第5話 授業
聖羅はベッドの上でしか生きられなかったため、常に新しい刺激のあるものを求めていた。そのうちの一つが勉強だった。聖羅は17年間、ベッドの上でできることしかできなかった。そのため勉強には力を入れていた。
───もし体が自由に動くようになったら……
そのことを考えて勉強を続けていた。幸いにも聖羅は勉強が嫌いではなく、むしろ好きな方だった。秀才というのもあり、聖羅は高校在学中の勉強を中学生序盤で終えてしまうほどだった。常に先の勉強をしており、大学の参考書にも手を出し始め、聖羅は病院内では少し有名だった。
(だから今からやる授業自体は嫌じゃない。勉強も嫌いじゃない。だけど……フィオレンサは後継者として認められないとこの惨めな生活からは逃れられない)
フィオレンサは皇帝からの情よりも後継者として認められたかった。じゃないと侍女を追い出せない、と。侍女長が迎えに来るまでフィオレンサはそのことだけをずっと考えていた。
しばらくして予想していた通りノックもなしに侍女長は入ってきた。そして問答無用でフィオレンサの腕を掴む。
「い、痛いっ!離して!」
「ったく、静かにしてください。こっちだって忙しいって言うのに、あなたのせいでろくに仕事ができやしない」
(どうせ仕事なんかしてないくせに!!)
それこそ横領に忙しいんでしょ!?とフィオレンサは痛む腕に視線を送りながら心のなかで毒づく。侍女長はフィオレンサの痛む表情で心に愉悦感が広がる。侍女長はそのままフィオレンサを先生のいるところまで連れていく。
引っ張られるようにして歩いているせいで腕だけでなく肩も痛い。フィオレンサはなるべく痛くないように足早に侍女長について行く。
歩いて着いた先はフィオレンサの行ったことがない皇宮の端にある、VIP専用の部屋だった。明らかにフィオレンサのいる部屋とは違う。中に入っていなくても外からだけの外装でありありと分かる。
「次からは自分で来てください。呉々も時間に遅れて私に迷惑をかけないようにしてくださいね。私は暇ではないので」
「……わかったわ」
(そうよねえ? 横領で忙しいものねえ?)
フィオレンサは笑顔の裏にどす黒い本性を隠した。侍女長はふんっと鼻を鳴らすと、踵を返し来た道を戻っていった。フィオレンサは侍女長がいなくなるのを確認すると小さく息を吐いて扉をノックする。
(大丈夫。面接方法は動画で何度も確認した。───これは面接じゃないけど……)
中から声が聞こえるとフィオレンサは扉を開ける。そして背筋を伸ばして礼儀を示す挨拶をした。
「初めまして、先生。フィオレンサ・ディオネ・ロヴィルディです。これからよろしくお願いします」
「───…………よろしくお願いしますね、皇女殿下。私はジゼル・ヘイリー。ヘイリー侯爵夫人です。皇帝陛下の命で皇女殿下の先生を努めさせていただきます」
「はい、分かっています。先生のことはヘイリー侯爵夫人とお呼びした方が?」
フィオレンサはあえて先生ではなく、侯爵夫人と呼ぶのか尋ねる。その姿勢に少し高圧的な態度をしていた侯爵夫人は片眉を吊り上げる。
「……いいえ、気軽に先生と呼んでくだされば結構です」
「分かりました、ヘイリー先生」
(あっ、そういえば……)
フィオレンサは今になって原作での内容を思い出した。
それはジゼル・ヘイリーについてだった。彼女はイツワリ皇女と呼ばれ続けるフィオレンサの先生になどなりたくはなかった。しかし皇帝からの勅命により断れず、渋々その命を受けることとなる。
初めて会ったフィオレンサに彼女は「なぜこんなイツワリ皇女の相手なんかをっ!」という態度を全面的に表してしまった。そのせいでフィオレンサは彼女のことを嫌いになり、彼女もまたフィオレンサのことをイツワリ皇女として蔑み続けた。
しかし実のところ、ジゼルはいつからかフィオレンサのことをイツワリ皇女と蔑むことはなくなっていた。なぜならわがままなところもあったフィオレンサだったが後継者としては優秀だったからだ。
フィオレンサはジゼルのことを嫌っていたが、ジゼルと違い、それを態度として表すことは無かった。それが余計にジゼルのフィオレンサへの評価を変えることになった。しかしフィオレンサはそのことに気づかず、ジゼルを一生嫌いでい続け、ジゼルはそのことを後悔するようになる。
こんな感じで原作ではサクッとちょびっと書かれていたサイドストーリーがあった。
(あちゃー、最初の挨拶を間違えたわ。ジゼルはなんだかんだ一生懸命に努力し続ける優秀な子を認める。原作でのフィオレンサがそうだった。だから私は原作のフィオレンサにならないようにしつつ、ジゼルとの仲も初めから良好にしていこうとしていたのにっ!!なんで今の今まで忘れてたの!?挨拶し終わっちゃったわよ!)
フィオレンサは脳内でもう1人のフィオレンサを叩いた。しかし終わってしまったものは仕方がない。フィオレンサは路線変更することにした。
(真面目な生徒になろうとしたけど、ただの真面目じゃくて少し生意気な生徒にしましょう。だけど相手への敬意は忘れない、歪な生徒に)
フィオレンサはそうと決めると、早速ジゼルに話しかける。幼さの残る顔で精一杯の意地悪さをのせて。
「先生、私もう勉強を始めたいのだけど?油を売っている時間はないの。それに先生も時間を無駄にしたくないでしょう?」
「───そうですね。ではそこにおかけください。授業を始めます」
フィオレンサは持ってきたカバンを隣の椅子に置き、中から筆記用具を取りだして机に並べ、勉強体制を整える。前世ではベッドに簡易テーブルを付けてもらい、よくそこで勉強をしていた。あのときは独学でほとんど進めていたため、こうして誰かに教えてもらうのは実は少し楽しみだったりする。
「授業では皇女殿下が後継者として必要な知識・教養を身につけてもらいます。私の授業は厳しいですが、それは皇帝陛下も了承済みなため、真剣に取り組んでください」
「ええ、そうするわ」
ジゼルはそれだけを言うと、持っている教科書を使って授業を始めた。黒板に書いてある文字を自分なりにまとめて後で見返せるようにノートを作成する。しかし、フィオレンサは授業を聞いている途中であることを思った。
───それは
(授業の内容が簡単すぎる……)
というものだった。なんと記念すべき第一回目の授業では簡単な計算問題からのスタートだった。それも難しくても中学生が習う範囲までの数学。
(三平方の定理とか久しぶりにやったわ。あの定理、結構応用とか使いやすくて割と好きな定理なのよね〜)
フィオレンサはジゼルが出した問題をノートに書き写し、手を止めることなく、問いを導きだし続ける。ジゼルはフィオレンサが分からなく、手を止めることを想定していたようだが、今のフィオレンサにはそんなことはない。
なにせ、大学範囲の数学までも手を出していたのだから。
「───できたわ」
「……! そ、そうですか。さすが皇女殿下。飲み込みが早いですね」
「ありがとう」
(飲み込みが早い遅いじゃなくて、前もって知っているか、知らないかの差なのだけれどね、今回の場合。でもこんな感じでいけば真面目かつ生意気な生徒になれるかしら?)
フィオレンサはジゼルの採点を待ちながら、ジゼルとの仲を良くする方法を考えていた。やがてジゼルの採点が終わり、フィオレンサは採点結果を返されると、予想通りの点数にフィオレンサは口角を上げる。
「───……皇女殿下は先に授業の内容を予習していらしたのですか?」
「いいえ、予習どころか、今日の授業内容すら知らなかったわ。……何か問題でも?」
「……いえ、ただ殿下は幼い陛下のように優秀なのだと思いまして……」
「やっぱり先生の言うとおり、飲み込みが早いのかもしれないわね。陛下に感謝だわ」
フィオレンサはわざとなのか無意識なのか、今まで父親を「お父様」と呼んでいたのに、今は「陛下」と呼んだ。それはフィオレンサのなかであの人を父親と認識していないからにほかならない。もちろんフィオレンサのその言葉にジゼルも分かりやすく、反応を示す。
「今、陛下のことをなんと……!?」
「''陛下''とお呼びしたけど?何か間違いでもあったかしら?あの方は間違いなく、ヴェードナ帝国の皇帝陛下であらせられるはずなんだけど?」
「いえ、そういうことではなく……」
「ああー!それとも私が''お父様''ではなく、''陛下''と呼んだことを言っているのかしら?」
フィオレンサはわざとしらしく両手を合わせながら首を傾げる。ジゼルはその動作にたじろぐが、気になるのかフィオレンサの言葉を肯定する。
「はい。今まではそう呼んでおられなかったはずです。それがなぜ急に……」
「でも、それをわざわざ私があなたに言う必要があるのかしら?」
「そ、それは……」
「でもそうね。先生になった記念ということで教えてあげるわ。───陛下は私のことを娘と思っていない。そして私も陛下のことを父親として認識していない。だから分かりやすく''陛下''と呼んでいるだけよ」
ご納得頂けたかしら?と訪ねるフィオレンサにジゼルはわかりやすく、聞いてはいけないことを聞いてしまったという顔をした。フィオレンサ自身もジゼルを少し虐めてしまったという自覚があるため、話はここで切り上げた。
「話はここまでにしましょう。授業を再開していただいても?」
「……分かりました」
(お互い家族だと思っていないのにわざわざ父と呼ぶ必要なんてないでしょ)
フィオレンサは雑念を追い払い、再びペンを走らせた。