亀裂の先の世界
扉を開くと、クラス替え間も無い教室には疎らに集団が出来ていた。
クラスメイトに目もくれず自分の席に着くと、薄紫のマフラーを丁寧に畳んでそのまま枕にして突っ伏す。
僅かに残る肌寒さから身を守ってくれる厚手の制服の温もりは、2度寝に最適な環境を整えてくれた。
ガラッと扉が開かれる音が聞こえる。
教室の中は一瞬ざわめいたが直ぐに会話は聞こえなくなり、ガタガタと椅子が鳴った。
満を持して、張りのある男性の声が教室に響く。
「皆さんおはようございます。 今日から2年生ですね。 中だるみの時期だからこそ……」
教卓でセカセカと話す担任の声が、微睡みの中に溶けていく。
そんな春の一時は、突然終わりを迎えた。
教卓と生徒の丁度間に、黒い亀裂が生まれた。
「え?」
「何あれ?」
困惑の声に顔を上げると、亀裂は目に見えて薄く広がっていく。
それも、ガラスの塊にヒビが入るように、立体的に。
亀裂の1つがこちらへ迫ってくるのを見て、椅子に座ったまま咄嗟に身を捩って躱す。
「あっぶな。 何?」
教室の端まで広がって行った亀裂は、そのまま壁の向こうまで消えていった。
再び亀裂の発生源に目を向ければ、黒い裂け目は今も広がり続けているようだ。
「後ろのドアから出ろ! 早く!」
慌てて叫ぶ先生の声に、生徒達はパニックになりながら扉へ走り出す。
それをボーッと眺めていたが、ふとそれが他人事では無いことに気が付いた。
「やべ、俺も逃げなきゃいかん」
反射的にマフラーだけ引っつかみ、クラスメイトの後を追う。
その時ちょうど目の前にいた男子生徒が床を這って見えにくい亀裂に、足を踏み出そうとしている事に気がついた。
猛烈に嫌な予感がして男子生徒の袖を引く。
「ちょ、なんだよ」
「あ、級長」
振り返った顔は、数少ない知り合いだった。
「俺はもう級長じゃねぇ! 多岐もさっさと逃げないとヤバ…」
パシャン
級長が言い終わらないうちに、薄いガラスが弾けたような音を立てて、景色が割れた。
教室の窓が、誰かの足と床が、机の角が、景色が写ったまま空間が、まるでパズルのようにバラバラになって飛んでいく。
黒い、いや、暗い亀裂はもはやぽっかり開いた穴となっており、その先には何故か星空が見えた。
砕けた空間は自分達の足元まで広がっており、足が空をきる。
それと同時に、穴の奥から強力な引力を感じた。
ジェットコースターを思い出す浮遊感に頬が引き攣る。
「やめれ…」
阿鼻叫喚は全て穴の中へ吸い込まれて消えて行き、時間を巻き戻すように空間の破片が元の位置へはめ直される。
後に残ったのは、不自然に鋭利に切り取られた机や椅子、所々抉れた床、そして大量の血溜まりであった。
●●●●
浮遊感は一瞬で、鈍い痛みに目を開く。
体を起こそうとすると、砂利のゴロゴロした痛みを手のひらに感じる。
顔を上げると辺りは暗く、見渡す限り木々が乱立していた。
「どこだよ……」
どうやらここは、踏みならされた森の一本道らしい。
「つーかまだ午前中だったんだが? いったいどうなって……うわ」
頭上には星々が輝いていたが、そんな事がどうでも良くなるものが1つ、宙に浮かんでいた。
土星みたいなものが、周囲の円盤がハッキリ見えるほど大きく存在していたのだ。
「せめて月2つとかにしとけよ……これはちょっとファンタジーが過ぎるんじゃないか?」
そんな事をぼやいていると、周囲で蠢く影があった。
「……うーん」
「いてててて………」
どうやら他のクラスメイトらも一緒に飛ばされていたらしい。
そして同時に、錆臭さが辺りに漂い始める。
匂いの発生源は、ようやく暗闇に慣れてきた目でハッキリと確認出来てしまった。
バラバラの手足や、寸断された胴。 真ん中から2つに切り分けられ、自分と目を合わせる頭。
刃物じゃこうはならんだろと、動揺が一周まわって冷静な頭で考えると、1つ思い当たるものが。
あの亀裂が割れた時、巻き込まれたのではなかろうか。
「うわ、うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
誰かの悲鳴が響いた。
のたうち回る男子生徒の足首から先には、何も無かった。
やがて、あちこちから悲鳴や動揺の声が聞こえ始める。
しかしそれも、森の暗闇から鳴った枝を踏み砕く音に、本能的に息を潜めた。
闇からヌウと伸びてきたのは、漆黒の馬の頭部であった。
だが、馬かと思われたそれが分厚い唇を捲りあげると、明らかに肉食獣の牙がズラリと並んでいる。
後頭部からヤギのような角がグルリと伸びており、その姿はまさしく悪魔そのものだ。
そいつの視線の先には、思わず腰を浮かして逃げようとした俺が。
「あー、馬鹿やったわ」
幸いにして五体満足らしい体は、逃げ出したい気持ちに着いてきてくれた。
一瞬知り合いの女子生徒と目が合った気がしたが、蹄が大地を叩く音に現実に引き戻される。
道から外れ、木々の間を駆け抜けて森の奥へ。
木が立ち並び、真っ直ぐ進む事もままならない森の中なら逃げ切れるのではなかろうか。
我ながらかしこい。
そうほくそ笑んで振り返るが、直ぐに驚愕に変わる。
なんとあの巨体で木々の隙間を悠々と駆けて来ていたのだ。
「そりゃ住処だろうし、当然っちゃ当然か!」
納得はしたがそれと食われるのとは別だ。
大きく盛り上がっている根を進行方向に発見。
これ幸いと勢いそのままに、足をかけて木を駆け上がる。
体を腕力で持ち上げた所で、背中のすぐ横で歯がガチンと空振る音が聞こえ、縮み上がる。
「こっわ!」
安全な高さに腰を据え、ようやく一息つく。
恐る恐る下を覗いてみれば、鼻息荒くした凶悪な馬面がまだこちらを見あげていた。
「お前さんの蹄じゃ木は登れないし、諦めてくんないッスかね……」
しかし悪魔の如き馬は、蹄で木を蹴りつけるだけだ。
これが返事ですか、そうですか。
木に背をつけて、残った荒い息を吐き出して考える。
まず何が起きて、ここはどこなのか。
原因は間違いなく、教室にできたあの黒い裂け目だろう。
あれがもし仮に空間的な裂け目だとして、その先に広がる、別の世界に来てしまったのだとしたら。
突飛な想像ではあるが、ネットの怖い話の読み上げを子守唄にしていたからこそ、その可能性が浮かんだ。
空が赤紫色などという事も無く、不思議なおじさんが突然現れて連れて帰ってくれる気配も無し。
いるのは鼻息の荒い肉食の馬だが、よくよくその姿を思い出してみれば、バイコーンと呼ばれる空想の生き物にそっくりでは無いか。
ひょっとするとこれは流行りの……
「異世界、ですか……」
俺、多岐希は、足元の荒い鼻息から現実逃避をするように、土星のような星が浮かぶ空を見上げたのであった。