそこにいるだけで、周囲の空気が柔らかくなるような、そんな不思議な魅力を持ったパートナーだった。


「ルーク。あなたなら、この結末をどう思うかしら?」


 エマは写真の彼に問いかける。返事がないことは分かっている。それでも、問いかけずにはいられなかった。その瞬間、彼女の脳裏にある記憶が、まるで昨日のことのように鮮烈に蘇った。


 王都の冒険者ギルド、喧騒に満ちた酒場の片隅で出会った日のこと。  当時のルークは、剣の握り方すら覚束ない、頼りない新人冒険者だった。「誰も傷つけたくない」と甘いことを言い、先輩たちにからかわれていた彼を放っておけず、エマは世話を焼いた。手取り足取り戦い方を教え、依頼の選び方を説き、冒険者としてのイロハを叩き込んだ。  だが、彼はエマの想像を遥かに超える速度で成長した。剣技の才があったわけではない。魔力が特別強かったわけでもない。彼にあったのは、底なしの「優しさ」と、他者のために我が身を投げ打つ「愚直さ」だった。その精神性が彼の潜在能力を開花させ、いつしかエマは彼に背中を預けるようになり、やがてその背中を追いかけるようになったのだ。


 ルークから学んだこと。共に乗り越えた死線。二人で見た美しい景色。  そして――あまりにも早すぎた、永久の別れ。


 エマは震える手で、部屋の隅に置かれた年代物の木箱を引き寄せた。留め金を外すと、中には古びた一巻の巻物が眠っている。表面には魔術的な封印が施され、微かな青白い光を脈打たせていた。  それはルークが最期に、命と引き換えに彼女へ託した遺書であり、記録媒体――「ログの巻物」だった。


 エマは意を決して封印を解き、巻物を広げた。魔力を流し込むと、紙面から光の粒子が立ち昇り、空中に立体的な映像を結び始める。ノイズ混じりの映像の中に、懐かしい彼の姿が浮かび上がった。背景には、崩れかけた石壁と、不気味に蠢く紫色の瘴気が見える。


『エマへ。……君がこれを見ている時、僕はもうこの世にはいないだろう』


 映像の中のルークが語りかける。その顔は土埃と血に汚れ、呼吸は荒いが、瞳だけは澄み渡っていた。


『謝らなきゃいけない。約束、守れなくてごめん。でも、どうか悲しまないでほしい。僕の魂は、いつだって君の隣にある』


 ルークは一瞬だけ寂しげに笑い、すぐに表情を引き締めてカメラ(記録魔石)を見据えた。


『重要な報告がある。この場所――魔王城跡は、僕がこのあと完全に封鎖する。ここはただの遺跡じゃない。人が触れれば即座に感染し、治療の手立てがない致死性の病原菌の巣窟だ。このままでは、世界中に死の病が蔓延してしまう』


 映像が揺れる。轟音と共に、画面の端に巨大な影が映り込んだ。魔王だ。かつて世界を恐怖に陥れ、封印されたはずの厄災。


『だから、僕がここで全てを終わらせる』


 そこから先は、涙なしには直視できない、ルークの最後の戦いの記録だった。


 魔王城の最上階、吹きさらしの玉座の間。  ルークの足元には、共に潜入した精鋭たちの遺体が横たわっている。彼らは皆、魔王の強大な力と、充満する病魔の毒気にあてられ、命を落としていた。  ルーク自身もまた、限界を超えていた。肌は病の影響でどす黒く変色し、立っているのが奇跡のような状態だ。


『ククク……逃げ場などないぞ、愚かな人間よ』


 魔王の声が、地の底から響く雷鳴のように轟く。三対の翼を広げた異形の王は、虫ケラを見るような目でルークを見下ろしていた。


『その体を見ろ。病に侵され、もはや指一本動かせぬはず。貴様に何ができる? ここで朽ち果て、我が苗床となるがよい』


 絶望的な状況。しかし、ルークは膝をつかなかった。血を吐きながら、彼は剣を杖代わりにして、ゆっくりと、だが確実に立ち上がったのだ。


『……確かに。僕にはもう、逃げ場はない』


 ルークの声は静かだった。だが、そこには揺るぎない覚悟が宿っていた。彼は懐から、赤く輝く特殊な魔法石を取り出した。それは、彼がエマにさえ隠し持っていた、禁断の切り札。


『でも、逃げ場がないのは――君にとっても同じことだ』 『なっ!? その石は……まさか、貴様、自らの命を魔力変換して撃つつもりか!?』


 魔王の顔に初めて焦りの色が浮かぶ。ルークは微笑んだ。それはエマに向けられたものと同じ、どこまでも優しい笑顔だった。


『世界は渡さない。エマがいる世界を、こんな病で汚させはしない!』


 彼は魔法石を頭上高く掲げ、ありったけの魂を込めて叫んだ。


『星よ、降り注げ! メテオストライク!!』


 瞬間、天が割れた。  城の天井を突き破り、燃え盛る巨大な隕石群が降り注ぐ。轟音と閃光が視界を白く染め上げ、魔王の断末魔さえも飲み込んでいく。崩壊する城、燃え尽きる病原菌、そして光の中に消えていくルークの姿。  映像はそこでプツリと途切れ、部屋は再び静寂に包まれた。


 エマは巻物を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。  何度見ても、胸が張り裂けそうになる。けれど、今の涙は悲しみだけのものではなかった。  ルークの勇気。仲間を、そしてまだ見ぬ誰かを守るための自己犠牲。その尊い決断が、エマの心に熱い炎を灯していた。  彼のその姿は、エマがこれまで集めてきた、歴史の闇に埋もれた「無名の英雄たち」の姿と重なり合う。


 エマは目を閉じ、旅の中で出会った英雄たちの物語を反芻する。


 ――北の果て、「嘆きの森」で出会った森の守護者。  彼は元人間でありながら、死にゆく森を再生させるため、禁忌とされる精霊魔法を行使した男だった。  エマが彼を訪ねた時、彼の下半身は既に大樹と同化していた。皮膚は樹皮となり、髪は蔦となって風に揺れていた。 『私は森と一つになる』  彼は静かに、木漏れ日のような穏やかな声で言った。 『人間としての形を失うことは怖くない。私が消えても、この森が生き、獣たちが駆け、いつか人々がここで木の実を拾う未来があるのなら……それが、私の生きた証だ』  彼は最期にエマに一輪の花を託し、完全に森の一部となって消えた。今もあの森が豊かな緑を湛えているのは、彼がその命を注ぎ続けているからだ。


 ――西の荒野で出会った、呪われた剣士。  かつて一国の騎士団長だった彼は、国を滅ぼそうとする悪神を封印するため、「存在焼却」の呪いがかかった魔剣を手に取った。その剣は、振るうたびに使い手の存在を世界から消していく。記憶からも、記録からも。  エマが彼を見つけた時、彼は既に誰からも覚えられていなかった。かつての部下さえも、彼の顔を見て「どちら様ですか?」と尋ねるほどに。 『私の名前は忘れられても構わない』  包帯で顔を覆った剣士は、掠れた声で言った。 『この剣で守った子供たちが、明日を笑って過ごせるなら。私の名声など、その笑顔一つの価値にも満たない』  彼が最期の戦いに挑み、光の粒子となって消滅した時、彼を覚えているのはエマ一人だけだった。


 ――そして、東の孤島に住んでいた忘れ去られた魔法使い。  彼女は、世界を覆いつくそうとしていた「大寒波」を止めるため、自らの魂を燃料とする恒久魔法陣を編み上げた。  術が完成する直前、エマは彼女に尋ねた。「なぜ、そこまでして?」と。  老いた魔法使いは、少女のように悪戯っぽく微笑んだ。 『私の名前が歴史の教科書から消えようとも、この魔法が春を呼び、花を咲かせるのなら、素敵だと思わないかい?』  彼女の姿が魔法の光に溶け、消えていく瞬間、島には数百年ぶりの暖かい風が吹いた。それは知識と英知の尊さ、そして人類全体の幸福のために自己を捧げる崇高さを教えてくれた。


 エマは、これらの物語を通じて、自分自身が生まれ変わったような感覚を覚えていた。  かつての自分は、ただ名声が欲しかった。歴史に残る冒険者になりたかった。けれど、ルークや彼らの生き様を知った今、エマの中に宿るのは別の感情だ。  勇気とは、恐怖を感じないことではない。恐怖を抱えながらも、大切なもののために一歩を踏み出すこと。  献身とは、見返りを求めることではない。誰かの笑顔のために、自分のできることを全うすること。


 ルークがエマに託した「ログの巻物」。そして、物語を書き残すというミッション。  それは単なる記録係の仕事ではなかった。  彼らの魂の火を物語という「形」にし、人々の心に灯火を移していくこと。絶望的な夜に震える誰かに、勇気と希望を届けること。それこそが、生き残った自分にしかできない、崇高な使命だったのだ。


 エマは椅子から立ち上がり、窓際に歩み寄った。  日が沈み、街には家々の灯りがともり始めている。その一つ一つの光の下に、それぞれの生活があり、物語がある。  ふと、先日の出版記念会での出来事が脳裏をよぎった。


 煌びやかな会場の片隅で、一人の若い冒険者が、興奮した様子でエマに駆け寄ってきたのだ。まだ装備も真新しい、あどけなさの残る少年だった。


「ブ、ブラッドストーンさん! あ、握手してください!」 「ええ、喜んで」


 エマが手を差し出すと、少年は両手でそれを包み込み、熱っぽく語り始めた。


「僕、あなたの本を読んで……冒険者になることを決めたんです!」 「私の本が? どの話を読んでくれたの?」 「『呪われた剣士』の章です! 読んでいて涙が止まりませんでした。僕、今までヒーローっていうのは、強くて有名で、みんなにチヤホヤされる人だと思ってました。でも……」


 少年は真剣な眼差しで続けた。


「自分の名前を残すことよりも、誰かを守ることの方がずっと大切で、かっこいいんだって教わりました。僕も、いつか彼みたいな、誰かのために戦える冒険者になりたいです!」


 その言葉を聞いた瞬間、エマの胸の奥が熱くなった。まるで、ルークが少年の姿を借りて語りかけてくれたかのように感じたのだ。  彼女の書いた文字が、誰かの人生を変えた。ルークたちの想いが、確かに次世代へと受け継がれたのだ。


「ありがとう」  エマは心からの笑顔で答えた。 「あなたのような若者が、これからの世界を作っていくのね。あなたの物語も、いつか聞かせてちょうだい」 「はい! 約束します!」


 少年は決意に満ちた表情で敬礼し、雑踏の中へと消えていった。  あの時の彼の背中は、かつてのルークの背中に、少しだけ似ていた。


 回想から戻ったエマは、夜風に吹かれながら、深く頷いた。  私は、孤独ではない。  ルークも、森の守護者も、剣士も、魔法使いも、みんな私の中で生きている。そして、私の本を読んだ人々の中で、彼らは再び命を得て、新しい冒険を始めているのだ。


 エマは机に戻り、ルークの写真を手に取った。指先でそっとガラスを撫でる。


「ルーク……やっと、本当の意味で理解できたわ」


 彼女は静かに語りかける。それは独り言ではなく、魂の対話だった。


「あなたが私に託してくれたもの。物語を集めることは、単なる過去の墓標を建てることじゃない。それは、未来への希望の種を蒔くことなのね」


 私は書き続けよう。これからも、世界中に散らばる英雄たちの物語を探し出し、光を当てる。  名もなき彼らがいたからこそ、今の世界があるのだと伝え続ける。  そして、私自身の行動や言葉が、いつか誰かの道しるべになるように、胸を張って生きていく。


「見ていてね、ルーク」


 エマは再び窓際に立ち、星が瞬き始めた夜空を見上げた。遠くの地平線の彼方、まだ見ぬ大地が彼女を呼んでいる気がした。そこにはきっと、語られるべき新たな物語が眠っているはずだ。


「さあ、新しい冒険の始まりね」


 エマは微笑んだ。その目には、もはや迷いも寂しさもなかった。あるのは、夜明けを待つ冒険者だけが持つ、鋭く、そして希望に満ちた決意の光だけ。  エマは机に向かい、真新しいノートを開いた。インクをたっぷりと含ませたペンを手に取り、真っ白な1ページ目に、これからの旅路の指針となる一文を書き記す。


『これは、名もなき英雄たちの物語。そして、彼らの高潔な精神を受け継ぎ、未来を紡ぐ者たちの物語である』


 サラサラと紙の上を滑るペンの音が、心地よく部屋に響く。  それは、エマ・ブラッドストーンという一人の女性が、自身の物語を刻み始めた音でもあった。


これはエマの物語!!


(了)

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