持続不可能な男
菜穂子!
ロードバイクに跨った彼女は、俺の呼び声に鼻筋の通った白い横顔を見せた。或いは、安全確認のために。すぐにペダルに重心を加え、決してUターンできぬほど細い路側帯を前進していく。ネイビー色のカーディガンの背中は左右に揺らながら都会の闇へと緩やかに溶け込み、公園に響くアオマツムシやエンマコオロギが、彼女が去った後の空白を鳴いている。彼女が振り返ったとて、俺はこめかみを指で掻いて沈黙を要するに違いなかった。その時、彼女は俺に決定的なこたえを示しただろうか? ただ、行かねばならぬという焦燥のために。スポーツトレーナーとして資本主義社会を勝ち上がっていかねばらぬという欲望のために? その時、俺は彼女のこたえを、告白の返事として、一つの疑念も抱かず受容することができたであろうか。
「シノちゃんのことを大切に思う。でも、恋がそれだとは思えなくて」
それ以上のこたえを、新たな彼女の肉声から抽出したとて、何になっただろうか。恋はそれだ! と、論理展開でも俺はしたのか。彼女を強引にこの腕に抱き締めたとて、たとえば彼女の手から離れ、倒れたロードバイクを踏みつけたトラックドライバーが、過労死寸前から起死回生の転職のきっかけを得る程度が、その場に計測される幸福の最大増加量であって、抱き締めたり、抱き締められたりすることへの互いの疑念が少々その値を減らすに過ぎなかったのではないか。いや、過労死寸前のトラックドライバーが救われるのなら良かったのではないか、と俺は公園の広場を無謀にも徘徊したが、それはあくまでたとえの話であり、菜穂子にとっても危険すぎる話だ、という自戒に立ち尽くして、樹木の間の闇から聴こえてくる中国語らしき言葉に耳を傾けていた。「ゼンマヤン、ゼンマンヤン」と言っている。或いは、全く違うかもしれない。たとえばそれは葉擦れの音だ。
菜穂子。
公園のベンチに所在を発見した俺の口から、もう一度力無く洩れ放たれたその声に、俺自身その時気が付かなかった。何十回目かの回想の末、肉体運動として玄関の扉に鍵を差し込んだとき、俺は1人で今夜2回「菜穂子」と呟いたことに気が付いた。鍵を回してドアノブを引っ張ると、ジンクスに従って揃えられたニューバランスのスニーカーがこちらに圧をかけるように待ち受けている。暗闇にため息をつきながら革靴を脱ぎ、外向きに揃えると、魔除けのまじないのために、玄関の窓際に置いていたサンスベリアが、向かいのマンションの明かりを受けて葉を鋭く光らせた。ふと部屋の奥から漂うローズの香りに気怠くなったとき、俺は「今のため息は一時の心の安寧のためです。菜穂子への告白自体は成功しました。俺はやることはやりました」と部屋全体の沈黙に応答した。電気をつけると6.5畳一間の空間がポッカリと現れる。菜穂子との再出発のために、菜穂子との間に邪魔者を入れないために、菜穂子との恋の進展のために、俺と生活を創作してきた彼らたちに、戦場から戦果をあげて帰還してきた兵士のような誇らしさを頑なに見せつけた。或いは、菜穂子との同棲が叶えられるほどの部屋ではない故、俺の手垢まみれとなったこの一室の在り物全ては俺たちとも言える。フンっと唸って、俺に大雑把に三つ折りにされた敷布団の上に座り込み、ここまでは絶対にみまいとしていたスマートフォンをポケットから掻きだし、12件の通知を抱えた角の丸い正方形のLINEアプリを素早くタップした。11件の篠田家のグループLINEと1件のネットカフェのクーポン通知を素通りし、今や上から3番目となった菜穂子とのタイムラインを開いた。「E2だよ」新宿三丁目駅の待ち合わせの出口が菜穂子によって示されている。勘違によってE1に待ち合わせ時間の15分前から立っていた俺は、地下へと続く階段を3段飛ばしで降り、E2を目指して走った。地上から行けば効率が良かったが、間違った道のりをやり直したい気分に駆られた。E2で落ち合った俺達は花園神社を参拝し、新宿末廣亭にて演目を2つ見、鍋料理をつついたのち、俺は深夜の駐輪場でロードバイクに跨ろうとした彼女を「あ、あの、もう少し、一緒に、良い、かな」と訥々と引き留め、首を可愛げに傾げた菜穂子に再度「話がまだ、あって」と言葉をとにかく紡ぐことが最優先のように言った。それから共に代々木公園の方角に何となく向かって歩くことになり、その道中、俺は好きだ、という言葉を別の長い台詞によって言い表した。長かった。信号機の色の移り変わりが3周するほどだった。つまり立ち止まって、菜穂子と俺の影を交互に見ながら言った。緑、黄色、赤が俺達とロードバイクの黒い影の輪郭をつくった。と、回想上の景観はそのようになったが、実際その時、俺達の間には、信号機然り、都会のエレメントは介入する隙がないように気配を消していた。俺の長い台詞によってコンクリートを割って突出したアクリル板が俺達とそれらを分断し、2人だけのみが遊泳する水槽の中を漂っているような、至福で恍惚とした時間だった。菜穂子も俺のその長い台詞を聞き終わるまで、黙って聞いていた。いや。それは、回想のうちに俺によって作り出された景観であり、こめかみを掻きむしっていたことぐらいが、こめかみから血が滲んでいる事を証拠に、事実性が高い要素である。それに菜穂子とのタイムラインを再び開いた今、これ以上の回想は愚行である。今一度、彼女と俺の関係を前進させるための一手を打つことができるはずだから。トラックドライバーは彼自身の道を、俺達は俺達の道を前進せねばならない。そのための一言を。
―無事に帰れましたか? 自転車押させてしまってごめんね。(ネズミがThank youという札を掲げているスタンプ)
菜穂子からの既読を少し待ってから、篠田家のグループのタイムラインを開いた。
妹に赤子が産まれた。
―おめちゃん(ネズミがクラッカーを鳴らしているスタンプ)
妹夫婦に依頼を受けて神戸での結婚式の動画撮影に行ったのは半年前の暑い日のこと。プロのムービーカメラマンにベストなカメラポジションを陣取られ続け、夫婦のなけなしの横顔を必死でカメラのフレームの中にとらえたことが案外功を奏して、叙情的な作品になったと自負している。カメラに気が付かず繕う事ができない横顔は何とも無防備で、妹夫婦のさりげない仕草を悠々とらえた。編集段階で動画の速度を速め、素早いモンタージュによって、結婚式当日の幸福感を演出し、母親からの、もっとゆっくりみたいから編集し直して欲しい、という発注を拒否するほど、それは俺の独創的な作品となったのだった。妹はお車代と撮影代として俺に3万を払った。俺は結婚祝いに2万を払った。そのうち1万5千円は親から借金した。妹夫婦は俺の方を、兄のように、或いはカメラマンのように、誇らしく、或いは結婚式の雑多な来客の一人として見つめていた。俺は神戸の実家を出て行くまで、テレビ局の下請け会社で撮影の仕事をしており、事務職の妹はそれをすごいことだと思っていると、俺は思っていた。だから俺に撮影を依頼したのだろうと、或いは、大学の写真部の先輩である肋骨先輩に誘われるがまま東京に出てきたものの、大した仕事を紹介されず、仕事が何もないという意味でのフリーランスとなって金がないことを慮ってくれたのだろうと推測していた。だから感謝していた。家族の誰かに上方から撮影された赤子は世界の継続をまるで知らないように眼を閉じていて、それを抱きかかえる出産直後の妹の方は世界の淵で戦ったあとの充足感で笑っていた。そのコントラストに、赤子は産まれたのではなく、母親に生命を分け与えられたのだと俺は考え付いた。しかし、阿弥陀如来のような達観の表情に、ある種の作為性を感じる。もしかすると赤子が赤子以前であったときの赤子の采配によって妹夫婦は出逢わされ、2人の性的欲求は、あの絶頂の夜に最大限までに引き上げられたのかもしれない。
―かわいい!
かわいいか? 父親の言語表現に無責任なコメントに少々苛立ちつつ、まだ物質としてしかみとめられないその存在の名をひとます「姪」としておく。
―うん、シノちゃんは終電間に合った?(耳の短いウサギが首を傾げているスタンプ)
菜穂子! から返信があった。既読をつけたことによって、それからの返信の速度に意味が付いてしまう。すぐさま、ネズミが親指を立てているスタンプを送り、俺は次の文章を熟考した。それは文章ではなく「姪」の写真となった。まだあの世的能力に閉ざされていない「姪」に、俺達の運命も頼ってみようじゃないか……
―わーおめでとう! かわいい!
そうだろ! かわいいだろ。菜穂子、「姪」だよ、俺の。俺たちの家系には繁栄の血が流れていて、君もそのうち一緒の流れの中に生きていくかもしれないんだ。俺達の子は向こうで待っているかもしれない。君が俺のことを大切に思うのはきっとその子の仕業だよ。俺はあと2年で、この貧乏神につかれたような経済状況から抜け出し、その後1年で家庭を築きあげるための支度をする。それまで、ゆっくりとこの関係を進めていこう。大事に育んでいこう。
―明日、早いので今日はお先に寝ます。篠田君もゆっくり休んでね。
……菜穂子っ!……今すぐこの手の内に抱き抱えたい君の温もりを、俺も眠りに託すことにするよ。菜穂子。恋とは始まっていることを言うのではないのか? 俺達は必然的に恋をしているのではないのか? 菜穂子……俺、或いはキモいか? 恋をすると人間はキモくなるのか? キモさとは本当は美しい他の何かではないのか? いや、菜穂子。俺達は俺のキモい夢想とは相容れないところで恋しているのではいか? どういうことかと言うと、つまり、俺はやっぱり、あの長い台詞を、都会のエレメントと同じく生き生きとした、モノローグではなく、つまり、君の返事をもってようやく成立するダイアローグとして言ったのであり、だから、水槽の中に例えるなんて不毛なことで、君があの時、俺に「シノちゃんのことを大切に―」と言ったそちら側の、その感覚を、もっと教えて欲しい。だから、あ、あの、もう少し、一緒に、良い、かな、と俺は帰り際に呼び止めたのかもしれない。肋骨先輩から送られてきた撮影スケジュールにネズミがyes sirと言っているスタンプを送ったのち、天井を眺める。天井について言及することは特に何もない。俺達は実際的に恋している!
或いは、ただひと時のかけがえのない思い過ごしのために。
9月7日。閃光の差し込む水槽で、アクリル樹脂の透明の壁を外側の囲いとして位置付けているように、奇形の魚たちが優雅に泳いでいる。奇形の魚たちが世界を飼っている。俺にはそのように見えていると隣に立っている貝柄のピアスの女に話す。女は水槽を眺めたまま、案山子のように微動だにせず、横顔は細い鼻筋を残して長い髪に隠されている。それが女であることを俺は次第に忘れ、俺が俺であることも忘れていく。たしかな水の冷感によって、いつの間にか俺達が水槽の中を遊泳していることが判明する。俺以外の誰かによって、その状況はさらに明確に感じ取られている。
手帳に記した夢日記にたった1枚の画を思い浮かべ、その右隅に絵コンテを描く。カメラマンとしてのトレーニング、或いは、創造性の摩滅した単なる寝起きの日常習慣である。巨大な水槽に泳ぐ奇形の魚は、紙面上の絵になった途端、つまらなく粗野なものになった。ヴァルター・ベンヤミンの謂う所のアウラが宿っていない。充血した眼、長い角、マントのような鰭、言語にしたとて夢にみたあの水槽の魚を再現するにはほど遠く、どうやら夢は見られ続けることでしか成立しないらしい。夢は夢だ。夢の複製など所詮、凡庸な日常の所作に過ぎない。夢に出てきた水槽の中を見ていた女が菜穂子であるかもしれないと考えることは、頓馬だ。夢の女は、俺とは何の関係性もなく、夢という世界が先に成立していて、俺はたまたまそこにいた女のもとに訪れたのだ―ウシッと、食パンを1枚袋から取り出し、レンジに突っ込む。食パンを齧りながら、朝陽に痛みを催してカーテンで遮ったとき、スマートフォンの聞き慣れた起床アラームが遠い音で鳴った。食パンを口の中に押し込み、うな垂れている敷布団を両手で摘まみ上げ、その行方を探す。されどアラームの音質や音量に変化はなく、スウェットの左ポケットに重量を感じる。取り出すと、菜穂子との恋愛成就のためにスマートフォンの待ち受けにしていた美輪明宏の若い頃のモノクロ写真がこちらを見つめ、静かな微笑みを湛えている……菜穂子とのやり取りを見返そうと、ロック解除のパスワードを入力しているとき、未だ単調なアラーム音は遠い音で鳴り続けていて……
―隣の人のスマフォの初期設定のアラーム音が俺と同じで、今日はそれで起きた(笑)
事実をエンタメ性のために曲解した菜穂子へのメッセージにすぐに既読はつかず、満員電車の満員っぷりに、辟易としている。特に俺の右肩に額を押し付けてパズル系のアプリゲームをしている中年女性の温もりに、辟易! とする。異様ではないか。心的距離と身体的距離は比例すべきではないか。菜穂子。君はやっぱり俺と昨夜眠るべきだったのではないか。眠りたいだけ俺達は眠って、同じ微睡の中で目を覚ますべきだったのではないか。くそう。この車内にいる人類皆、同じ思いであるのなら、こんな三文芝居はもうやめようじゃないか。会社に行きたくなければ、行かず! 朝起きたくなければ、起きず! 子供と一緒にいたいのなら、いる! 解雇されて金が無くなったのなら、無し! 飢え死ぬのが嫌であれば、甘いコーヒーを片手にクラシックをかけながら空調の効いた部屋で生活保護のための申請書類を淡々とつくる! しっかり生きろ! お前達! SDGs? 宙ぶらりんに浮かんだその言葉の意味を忘れたのが、これで8回目ぐらいであることに俺は自信がなくなった。それに、人類皆、同じ思いであるわけがない。申し訳ない。お前達とか言って。俺と1人挟んで手前のオッサンは眉毛を八の字にして満員電車の温もりに安寧の感を抱くように眼を瞑っているわけだし。俺とは無関係に世の中は流れている。フーッと細い息を吐くと、中年女性の頭頂部の白髪交じりの髪が揺れ、揺らしたことを思った。にしても、もの凄い指の動きだ。パズルが瞬く間に崩れていく。
「すんません、すんません、あ、おはようございます。すんません、すんません」
撮影現場に40分遅刻した俺は、姿勢を低くしながら、肋骨先輩がファインダーをのぞいているSONYのごついカメラの後ろにしゃがんだ。車掌の居眠りによる停車駅通過ミスで、快速で止まるべきだった駅をすっ飛ばした。重大な事故にはつながらなかったものの、俺を含める乗客30人が降りることができず、他路線でも大幅なダイアルの乱れが生じた。眠りたければ眠って良いものでもない。遅れてきた俺にカメラマンの肋骨先輩は「殺すぞ」とごつい三脚を伸ばしながら妙に微笑んだ。俺はさらに「すんません、すんません」と繰り返し三脚を支えつつ固定しながら、脇汗が側腹部を垂れていくのを感じ取った。目が合った助監督の背の高い男性や、制作部? の丸眼鏡の男性にも適当に頭を下げているうちに、遅れたのは電車ではなく俺のせいみたいになっていく気がして、或いは発汗作用のために、心底寒気がした。肋骨先輩に誘われる現場は大抵自主映画の現場で、本日のスタッフ陣も「上手」や「下手」を「右」や「左」で言い表し、役者が右に左にあたふたと動いていては混乱を極めている。不安定な雰囲気の漂う学生映画のチーム。製作費のためクラウドファンディングで35万集めた話には感心したが、撮影助手に渡ってくるギャランティは、肋骨先輩に先払いで手渡しされる皺だらけの5千円札1枚で、2日間の撮影のため日給に単純換算すると2千5百円。さらに確定申告で所得税を差し引くと……それ以上は思考停止となる。殺すぞ? 肋骨先輩はさっき、「殺すぞ」と言ったか? 言っていないか。いや、言ったか。いや、しかし撮影の仕事に関われるだけでもありがたいことだと、俺はカメラの雲台の水平器を慎重に調節する。焼肉屋のアルバイトが主な収入源となっていることを俺は、家族にも、菜穂子にも言っていない。聞かれてもいない。そのうちに、撮影の仕事1本でやっていくつもりだ。あと2年で―それから俺は臀部に鈍い振動を感じた。蹴ったか?
「はよ、ピントとれや」
蹴ったのか。肋骨先輩は俺の臀部に膝蹴りをしたのか。写真部の先輩後輩の関係であった当時はこんなこと無かった。なぜなら、別々のカメラで同じ景色を撮っていたから。金閣寺とか鴨川とか鳩の大群とかを肩を並べて撮っていたから。カメラマンと助手という関係性になって、同じカメラを2人で調節するようになると、肋骨先輩は俺にきつくあたり始めた。俺がどんくさいからだ。しかし、ニックネームの由来になったように、エスカレーターから落ちて肋骨が折れても嵐電の桜電車を撮りに行ったという武勇伝を繰り返し語るほど、文化的腕力を誇示してくる彼の性格から、特段、人が変わったという感じは受けなかった。ただ実際に暴言を吐かれ、暴力を振るわれる身になると、その一つ一つの言動に敏感になり、とはいえ、どう感じるべきかが分からなかった。丸眼鏡の制作部? と再び眼が合うと、彼は瞬きを多くして、格子窓の方に視線を逸らした。ピントを手前の男の役者の後頭部に合わせたとき「奥やろ!」という罵声とともに再び訪れた臀部の振動をきっかけに、俺は奥の女にピントを送った。「カメラマンの声が入ったのでもう一回いきます」と背の高い助監督の男性が女性のような高い声で言った。
―おはよう。隣人と同じアラーム音(笑)……
「ようやった。ようやったな」
肋骨先輩は撮影後に訪れた新宿ゴールデン街のバーで俺の肩に腕を回しながら、菜穂子への愛の告白を褒め讃えた。菜穂子は肋骨先輩と同じ学年で、かつてはアメリカンフットボール部のマネージャーをしていた。その系譜からスポーツトレーナーの道を順風満帆に進んでいるわけだが、在学当時から、俺は彼女のことが気になっていて、肋骨先輩に、彼女の履修動向を聴いては、食堂の隅で待ち伏せした。周りにいるゴツゴツのアメフト部員達から怪しい目を向けられながらも、第二言語の中国語の先生が同じで、担々麺を実際に食べて中国語で会話する講義の斬新さなどを話して仲良くなった。「菜穂子さん」ではなく菜穂子、と自然に呼べる関係性にまで進展したのは肋骨先輩のおかげとも言えなくはない。たった2杯のハイボールによる酩酊の中、俺は「そうですけど。そうですけど!」と、肋骨先輩の称賛にため息まじりの声でこたえた。ため息を吐いてはならないというジンクスを思い起こして、今のは深呼吸です、と頭の中で訂正する。右隣の無口にお通しのブラックチョコレートを頬張る朴訥とした男の人が、俺の恋バナのせいでそうなっている。或いは、普段から。
「そうですけど、結果としては付き合えへんかったってことです」
「あとは押しやな。菜穂子は学部ん時からそーいう曖昧な感じの子やん。やから、こっからのお前のアプローチ次第で全然いける」
「いや、でも、菜穂子なりの優しさというか、断り方やともとらえられませんか?」
「あほう、お前、ここでいかんかったら、お前はどこいくねん」
「はい?」
バーテンダーの自称・オカマが氷を割り始めた音に俺も肋骨先輩も視線を氷の方へとやった。結構な勢いだ。オカマはジェンダーに関して深い考察を持っていると、肋骨先輩から聞いている。
「はい? や、あらへんねん。お前、菜穂子を追いかけて東京出てきたんやろ?」
「いや、先輩が……いや」
「あほう」
肋骨先輩は俺の背中から腕を退けて、さっきから咥えていたタバコにようやく火をつけた。
「オレと一緒にやるためだけに来たわけない。その証拠に、お前、焼肉屋でバイトしとんねん。オレがカメラマンとして別に成功してるわけでもないのに。しかもお前、テレビの仕事でまあまあ稼いどったのに、きとんねん。少なくとも今のオレより」
「いや、それは、俺の詰めの甘さと言いますか、そんな、先輩全頼りみたいなことでは全然なく、俺も東京で、やってやろう思たんです。単純に。テレビの仕事いうても、決まった番組を、ルーティンでこなしてただけで、つまらんかったんです」
「俺俺うるさいねえ。東京で何をやっていきたいの?」
氷がぎゅうぎゅう詰めになったグラスにウイスキーを注ぎながら、オカマは俺の方に上目遣いになって言った。「東京の方が映像の仕事も多いですし」とそれなりの回答を作り始めたところ、オカマに「あのね」と遮られ、俺もまたそれを待っていたように「はい」と背筋を伸ばした。オカマとは呼びたくはないが、俺達に呼ばせることでジェンダーへの考察が深まるなら、まあ仕方ないと思う。
「nanakoちゃんだっけ? 彼女の好きなところを10個あげて」
「10個?」
「10個」
オカマに同調するように肋骨先輩は拳で頬を支えながら俺の方をにやついて見つめた。オカマの所謂恋愛コンサルティングというやつで、ここまでの俺の話を聴いた上で何らかの助言がある雰囲気があった。肋骨先輩はそれをやってもらおうと俺をここに連れてきたのでもあった。故に、俺はオカマの誘導に素直に身を任せることにした。
「笑顔、頑張り屋、可愛い、運動神経が良い、感覚が合う、目が細いというか一重、一緒にいて楽しい、顔が可愛い、あ、言いましたっけ、今何個でしたっけ?」
「7」とこたえたのは肋骨先輩だった。言葉にするほど菜穂子への恋情が陳腐なものになっていく気がして、残りの3つを出すのに躊躇った。オカマから3杯目のハイボールを自ら手を伸ばして受け取り、炭酸の泡があがっていくのを眺めた。
「それをnanakoちゃんに伝えたの?」
「菜穂子です」
「あ、ごめんね、nahokoちゃん」
と、オカマは肋骨先輩に火をもらって紙タバコを吸い始めた。チョコレートを頬張り終えた朴訥とした男が、何も無くなった皿を見つめていた。
「伝えました。でも、好きなとこ10個、とかではなくもっと長い台詞です。それは今ここで言ってしまえるようなものでもなく、その時の状況とか周りの音とか、菜穂子の表情、それから俺の体調にも影響されて出てきた長い台詞です」
「台詞?」
「はい、いや、台詞ということにしてるだけです。告白の言葉って、事前に色々考えるじゃないですか。今俺告白してるわ! って自意識過剰になってテンパるなら、最初からそれは台詞やとして、それで、現場の状況で変わったとしてもそれは台詞やとしたら、冷静に伝えたいことだけ伝えられるかなと。告白をし終えた今でも、あれは台詞やと言える気がするので、台詞、です」
「ちょっと良く分からないけど、テンパった方が良かったんじゃない?」
オカマは一オクターブ高い声を出して、それから煙を短く吐き出して続ける。
「あなたの話聴いているとね、抽象的だなって感じるの。さっき詰めが甘かったって自分で言ってたでしょ? 私は東京になんとなく出てきて、なんとなく押しつぶされていく人たちをこの目でいっぱい見てきた。もし、nahokoさんがあなたのその詰めの甘さというやつに巻き込まれるとしたらって、考えてたら、好きなとこ10個は言わせたくなっちゃってね」
「なんとなく押しつぶされるってどういうことですか?」
「あーだから、例えばで言えば、ここにきて泣き崩れるみたいなね。夢とか恋とか、そういう曖昧な妄想を辿って彷徨う。東京は生きている幽霊でいっぱいだからね。nahokoさんが、被害者にならないことを祈るわ」
いや、いや。何か冷たいですね。たしかに俺はもう十分彷徨ってますよ。でも、それを自覚しているから単なる幽霊とは違うんですよ。そもそも幽霊じゃないですし。こめかみの瘡蓋がとれて痛いし。ほんで、それと菜穂子との恋とは別の話です。菜穂子への恋は妄想とかロマンとかではなく、そのような理想的な光景に関してはお互いに想像してしまうけど、本当は至極具体的なお互いの状況を思いやったり助け合ったり、触れ合ったり、むしろ曖昧なものを壊していくために、つまり、自分達の本来の存在自体を愛し合うために、しているもののような気がするんです。夢は夢なんです。それで夢日記をつけていますから。例えば、言葉にするのもナンセンスですけれど、菜穂子が排泄するとは考えたくはないです。でも、する。でも、そうでなければ、絶対にこの恋に意味はないと思うような、恋です。仮想的に好きとかではなく、極めて実際的に好きなんです。俺はそのように思える人こそ運命の人やと思います……と、胸に溢れてきた言葉群を並び替え、オカマとの討論を続けようと最初の「いや」を発声したが、ほぼ同時に朴訥とした男の人が「幽霊」という言葉に反応したか、或いは、彼自身のココゾというタイミングで岡本太郎の都市論「オバケ東京」について饒舌に語り始めた。そのせいで俺は次の言葉を見失った。もう一つの東京をつくって、元の東京と競わせる計画の話らしい。めっちゃしゃべるやん、コイツ! 朴訥ではなかった男の人は言葉のセンテンスの途切れ目で舌をジュルッと出して唇の周りの付着物を舐めとっていた。話の内容は多少興味深かったが、さすがにコンサルティングを中断された気がして、スマートフォンをいじくって半拒絶の意思を見せつけた。
―おばあちゃんになりましたあー
母親が「姪」を抱えて、カメラ目線で笑っている写真が送られている。よくそんなに屈託なく笑えるなと思う。おばあちゃん、になったんだぞ?
―良助はもうおじや!
父親が、俺が叔父になったことに言及したのはこれで2回目となり、ここぞとばかりに家族への接続を促してくることに許容できぬむず痒さをおぼえる。退職届はもう出した、東京に行く、と母親のつくった美味いカレーを食いながら両親に告げた時、父親が泣きわめいたことを俺はまだ、感情レベルで許せていない。「いつまで夢見る夢子ちゃんやねん!」と泣きわめいた。俺のテレビの仕事がつまらないという実際的な感覚やカレーの旨味を度外視して、自分の人生観の中に閉じこもって泣きわめいた。そのモノローグ感にウンザリした。或いは、経験や知恵からの極めて理性的な泣きわめきだったとしても、それはやっぱり、ウンザリした。俺は、父親に既読スルーでこたえた。所在なくなって、何かしゃべった方が良いかなと、「姪」が産まれましたと肋骨先輩に見せてみたが、オオ、と次のタバコを握って、ウトウトしながらにやつくだけで、見せない方が良かったと思った。
「出ますか。明日も朝早いですし。俺がまた遅刻したら、先輩、殺すぞって言いますし。俺、言われたくないですし」
オオ、とだけ再び言って、肋骨先輩は財布から4つ折りの5千円札を取り出した。俺はアッス、と受け取って、カウンターの上に置くと、「ありがとう。また来てね」とオカマはぶっきらぼうに言って、朴訥ではなかった男の人の、岡本太郎の対極主義についての熱弁に意識を向けているようだった。要は熱く見つめ合っていた。「対極っていうのはカウンターでもなく、アンチテーゼでもなく、ただ全然違うもう一つの事象を並べるんです」朴訥ではなかった男の人の言葉だけが店を出た後でも妙に頭の中で反響したが、確実にそのように言っていたとは限らなかった。
―英語がんばります(耳の短いウサギがファイティングポーズとしているスタンプ)
菜穂子! の2カ月間のアメリカ滞在が決まった。
バー帰りの電車電鉄の中で俺は喜びの感情を呼び起こそうと左胸を叩いていた。MLB? NFL? のトレーナーに菜穂子は挑戦したいと前々から言っていて、遂にそれが叶う流れが来たのだとは、ラグビーとアメフトの違いも良く分からない俺にも分かった。Xリーグ? のトレーナーとして、菜穂子が雑誌に載っていたことも、俺にはあまりピンとこなかったが、もの凄いことだとは分かった。インタビュー記事の中で、選手の身体になるべく触れてコンディションを確かめ、それぞれの個性に合った練習メニューを考案していますと語っていて、雑誌は売り物のままに棚に戻した。男の身体に触れている事実に湧きあがった嫉妬のような感情は、いやいや仕事、という理性で包めたとしても、焼肉屋でアルバイトをしている自分と菜穂子の階級の差のようなものを感じては、惨めな気持ちになった。牛バラと牛ロースの違いが見分けられても、雑誌には載らない。やはり、菜穂子に俺は相応しくないのかと、菜穂子との運命の感覚を委縮させたくなかった故に、俺は、菜穂子の仕事の話に関しては、戦略的に聞き流していたのであるが、ここまでかと、電車の中で左胸を叩いている。「オレが売れたら、お前にもええ仕事やるから」と隣で酸言を繰り返す肋骨先輩に、「その前に撮影中の暴言とか暴力やめてくださいね」と乾いた言葉を投げつけ、さらに「すまんて」と肩を組もうとしてくる腕を払いのけ、頑なに、菜穂子の出世に関して嬉しい、嬉しい、と思おうと、左胸を小刻みに叩いている。叩き方は、右手で拳をつくって心臓に小刻みな振動を与えるイメージ。こうすればどんなに悲しいことや辛いことがあっても、嬉しくなってくるというジンクスを俺はつくっている。だがそれを必要としている時点で、菜穂子のアメリカ行きを悲しい、辛いと感じていることでもあることに気が付いて、俺は左胸を叩かなくなった。転がってきたレッドブルの缶を隅に蹴りやって、肩に凭れかかっていびきをかき始めた肋骨先輩の頭を肩で軽く突き上げた。
―お祝いしましょう(ネズミがGood! Job! という札を掲げているスタンプ)
9月8日。
目の前を泳いでいくスクリューの様に回転する裸足の女の白い足に右手を伸ばす。俺の右手は粉々に砕けて女は笑った。俺はまた女を笑わせたいと思い、左手でもう片方のスクリューの足を掴もうとする。しかし、俺の手の間からスルリと抜け、女は水面の方へと電光石火のごとくあがっていく。同じ方向へ目指そうともがくが、泳ぎ方の全てを忘れ、ゆっくりと下降していく。水底に女が落とした貝殻のピアスが光っているようだ。
―お祝い……? (耳の短いウサギが首を傾げているスタンプ)
優先座席の弾力に背中を吸い込まれながら、寝惚け眼のまま菜穂子への返信を考えている。年寄り優先とはいえ、誰も座る気配を見せないのなら、座ってしまった方が1人分の空間が増加し、満員電車を構成する共同体の幸福度は高くなると、俺はジンクスで頭を硬くしていたはずであったが、今さらどうでも良い気がするほどに脱力している。俺が座っていなくてはならない気さえする。目の前に立ち塞がる白髪のスーツの男は『部下の育て方/愛し方』という本をカバー無しで読んでおり、座って読む本でもないだろうと、俺は俺の正しさを死守した。誰にも見せたくないスマフォ画面を胸元にあてて、電磁波を胸元から体内に注入している。菜穂子はハロウィンの前日に飛び立つらしいが、その前にもう一度会うべく、アメリカ行きのお祝いを兼ねた先取りハロウィンを提案したのだった。
―うん! 何か食べたいものある?
―ごめんなさい。お祝いって何のことですか?
―MLB
―ん?
或いは、めでたく、ない?
機材置き場になっている洋室のローチェストの上に置かれている太陽の塔のミニチュアと、それを見る俺の顔面との間に、「二日酔いか?」という野太い声と共に紙の束が差し込まれた。カット割りの絵コンテが書き込まれ、隅々まで黒ずんだ肋骨先輩の脚本だった。今日は手前の男から奥の女に、台詞の良い頃合いを狙って手前に戻すという難易度の高いピン送りを俺にできるか? と肋骨先輩は俺の唇辺りを眺めて聞いてきた。噛んでいたガムをティッシュに丸めてポケットに突っ込み、できますと言うと、ほんまかいやと、にやついている。それから、MLBやなくてNFLやろ、と捨て台詞のようにして、踵を返したので、俺は即座に肋骨先輩の正面に立ちはだかって、しかしよろめいた。
「菜穂子と連絡しとんですか?」
「してたらあかんのか」
「いや、全然。でも、いや、何か聞いてるんですか?」
あと5分で段取り入りまーす、と言いにきた助監督の背の高い女性だった女性に肋骨先輩は、ウンコしてから行くとこたえ、俺の両肩に両手をのせた。
「本番終わったら、今日もオカマのとこいくで」
「ちょっと待ってください。昨日全然そんなこと言ってなかったんで。ちょっと正直びっくりで」
「あとで、あとで」
ウンコはしてもうて良いですけど、と言いかけた時には、便所の方へと駆けこんで行く肋骨先輩の背中が見えて、俺はその後を追った。バタン。閉まり切った扉の向こうから聴こえてくる排水音と排泄音の混合音に負けまいと、「これは今日のピン送りに関わってくることやから、撮影前に聞いておきたいです!」と大きめの声を出した。制作部の丸眼鏡の男性が、「どうした? 副カメラマン」と、丸眼鏡の中の眼を丸くして傍にやってきた。大丈夫、とそれっぽいジェスチャーをすると怪訝そうにして去っていった。撮影助手ではなく副カメラマンというのは響きが良いななどと思いつつ、或いは思う間もなく、扉を強くノックして、「今日のピン送りに関わることやから」と先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「……MLBってお前、野球やぞ。さすがに、ないわな。しかも、NHLじゃなくてその下のNCAAに挑戦する日本人選手のサポートやで。お祝いって、お前さあ」
ドアノブに手をかけると扉は軽く開いて、俺の部屋と同じようなローズの香りが漂ってきた。肋骨先輩のウンコは薔薇に負けるのか。マジで? と、俺の方を嘲笑した後、しめろや、とトイレのカーペットに声を落とすように呟いた。
「今のは菜穂子の代弁ですか?」
代弁が大便と掛け合わさった面白さは絶対に今じゃないと、俺はその不本意な思いつきを跳ね飛ばすために、菜穂子と何を話しているのですか? と聞き直した。しめろや、が、しめろ殺すぞ、となって、俺は、撮影モードに入った時の肋骨先輩の粗っぽさに身体が無意識に反応するように思わず閉めてしまったが、「じゃあ、ほんまに撮影終わったら、教えてくださいね」と冷静になったつもりで扉に言った。「そのつもりや! あほう!」
きばった声が聴こえた。
その日のピントは完璧に送った。
オカマさんのバーの煤けた小窓を頭の上半分だけを突き出して覗いている肋骨先輩は「今日はあかんわ」とにやついて、俺に手招きをした。薄明りの中、カウンター越しに人間2人が頭を接着させている。オカマさんと、岡本太郎について饒舌な男の人が長いキスをしている、と分かった。饒舌な男の頭の動きが激しく、オカマの方はあわよくばこちらに視線を送る余裕さえあるように、饒舌な男の人の舌を淡々と受容していた。臀部に振動がはしって、肋骨先輩が、行くぞ、とそれっぽいジェスチャーを顎で示した。撮影じゃあるまいし蹴らんといてくださいよ、と思いながら、何も言わず、臀部を擦って、肋骨先輩の後をボソボソとついていった。コンビニでアルコール分5%の缶ビールをそれぞれの金で買って花園神社の境内へと続く石段を登った。夕方の五時以降は神社には入ってはいけないという俺のジンクスは、菜穂子とのあの日と同じく破壊され、歩くほどに迫ってくる朱色の社殿に「前回は菜穂子とお世話になりました。今日も遅くにすいませんが菜穂子との確実なつながりのために、この人から菜穂子のことを聞き出すために、場所をしばしお貸しください」と応答した。作業服の男性が横になって眠っている段から3段上に俺と肋骨先輩は腰掛けて、缶を軽く突き合わした。
「あの。明日焼肉屋のバイトやし、先輩がアルコールまわりすぎる前に話したいですから、いきなりですけど、菜穂子は要は怒っとんですか?」
肋骨先輩は、「いや」と言って一缶の半分ぐらいを喉に通した。
「いきなりそんな飲まんで良いじゃないですか」
「お前、菜穂子の前でも関西弁で話したらどうやねん」
「はい?」
ふざけた事を抜かしたのかと肋骨先輩を睨むと、それを上塗りするような鋭い眼光が返されていた。
「お前に告白されたこと、菜穂子はほんま喜んどったよ。菜穂子は、お前に恋している。それは間違いない。やけど、菜穂子のことや。曖昧な子や。別の言い方すれば、それだけあれやこれや考える子ってことや」
「……俺が菜穂子の前で関西弁使わんことを菜穂子が何か言ったんすか?」
「いや、お前はオレに関西弁使うやろ? どっちのお前がほんまのお前やねん」
「……いやいや、待ってください。どこまで菜穂子から聞いとんですか」
「LINE見せてもうてる。お前が菜穂子に何を言って、何をしたか、教えてもうてる!」
作業着の男性が肋骨先輩の声に迷惑そうに、或いは、彼の充実した眠りのあとの目覚めを謳歌するように立ち上がって身体を伸ばし、ポケットに手を突っ込んで石段を降りて行った。肋骨先輩の強い発言によって硬直した身体を解くため、3分の1ほどビールを流し込んだ。
「今までずっとですか?」
でも心配すんな、と肩を組もうと伸びてきた肋骨先輩の腕を強く払いのけ、1段下に降りて身を丸めた。
「あほう。オレはお前らのことほんまに応援してんねんで。言うとくけど、俺は菜穂子といっぺんもやったことない」
「そんなこと聞いてへんですよ!」
「言うつもりなかったわ。ただ、お前と菜穂子はこのままやとまずい」
「アメリカ行きますからね!」
ちゃうねん、と俺の隣に肋骨先輩が並んできたが、背を向けて、自分の影で暗くなったコンクリートに視界を限定した。
「お前の長い台詞? とかいうやつ、それは間違ってへんかった。台詞いうのはよう分からんけど、要は気持ち伝えたってことやろ。ほんまにようやったと思う」
ほんまにいっぺんもやっていないのか?
「ただ、お前、菜穂子のことちゃんと見てるか? ほんまに菜穂子のこと好きか? アメリカに行って、お前の手の届かんお姫様みたいな存在であり続けることがお前のほんまの望みなんじゃないか? オカマちゃんの推察は的を射てたんじゃないのか?」
「俺が好きなんはnanakoやなくてnahokoですから……さておき、俺と菜穂子が一緒になって、先輩は何かメリットがあるんですか? 正直、今の話聞いて俺、結構きついです。俺、菜穂子の事好きですよ。東京に出てきたのは菜穂子に近付くためです。昨日は気使って誤魔化しましたけど、先輩の言う通りです。菜穂子がいなければ、俺はあのテレビ局の小さい機材室で十分満足して過ごしていたと思います」
「きついってのは、オレが菜穂子と連絡とってたことと、菜穂子がお前に不信感持ち始めたことのどっちに対してや」
「不信感? いや、そもそも、先輩の口を通して語られる菜穂子のことを菜穂子やと信じたくないです。そもそも……信じられへんです」
「メール見るか?」
結構です、と立ち上がると、膝がピキっと鳴った。
「逃げるんか?」
「ケツ痛なりまして」
石段に座っていたせいではなく、蹴られたことによるものだと言わんばかりに言ってやったが、肋骨先輩は、ほんじゃバー戻るか、そろそろ落ち着いたやろしと、鈍感を装うような素っ頓狂な表情で、新しい酩酊のうちに、俺との底知れぬ和解を求めるような、粗雑な態度をみせた。俺は一石を投じたくなり、振り返って仁王立ちになりながら、妙な緊張感に耳から息を吸って眼から吐くような不安定さを催しつつ、出てきた言葉をそのままにしゃべった。
「俺は俺のやり方で菜穂子を愛しますし、俺は俺のやり方でカメラマンになります。失敗しようが、間違ってようが、そっちの痛みの方が、何か意味ある気がします」
意味? 到来したその言葉が自分でも良く分からなくなって、明日バイトですから、と締めのつもりで言い放った。いつの間にか樹木の影に隠れていた肋骨先輩の表情はいつも通りの嘲笑を呈していたとして、石段を駆け降り、大鳥居の手前で先輩を含んだ境内全体にお辞儀をした。踵を返し、すぐに対面した明治通りの雑景に身を溶かして、ポケットに残っていた咀嚼後のガムの包みを道端に投げ捨てた。
―えー、たいへん……(耳の短いウサギが涙を流しているスタンプ) 意識は大丈夫?
「姪」を抱いたまま妹が公園の10段ある階段から転落した。妹は腕に3針、肘に5針縫い、軽い脳震盪を起こす怪我をしたが、幸い「姪」は妹の身体がクッションとなったおかげか無傷であったらしい。電話越しの母親の声は妙に落ち着いており、一方の俺は新宿三丁目駅のE1を出たり入ったりしながら、そうしていることにも無自覚なほど動揺していた。父さんにもかわるわ、とこちらに承諾の余地なく、父親の声がやってきた。元気か? うん。仕事は? うん、ぼちぼち。と、LINE上のようなはっちゃけた様子はなく、単調なやり取りが続いて、妹の現状を話す間もなく、久々に声聞けて良かったわ、じゃあまた正月な、ということで電話は切れた。妹に個人LINEで、母親の鏡! と送ったのち菜穂子にもその話を送った。
―意識ははっきりしてるみたい(ネズミがDangerousという札を掲げているスタンプ)。意識とか気にしてくれるの、さすがトレーナー!
それから自分が地下鉄に乗って帰宅しようとしていたことを思い出し、地下へと2段飛ばしで慎重に駆けおり、ようやく改札を抜けようとしたところ、ICカードの読み取り機に残高不足を告発され、前を先に行った太った男性の残高が45824円と表示されていた精神的衝撃と、急に止まったせいでこれまた太った男性の優先座席よりも弾力のある腹のでっぱりにぶつかった物理的衝撃の間で足踏みし、サセン、サセン、と謝りながら、踵を返し、チャージのため、券売機の前で一息つく……間もなく、後ろから、スースーと鼻息を漏らしている、これまた無呼吸症候群に悩ましい太った男性? かと、半身で振り返れば、皺くちゃのリュックとカメラの三脚ケース? のような黒くて細長い袋を背負ったあの岡本太郎について饒舌だった男の人が、俺越しに、券売機の画面を貫くように充血した眼で睨め付けている。あ、どうも、と思って、言えないまま、俺は、チャージのために財布から取り出した千円札をしまい、どうせ、金が無くていくらチャージするかを迷うだろうと考え、充血男に場所を譲るように横に退いた。が、充血男は譲られたことも分かっていない、というより、そこまで来たのが精一杯だったというように、ゆっくりとしゃがみこんで、膝を抱えて丸くなった。泣き腫らした後に、もう一回泣く為の、運動であると本能的に察知した俺は、立ちましょう、行きましょう、後ろの人もいますし、と、黒くて長細い袋を自分の肩にかけ、充血男の手を引くと案外身を任せられて共によろけた。俺もてんやわんやですわ、好きな人にうまくアプローチできんかったり、妹が「姪」抱っこしたまま階段から落ちたり、東京きてもええ仕事なかったりと、その場に言葉を置いていくような言い方で、来た道を引き返すのも何やから、けど、この人の来た道ってどっちからやろうと思いながら、自分が今、関西人っぽい情で動いている感じを感じつつ、E2の出口へと向かった。
代々木公園まで歩く道程で充血男は『玉突き太郎』という芸名を俺に教えた。大道芸人であり、普段は薬局で品出しのアルバイトをしているらしい。主に深夜の歌舞伎町の街中でビリヤードをするパフォーマンスをしており、新宿界隈では結構名の知れた方であると、要はそういうことである、という内容を長々と鼻声で饒舌にしゃべった。飲みに行ってアルコールに互いの悲哀を増幅させるよりも、公園まで歩いて涼しい夜風にあたりながら、互いの思考をまとめようと、俺の方から散歩を提案したのであったが、大して昨日のバーの時と相変わらず『玉突き太郎』は一方的に、岡本太郎はシュールレアリスムとは距離をとっていた、岡本太郎が現代に生きていたら今はユーチューバーをやっているだろう、でも自分がユーチューバーではなく大道芸をやっているのは、もっと質感のある芸をしたいから、云々、泣いていたことはくしゃみ程度の一時的な発作だったかのように、溌剌と芸人としての体裁の話を鼻声で続けて、俺はどちらかというと、都会のエレメントの方に、その話を受け渡すイメージで聞き流していた。「質感のある」とはベンヤミンの言う所のアウラが宿るってことですか? と、ここぞとばかりに聞いてみたが、『玉突き太郎』は、唇の回りを舐めとっただけで、信号はすぐに青に変わった。肝心のなぜ泣いていたか? は結局聞けないまま、代々木公園のベンチに並んで座ることになって、ここまで肩にかけていた黒くて細長い袋を『玉突き太郎』に渡すと、あ、あ! すいません! と忘れていたことが、多大なる失態かのような動揺でそそくさと受け取った。ビリヤードの打つ棒。キューというらしい。それで俺はひとまず、内情的なことを打ち明け合うには、こちら側からその姿勢を見せなければならないというジンクスでもって、先日バーでも聞いたかもしれませんが、丁度今歩いてきた道の途中で好きな人に告白して、大切には思うけど恋愛感情はない、みたいな話をこの公園でしまして、とざっくり話したところ、『玉突き太郎』は皺くちゃのリュックから、彼女との未来占ってみますか? と、三角形の枠みたいなラックというやつを取り出し、コンクリートの上に置いた。続いてぼこぼこした袋の中から取り出した9個の玉をラックの中にひし形に並べ始めた。
「占い? 芸ですか?」
「1回のブレイクショットとルノルマンの組み合わせで占います。御師匠さんに教えてもらったもので、他人様を占わせていただくのは初めてですが、良い機会かと思われます」
いや、占うにも本人の承諾が必要だろうと思いながら、『玉突き太郎』の、泣こうとしゃがみこんだ時とは真逆のクイックネスの効いた動きに呆気にとられ、その手からルノルマンというタロットカードが、花びらのように辺りの道に蒔かれ始めたのを、やや恍惚とさえ見ている。そのうち、四五枚が風に飛ばされ雑草群に貼りつき、さらにそのうち一枚が、木々の間の暗闇へと消えた。咄嗟に拾いに行こうと助走を開始した俺に『玉突き太郎』は「大丈夫です! 人の能動性とは相容れませんから!」と、俺を引き止めるには、充分な声量と、不十分な言葉で、叫んだ。一枚だけなくなったら一枚のためにまた全部買わなあかんのちゃいます? と『玉突き太郎』が薬局のアルバイトしている無念さを慮ったが、それは俺が焼肉屋でアルバイトをしている無念さと勝手に重ね合わせていることでもある気がして、ベンチに腰掛け直し、『玉突き太郎』の言動含む所作全般に俺はもう何も言わないことにした。能動性と相容れないのであれば、そもそも玉を突くことも、カードを蒔くことも、野暮な行為では? と、のちのち思考が巡ってきたが、ひし形に並んだ9個の玉から、メジャーで測って割り出した地点に白い玉を置き、キューの先を回しながら、チョークとやらを塗りつけている『玉突き太郎』の表情に見惚れすらした。俺とは全く別の生き方で生きてきて、もう1つの世界側を呼吸しているように、或いは、ただ公園の照明に神々しく演出されているだけのように、その表情は薄暗さの中に揺蕩っていた。若い男女や黒人のスケートボーダーが不審そうに、ばら撒かれたカードをかわしつつ、踏みつつ、通り過ぎていく。俺は『玉突き太郎』とはまるで関わりのない人間のように、眼を瞑ってアオマツムシやエンマコオロギの馴染みのある鳴き声に意識の居所を託したが、遠くで中国語らしき雄叫びが聴こえて余計に所在なくなった。他なる没入のため取り出したスマフォの光によって脳みその奥に痛みがはしった。
―脳震盪はまわりでよくあるからね(耳の短いウサギがニンジンを差し出してお大事にと言っているスタンプ)
―ラグビーは激しいもんねえ、と打ちかけて、消去! 危ない。アメフトだ。これ以上のミスは許されない。しかし、このやり取りすらも肋骨先輩に報告されているのかと思うと、ラグビーだと言い張ってやりたくもなる。MLBとも。
「彼女の誕生日はいつですか?」
『玉突き太郎』から声がかかったのにハッとなり11月11日ですが、と反射的にこたえた。加えてポッキーの日ですとも言ったが、「年は?」と続けて聞かれ、余計なことのようだった気がしてばつが悪くなった。
「平成3年です」
「運命星は金星」
『玉突き太郎』は地べたにうつ伏せになり、ひしがたの玉の塊と直線状に置かれた白い玉に向かってキューを構えた。
「俺は何を見てたら良いんでしょうか?」
「6番を」
スカコンッ! 『玉突き太郎』に突かれた白い玉は見事にひしがたの先頭の角を担っていた1番に衝突した。9番と7番を残したまま、それぞれの玉はそれぞれの力学に従って、転がり始めた。身構えていなかった俺は慌てて6番の行方を探したが、数字を確認しようにも、玉の回転のうちにままならない。
「緑です!」
『玉突き太郎』が膝立ちのまま指さした先に、公園のゆるやかな傾斜を喚起するように転がり続ける緑の玉があった。6番だ。俺は『玉突き太郎』に示されたその方角に、足早に向かって6番の後を追った。カードを蒔いた範囲からは大きく外れ十字路に差し掛かったとき、6番は大きな手に拾い上げられた。
「コレハキミノタマデスカ?」
「はい、俺の玉です!」
ありがとうございます、と受け取ると中国人らしき男性2人組は手を繋ぎながら髭男dismの『ラストソング』を、6番を拾い上げたことによって中断されたのであろう続きのメロディから歌いながら、噴水池の方へと肩を並べて小さくなった。占いは成立するのか? 6番から伝わってきた冷たさに、俺自身の手の温もりを与えた。それから、決して転がっては辿りつけないであろう近くに佇んでいた低木の茂みの中に隠し入れ、駆け足で元の場所に戻った。すいません見失ってしまいました、と2枚のカードをしゃがんで見比べている『玉突き太郎』に告げたが、「太陽と月ですね。すごい、ツインレイ」云々、独りごちるので、続けて玉1個の値段を聞きつつ、はよ片付けな夜やし、大切なもんでしょと、急かすように、近くに落ちていた錨とクローバーのカードを手に拾った。
「どの辺りまで転がりましたか?」
『玉突き太郎』は手に掴んだカードと、6番の転がった方角を見比べて言った。
「いや、あの十字路ぐらいまで転がっていった気がして探しましたけど、無かったんです……ほんで、俺、やってもろて、申し訳ないんですが、あんま占いとかは信じない方なんです」
「結婚しますよ。でもお互い大切に思うからこそ、お互いの言動に傷付きます。しかし2カ月後、丸くなります。円になります。それまでぶつかり合う運命です。彼女を傷付けることを恐れず、傷付けてください。あなたも傷付けられてください。今が、勝負時です。包み隠さないように……」
『玉突き太郎』はさっきまでのモノローグ調から一転、俺に言葉を届けるように俺の眼を貫くように見て話した。
「全然当たってないですね!」
俺の叫喚にビクともしない『玉突き太郎』から太陽と月のカードをそっと奪い取り、集めていた他のカードの上に重ねた。
「何が結婚ですか。俺は家賃滞納してるし、この前なんか、電気水道止められたんですよ。親に金送ってもらいました。妹の結婚式すら、俺の金で祝えへんで、何が結婚やねん。マジで。2カ月後や? 残念ながら菜穂子はアメリカにおるんですわ。アメリカで、スーパープレイヤー達と一緒に仕事しとんです。俺は、もう辞めたいですよ。俺はもう菜穂子を諦めたいですよ。大切な人や? 菜穂子は何であんな言い方したんかな。何で、あんな曖昧な態度とるんかな? そんなん、だって、働いている業界も違うし、何でこんな俺の、誘いなんかに乗ってくれたんかな? 何で俺なんかと、出逢ってしまったんやろか。あ、いや、ありがとうございます。そうやって、色々気い使ってくれてありがとうございます。玉突きさんは、さっき、今の俺より泣いてましたけど、どないしはったんですか? 俺は別に、大丈夫ですよ。俺は、そもそも、占いの前に頑張らなあかん人間ですから。拾いましょ。拾いましょ。カードが可哀想ですわ。6番取ってきますよ。無くなったとか嘘ですから」
俺はちょっと泣いていたのか。
6番は見つからないまま、繁みに突っ込んだ腕に痒みだけが残った。玉突きさんと俺は互いに終電を逃し、芝の上で横並びに仰向けになって色々な話をした。こういうシーン青春映画で撮りがちですよね、流れ星探しましょ、という言葉に玉突きさんは少し笑ってくれた。それから大学院時代から恋人であったオカマの話を、淡々とした口調で話してくれた。オカマが男性として生きていた頃の芳人という名前を、女性として生きる事を決意した際に芳と改名した後も玉突きさんは時折、芳人と呼んでしまったらしい。そこから不和が始まり、結果的に、大学院の修士論文でオカマとディスカッションを重ねて書いた『岡本太郎と夢想都市』の続編について語り合うぐらいが、2人の関係性をぎりぎり繋いでいたらしい。あのバーで邪魔したのは俺でしたね、と謝ろうとしたが、それとは関係なく決別の時、と占いでも出たと、玉突きさんは小さく欠伸をし、別れのキスは目刺しの味がしたことを真面目に話した。俺はヨシヒトと呼んでしまうのは仕方ないでしょ、恋の始まりがヨシヒトなんやったら、と言ったが、玉突きさんからの返事はなかった。玉突きさんの寝顔を確認するまでもなく、夜空に浮かんだ星々の間に宵でも明けでもない金星の煌めきを探し続けた。
「12月頃から激動の時代が始まります。あなただけには話しておきますね」
唐突に眼を覚ました、或いは起きていた玉突きさんが俺の無防備な左手をギュッと握ったので、俺も同じぐらいの力でギュッと握り返した。
9月9日。
貝殻のピアスの周りに集まってきた奇形の魚たちを追い払い、ピアスを手に取る。その場を離れようとしない奇形の魚たちに、「このピアスは女のものである」という意識を向ける。そこの、そこの、お前に。ここから立ち去れ。女の上昇した方を見上げる。女が残した海面の揺れに眼も眩むような光が漂っている。俺は足をもがいて再び上昇を目指すが、奇形の甲殻類の触手に片足を絡められる。アクリル板の向こう側から笑い声が聴こえる。あがれない。あがれない。あがらないと。
……菜穂子!
枕元のスマートフォンのアラームが鳴り続けており、ノールックで手に取って画面を観るとスヌーズだったことに飛び起きた。毛布はヌメリと身体を伝って落ちた。明け方の寒さに眼を覚ました俺と玉突き先輩は始発で別れたのであったが、バイトまで時間があったので、毛布に包まった温かみの中、至福の二度寝を呈したのであった。隣人のアラームも鳴らなかったのだろう。寝癖はそのままにキャップ帽の中に押し込み、財布とスマートフォンをトートバックに突っ込み、とはいえ、そろそろサンスベリアに水をやるタイミングであるとガラスコップに水道水を6分の1ほど入れ、根本にゆっくりと流し込んだ。
―菜穂子、早く会いたいです(ネズミがlonelyという札を掲げているスタンプ)
ガラガラの車内で手帳に夢日記をシャープペンシルで書き連ねる。1枚の画は水面から水中に突き出した細い足となった。降車駅であった明大前を乗り過ごし、バイト先の焼肉屋に遅刻連絡をしながら、折り返しの電車へと乗るため、階段を駆けのぼって駆けおりた。百合の花を抱えた老人以外のほとんどの人達、親子連れ、緑とピンク色の髪の女性、ジャージの中学生、電車を待つそれぞれの手にはスマートフォンが握られていて、画面を覗くために頭を垂れている。歩きスマフォの太った男性が百合の老人にぶつかりそうになったが寸でのところでかわし、老人は何事も無かったかのように百合を抱いている。自販機の隅で蹲っている土鳩以外、この駅のホームには本当は誰もいないのかもしれないと、俺は未だ寝起きの微睡の中で思考している。貧困をなくそう、飢餓をゼロに、すべての人に健康と福祉を、質の高い教育をみんなに、ジェンダー平等を実現しよう、SDGsの17の目標の最初の5個を確実に記憶していることを確認するように、或いは、思い出そうとして、その場で口ずさんだ。
焼肉屋「味王」に到着し、1組の常連が窓際で煙を上げているのが見え、裏口からそっと入ると、神妙な顔をした店長の柳原さんが俺を別室、といっても、ただの柳原さんの寝床としている和室に無言の手招きで案内した。48分の遅刻の件を謝ったが、それよりも、むしろ、俺が来なくても成り立ってしまう店の経営状況に悩んでいて、賃金を支払うのが難しくなってきたことを柳原さんは素直な感じで話した。君の夢を応援しきれないかもしれない、という言い方だった。俺は元々から、カメラマンとして東京でやっていきたいことを柳原さんに伝えており、唐突な肋骨先輩からの現場の誘いが入っても柳原さんはシフトを臨機応変に調節してくれていた。個人経営の夢を叶えた柳原さんは、ボクと物の考え方が似ている、と俺を採用してくれたのでもあった。シフトを減らして欲しいと遠回しに言う柳原さんに、良いですよ、大丈夫ですよ、仕事は探せばなんぼでもありますから、と背筋を伸ばして言った。常連客の1組に根底に愛を湛えたおもてなしの態度で接客し、その日の賄いで餞別のように柳原さんが出してくれた生センマイを、口の中で形がなくなるまで噛みしだいた。エプロンを畳んで、「クビってわけじゃないかもしれませんけど、一応今まで本当にありがとうございました」と言うと、「いえいえ」と柳原さんはぎこちなく微笑みをつくった。店を後にして、路地裏にくりだすと、秋風の唐突な冷気に身が冷える思いがした。
『作家養成塾。体験承ります』
手書きの掛け看板が目に入り、それはいつもバイト終わりには気が付かなかったツタの這う漆喰の壁の建物に貼りついていた。だからといって何でもなく、普段と同じスピードで通り過ぎ、交差点に差し掛かり、信号を待つ手持ち無沙汰な感じにスマフォを取り出した。俺の「会いたいです」に菜穂子からの既読がついている。が、返事はない。返事がないことよりも、俺自身の「会いたいです」という唐突な内情吐露に俺自身が戸惑った。足がガクガクした。寒い。折り返す。一直線に、少し早足で。壁から滲み出たようなインターホンの丸いボタンを、数十秒間睨んだのち、震える手で押した。寒い。反応はない。2回目を押そうとした時、扉の隙間から杖を突いた白髪の男性が「何か?」と言う。「体験で」
「コーヒーは砂糖入れますか?」
いえ、とこたえると扉の開閉を俺に託したまま、白髪の老人は中へと入っていく。玄関の棚にはマリア像が置かれおり、ヌットリとした土臭い匂いが廊下の奥から漂ってきた。何より温かさにホッとした。
「普段はカメラマンとかをしてるんですけど、こういう文章というか、夢日記を書いてて」
卓袱台の向こう側で座を組む白髪の男性が俺の渡した手帳を震える両手で握り締め、赤い縁の眼鏡の中の眼球を上から下へと動かしている。手帳を畳むと俺の方に「へい」と返し、「飲んで」と湯気をくゆらせるコーヒーと俺を見た。言われるがまま一口飲むと、優しい苦みが脳髄にまで広がって、とはいえ、あっさりと消えていって、すぐにもう一口が欲しくなった。
「自家焙煎してみたんだが」
「美味いです」
「そうか。中煎りなんだが」
「コーヒー屋始めるんですか?」
「いやあ、趣味趣味。ばあさんにも呆れられとった」
「呆れられとった」と過去形であることから、ばあさん、は現在はいないのだということを察しつつ、「小説になりますかね?」と、話の筋を戻そうと試みた。
「モチーフは?」
「モチーフ? 夢ですけど」
「いや、夢は、現実との因果関係で見るものでしょうが」
いきなり講師口調だ。
「夢のモチーフってことですか?」
「夢の話をそのまま小説にすることはできない。何故その夢を見たか、自身の深層心理を辿って掘り起こさなければ、読者に読んでもらえるような切実さは産まれんよ」
読者、という、思いもよらぬ到来者に半ば動揺しつつ、いや、いや、と口癖を露呈しながら、自身の素人ならではの無謀な、かつ、挑戦的な持論を展開する余地を自ら設けた。
「俺にとって夢は夢なんです。ここに出てくる女にモチーフもクソもありません。いや、仮にあるとしても、今好きな女の人思い当たりますが、その人と彼女とは関係がないと思います」
「それだよ、そのこと自体が小説になる」
と、講師は外した眼鏡を卓袱台にコツンと当てた。「そんなん」と声を震わせる俺に講師は「飲みながら飲みながら」と諭すように言う。俺はまた、言われるがまま一口、温い苦みを取り入れ、とはいえ、沈黙をつくって、講師の教えるという行為の中で経験不足かららあらゆる壁に頭を打ちつける一介の受講者の振舞を制御し、なるべく俺側の人生の考え方を、小説を書くことが至上命題ではない、言い方で言おうと、溢れてきた言葉群を頭の中で並べ替え、講師はまたそれを待ち続けるように俺こちらを見ていた。
「彼女の事を仮に小説に書くとします。でも、書くとしたら、俺はめっぽう嘘を書きます。彼女が俺のその出来上がった小説を読んだ時、全然私の事がうまく書かれていないとがっかりするものにします。それで、俺は、それは俺の小説だから、という言い訳をして、彼女とは、ほんものの、人生を歩みます。うまく書かれていないということで、彼女は俺に幻滅するかもしれませんが、それは、仮に俺が小説家になったら、の話です。夢とか小説とか架空の世界に、俺は彼女との関係の進展を期待しません。だから、やっぱり俺は帰ります。コーヒーご馳走様でした」
講師は時折深く頷いて、何か言いたげに、口を開いたが、俺は膝をビキビキッ! と鳴らしながら立ち上がってその隙を与えなかった。でも、俺の言葉を待ってくれた分、やっぱり俺も待たないと、と立ち止まって、振り返ったが、「それじゃあ、それじゃあ」と、白髪の男性は杖を早々について部屋の奥に消えて行った。「じっくり時間をかけて」と戻って来た白髪の男性はコーヒー豆の入ったクラフト紙を1つ俺に手渡した。
「書きたくなったら、ひと月8千円。いつでもお待ちしております」
夢見る夢子ちゃんやったわ。
先月のクレジットカードの5万6千215円の請求書を片目の達磨の置物で開いたままにしておき、父親と電話している。「生活保護 親への連絡」と検索した画面を閉じ、前回の水道電気が止められた時同様、こっそりと母親に状況を告げ、金を催促するLINEしたのであったが、さすがに重労働な市の観光課で父親の働いて稼いだ金でもあり、父親と話すよう母親からも促された。父親は10万振り込むと言った。
でも今夢見ている暇はないし、次の仕事を探すから。
俺は電話を切るための言葉のように言ったが、父親は、あげるんやない、お前には才能がある、美里の結婚式の映像、母さんには不評やったけどあれは良かったぞ、これはお前への投資や、将来、倍にも3倍にもして、そんで配当をくれ、頼むで、な、ほんならハジメにかわるわ、オジサン、と声をくぐもらせていた俺にLINE調の気さくさで言って、すぐ「姪」のアンニュイアンニュイと聞き取れるような言語以前の言葉が響き渡り、何も言えなかった。「肇」と書くらしい。男の子に多い名前らしい。
―いつでも疲れたら帰っておいでな。父さんは、お前のフアンやで。(訳の分からないアニメのキャラクターが訳の分からない格好で、飛翔しているスタンプ。ほんまに訳が分からない)
キッチンで白髪の男性にもらったクラフト紙を破いて摘まみ出した細挽きの豆をそのままに眺め、そのままに封入した。それから目の前に立ちはだかったただの無防備な部屋の壁をドンッと叩いた。平日の真昼間にサラリーマンであろう隣人がいるはずがないことを冷静に思いながら、ドンドンッと続けて拳で叩いた。叫んでもみた。アに点々という感じの声で。俺、叫んでるなと思った。魔の触手を伸ばすように40cmほど伸びて窓枠を蹂躙し始めたサンスベリアの葉が、あの夢の中の奇形の甲殻類のそれに見える。「俺は今、壁を叩いて叫んで、あなた方を監獄みたいにしてしまっていますが、すいません。今だけです。後でこんな俺でも黙って見守ってくれてること感謝します。でもさすがに今は無理です」と沈黙の部屋全体に弁解した。
―←突然こんな感じでごめん。会いたいですと言うより、会いましょうと言いたかった。お祝いとか俺の勘違いだったかもしれないけれど、そういう話も含めて先取りハロウィンやりましょう。日程を決めましょう。
9月10日
人体模型の内臓を入れ替えているヘラヘラした子供の横顔。それを死角から蹴り飛ばす。
肋骨先輩からLINEで社会人アメフトX2リーグの配信撮影の仕事の誘いが来たのは、派遣登録会場の説明動画視聴をサボって、机の下でスマフォのカードゲームアプリで知らないパキスタン人と通信対戦している時で、俺はまずそのパキスタン人に勝利の決定打としての『滅びの爆裂疾風弾』を最強カードによって浴びせ、勝利報酬を受け取り、それによって新しいカードを手に入れるための、パック開封に没頭した。光輝くウルトラレアカード『カオス・ソルジャー』を引いて、対戦の為にデッキに加え、ランダム通信のボタンを押せば、今度はアゼルバイジャン人と接続された。無課金で『レジェンドランク』にまで到達したことを枯渇していた自尊心の箱にプールした。「動画の視聴は義務付けられております。後ろも詰まっておりますのでもう一度流す時間はありません。残念ですが、本日はお帰りください」
後ろからの唐突な係員の声にスマフォを落とした。液晶画面は無事だったことを思った。
「聞いてますよ。業務前と業務後の電話連絡が必要とか、業務用手袋持参とか」
西日暮里の冷凍庫での作業が多めとか。
9月10日
派遣登録所の係員が平泳ぎの格好をすると、宙に浮けることを俺に自慢してくる。殴るが、一向に係員の顔面は崩れない。
「さんきゅうさんきゅう」
試合前は肋骨先輩のあからさまに優しい口調の指示をキモく思いながらカメラケーブルを配線し、試合中はフィールド全体を映している固定カメラを見守りながら適当に画面を切り替えるためのスイッチングをするだけで日給3万。肋骨先輩の「ええ仕事」とはこれのことだったかと、モニターに映る防具姿の男達のごちゃまぜ風景を傍観している。オレは寄り画撮らなあかんから、とフェンス際で選手の動きに合わせてカメラを鋭敏に左右に振っている肋骨先輩の背後にカラスが舞い降りて、観客のこぼした丸い駄菓子を突いている。それからごちゃまぜの防具服の男達をフィールド外で観ているジャージ姿の女達の姿が気になる。マネージャーにもアナライザーとトレーナーがいるらしいとスマフォの検索結果に気を取られているうちに、歓声が巻き起こった。7番の選手がボールを抱えフィールドの端に向かって独走状態になっている。川本さん。肋骨先輩は菜穂子然り、プレーヤーの幾人かとも付き合いがあり、川本さんもその内の一人だった。川本さんは卒業後もX2リーグの社会人チームでアメフトを続けていた。今回の撮影案件も、川本さんの紹介であり、配信に関しては川本さん自身が開設したチャンネル登録者数258人のYOUTUBEで流れている。タッチダウン後に肋骨先輩のカメラに向かって両手を腰に当ててポーズを決め、川本さんのヘルメットをチームのメンバーが祝福のためにポカポカと叩く。その姿を一体誰に見せたいのか、俺と肋骨先輩は知っている。1つ格上のXリーグで出世している元カノ。俺はその勇姿を彼女に届けるため、即座に肋骨先輩のカメラの画に切り替えた。でも。菜穂子は今、海外に向けての準備とかで忙しいから時間もないと思いますけど、たまたま、その余暇のうちとかに観られると良いですね。川本さんと菜穂子と、俺と菜穂子と、肋骨先輩と菜穂子と、それぞれの関係性が、別々に叶えられると良いんじゃないですかね! と、俺は素早く的確なスイッチングをした。良い試合だった。けど、遠くで雷が鳴り、試合は3クウォーターの途中で中止となった。防具は感電しやすく危険らしい。
「今日の仕事は俺へのあてつけですか?」
菜穂子の話は何もしないことを条件に飲みには付き合うという俺から肋骨先輩への約束事は、ハイボール2杯分のアルコールを注入された俺自身によって瞬く間に破られた。
「あほう、西日暮里の冷凍庫の作業よりかはええやろ」
俺はオカマを「芳さん」と呼んで、3杯目を注文した。芳さんにも、今日はコンサルティングはなしで、と入店後すぐ忠告していたが故に、その時の芳さんの苦笑いには共感すらおぼえた。タバコに吸われるみたいに、火を付けず咥えたまま眼を瞑って、仕事の終わりの充足感に身を委ねている、或いは、後輩に対して、今までの無神経な自分とはもう違う、お前のやり方で菜穂子を愛せよという大雑把な温もりで構える肋骨先輩に、それでもなお、否、そうであるが故に、俺と菜穂子の運命が肋骨先輩の手中に収まってしまっている感じを感じ取って、一発その頬に快音のビンタを喰らわしたくなるほどにカリカリしながらガリガリと煎餅を齧った。「あほう、は先輩の方やで……」
「川本のやつ、やっぱ凄かったなあ」
芳さんが、何故私の名前を? と俺の空いたグラスを手にとった。何故でしょうね、と、玉突きさんが座っていた辺りの空間、要は酒のボトルが並んだ棚辺りに向けて言い放った。肋骨先輩の皿に入っていた最後の煎餅に手を伸ばし、口に含んで、先輩の額の皺に新しい皺を刻む意識で睨んだ。
「菜穂子から一切連絡返ってこーへんのですわ。それで菜穂子は何か言っとんです?」
と、即座に俺は両耳を塞ぎ、さらに的確に鼓膜を素早く圧迫したり放したりして、全ての音が示す意味を拒絶した。だが、3杯目のハイボールを受け取るために、片手は離さなければならず、その際に侵入した解放的なアンビエント音楽の店内BGMと、延々と通底している換気扇の音に、妙な落ち着きを取り戻した。次の瞬間、肩に背負い慣れた重量感があり、それが肋骨先輩の腕だとはすぐに気が付いた。
「オレ、実家帰るわ」
「はい? 肩に手え乗せるのやめてもらえます?」
スルリと俺の肩から先輩の腕は落ちて、所在なく揺れた。
「実家?」
「親父が肺炎でもうすぐ死ぬらしい。間質性肺炎とかいうやつ。タバコの吸い過ぎや。オカンも、難聴やしボケ始めた。オレが東京におること忘れて、普通に、晩飯何が良いかとか連絡が来る。コロッケや。だいたいそう答えたら満足や。小学生の時のオレや。限界や。唯一介助してくれる叔母さんは広島に転勤になってもうたし」
「……施設とか考えないんですか?」
返答として、しっくりこない。
「考える前に、会わなな。さすがに」
「や、そうですよね。絶対帰らなあかんですね。ってことは、つまり一時的な?」
「部屋の契約更新はしてへん」
芳さんは「注文あったら、呼んでね」と店の窓際の掛札をOPENからCLOSEDにしてそれは扉だったのか、というような壁に埋め込まれた扉をギギギとくり抜くように開き、エプロンを畳みながら奥へと姿を消した。扉に架かった岡本太郎『森の掟』のレプリカに描かれたチャックの生き物の視線が妙に気になりつつ、ハイボールのグラスに一口付けた。
「今日は俺が奢りますね」
「うん? ああ」
「配信は配信の楽しさがありますね」
「ああ」
「同時性というか、後で編集とかできへんからこそ、その時にしか撮れへんものもある感じとか」
今話すべきことではないだろうな、と思いつつも、沈黙を作りたくはない気がした。肋骨先輩は俺の言葉に適当に頷いて、或いは、自分の次に放つ言葉のために助走をつけていた。
「地元で一緒にスタジオやらへんか?」
「……スタジオ? 動画の?」
「動画も写真も。五十嵐さん知ってる? 俺の6つ上やから、お前の7つ上か」
「知らんです」
「あほう、知っとけよ。オランダで写真の賞獲って、業界ではまあまあ有名人やぞ。写真部の副部長やった人や。帰国して、三宮の異人館借りてスタジオ始めた」
「誘われてるんですか?」
「いや、連絡した。そしたら、丁度求人出したばっかやって。助手五名」
「五名も?」
「ウェディングで相当儲かってるらしい。今後は企業広告とかもやってくから人員が必要なんやって」
「……ああ、凄いですね。でも俺は、たしかに妹のとか撮ってウェディングは興味ありますけど、いや、そやなくて―」
「お前はカメラマンとして一体何を目指してんの? 映画? CM? 俺は正直お前のことがよう分からんのやけど」
何故か菜穂子の言葉でもある気がした。全然違うかもしれない、が。
「東京に何を求めてんの?」
「……俺を誘ったのは先輩ですよね」
「オレはお前と一緒にやりたい。これからも。オレについてきてくれるのはお前ぐらいや……や、そういうのではく、どんくささはあるけど、普通にフレームの作り方とか、ピントの送り方とか、感覚的に共有できることが一杯ある。他の誰よりも」
そんなん、さあ。
「そんなん、ずるいですやん」
ため息をため息として吐き、ハイボールの苦みを苦さとして味わう。立ち上がって、肋骨先輩に背を向け、ズボンとパンツをずり下ろした。ココ、と臀部の一点を指すと、ソコ、を真剣な目つきで肋骨先輩は見た。
「何にもなってへんでしょ。でも、寝る前とかたまにジンジン痛むんですよ。先輩が同じとこ蹴るから。違うとこ蹴れば良いってもんじゃないですけど。その先輩の衝動的なものを、俺はもう受け止めたくありません。今日の配信撮影の時の変に優しい感じとか、正直逆にキモいなとか思ったけど、そういうの改めようという気も感じたし、確かにええ仕事紹介してくれたこととか、ありがとうございますって思います。でも、俺はね」
でも、俺はね? それ以降が出てこず、パンツとズボンをヌンメリと上げた。振り返ったとき、肋骨先輩はスマフォを手に煙を吐いていて、コイツ……と思ったが、「今送った」と俺の眼を見て言った。何を? 先輩とのLINEを開くと、新宿の居酒屋『快晴ランデブー』の地図情報が送信されている。
「菜穂子のチームも今日試合やった。同じく中止になったけど、コールド勝ちになって打ち上げやってるらしい。8時から始まってるから、あと1時間ぐらいちゃうか」
「……それが?」
「オレの口から菜穂子の事はもう言わんつもりや。お前がオレにそんな感じのこと言ったから。ただ、今行った方がええ。オレがそう思うから。そんでオレはお前にその後、ちゃんと謝る。オレはお前に一緒に来て欲しいから」
またあのゴツゴツのアメフト部の中に突撃するのか……と大学の食堂で菜穂子を待ち構えていた時の憂鬱と期待の融合した情動を喚起させられ、一方、その時のような無鉄砲さが現在は失われているように億劫になって「俺には俺のタイミングがありますし」と椅子に腰かけようとすると「オカマちゃん! ウイスキー!」と肋骨先輩が声を張った。扉がやる気のない音を立てて開き、芳さんが「2つ?」と眠たそうな眼を擦った。「1つ」
俺が奢るって言うたのにな。
結局、またもや臀部を蹴られそうな、それ以上の圧力を湛えて、酩酊の絶頂を迎えた肋骨先輩の姿態から離れるべく、或いは、与えられたひとかたまりの勇気とともにバーを飛び出し、道を塞ぐ黒人の勧誘を川本さんのようになったつもりでかわし、とはいえ、水溜まりの水を飲むドブネズミを驚かせて退散させる程度の小走りで小雨をシャツにしみ込ませ、徘徊者としては申し分ない蛇行の呈をなしながら走った。15分ぐらいは夢中で走ったが、到着したところで、グーグルマップに示された『快晴ランデブー』の入った雑居ビルの前で棒立ちとなった。1階にシャッターが半分閉まった雑貨屋『Kitty』が小さなランタンの光を灯していた。窓際に飾られたショーケースの中に、ランタンの光を反射させる煌めきがあり、近づくとそれが貝殻だと分かった。白い巻貝の一種で、ピアスとして売られている。「あと5分で閉店です」と俺の隣に立って同じ方向を見つめる店員らしき緑とピンク色の髪の女性の姿がった。
「プレゼントにはもってこいですよ。悩むならあと10分差し上げます」
「きれいですね。とても」
グッグッグッググ―
さて、雑居ビルの老いたエレベーターが5階の『快晴ランデブー』へと俺を運んでいるわけだが、店に食べにきたわけではないコイツのために果たして扉を開いて良いのやら分からないというようにモッソリとしたスピードで、時折断末魔のような音を立てながら上昇している。チコンッと鳴って、老人が腰をあげるように扉が開くと、飛行船のような筋肉のついた腕に御姫様抱っこされた腑抜けた女が、とうもろこしの髭のような髪の毛を真っ逆さまに垂らし、ほうれい線をくっきりと刻印しながらほとんど白目を剥いているのだった。扉が開いてからしばらくは店の入り口周りでウダウダして、ウダウダの中で、さりげなく、菜穂子へのアポイントをとろうとする自分の姿を想像していた俺にとっては、晴天の霹靂すら驚きの対象とならない。
「降りませんか? じゃあ乗りますよ」
飛行船男が乗り込んでくると、ガクンとエレベーターは縦揺れした。
「……救急車呼びましたか?」
「いえ、この女はいっつもこうなんですよ。プレーヤーと飲みを競り合うから。ほんと、くっさいですよね」
「……でも結構危ない状態なんじゃないですか?」
ギュシシシッ、と笑った女の口から垂れた唾液が飛行船男のクロックスに付着した。
「マーダ、オーソト、ジャナイノオオオ? ハーヤクウウ……タッチダウーン。カッタカラ、キスして」
「やめろよ! ゲロ臭いんだよ! 口開くな!」
誰もボタンを押さないままに下降していくエレベーターの中にアセトアルデヒドの匂いが充満した。俺は、外は寒なりましたね、と、飛行船男の筋張った腓腹筋の方へ呟き、ポケットの中の巻貝の角を掌に食い込ませ、1階までのありとあらゆる拷問の痛みを誤魔化そうとした。無理だった。スマートフォンを取り出しグーグル翻訳に文字を入力して女の赤くなった耳に近付け発音ボタンを押した。Are you really going to America like that? 女はその音にくすぐったそうにして笑いながら耳を塞いだ。「キスシテエ」。1階。扉が開くと、犬! が前のめりになっていて、その首輪を背広姿の男が握っていた。女を抱えた飛行船男と俺は犬! に、足回りを鼻で突かれながら、雑居ビルの前の通りへと出た。女は飛行船男に腕から降ろされて、灰色のデッパリに座らされた。「はい、深呼吸」飛行船男は女の背中を掌で支えながら、俺の方を見て「気にしないで大丈夫ですよ。ご心配ありがとうございます」と誠実そうに言った。
「彼氏さんですか?」
と、俺は聞いていた。
「僕? なわけないですよ。つっても、そう見えますかね。こういう泥仕事は下っ端の役目ですから」
泥仕事、というのにやや共感の念を抱いて、俺は頷いたと思う。
「あ、下っ端っていうのは僕らアメフト部の中でのヒエラルキー的なね。7番手のレシーバーなんで。つっても、分かりませんよね」
頷いてから、女のネイビー色のカーディガンの下の白Tシャツの胸の膨らみに視線を吸い付けられた。俺は。
「それでキスはしましたか?」
「ん?」
「こういう時、他の人ら含めてこの女の人にキスはするんですか?」
「いや、しないですよ。誰でも他人のゲロの味なんて知りたくないでしょ」
女はヒヒヒと笑って、ウゲッとえずいている。「……シノチャン?」
「誰ですか? あなた」
「いや、すいません。誰でもないです」
それから俺は、区役所通りの道を北に向かって歩いた。寒さなど微塵も忘れていたが、雨水のしみ込んだ破れた革靴のグチョグチョという音には気がつき、その心地悪さに立ち止まった。靴下を脱いでポケットに突っ込むと小袋が押し潰される音が鳴った。つまみ出して開封すると、巻貝のピアスが近くのセブンイレブンの光を反射していた。袋に戻し、そのままゴミ箱に投げ入れると、太った店員の太った女性が出てきて、私物は捨てないでくださいと強い口調で言ったが、入れてしまったソレを取り出すほどのアレもなかったし、私物でもない気がして、何も言わず逃げた。
どうせなら、南へと。
「菜穂子!」
女の背中を擦っている飛行船男のもとに駆けつけたとき、菜穂子は飛行船男に腰に手を腰に回されて支えられながら、エレベーターの方へと向かっていた。飛行船男は俺の声に振り返りもせず、或いは頑なに、△ボタンを押した。
「菜穂子、行こ」
菜穂子の手を握ると冷たかった。それから、ペタンッと激しい音が鳴った。俺が仰向けに倒れて床に叩きつけられた音だった。俺を右手で突き飛ばす為に、左腕に支え直された菜穂子の身体がグンネリと後ろに反り返ってこちらを見た。「シノチャン」
「2番手のやつが怪我したんですよ。つまり次の試合僕は6番手になった。試合に出られるかもしれない。一本縦に長いパスコースを監督に発注するつもりです」
エレベーターの扉を凝視し続ける飛行船男は、俺の存在を度外視して、或いは、拒絶のために独りごちた。ヨレヨレに立ち上がった俺はもう一度、菜穂子の上腕部を掴んだ。その柔らかい弾力に爪が刺さった。「イタアアイ!」
飛行船男が菜穂子の声に反応して、俺の方に腐った蜥蜴のような眼を向けた。殴られる。掴んだ手の力を緩めたとき「ハナサナイデ」と小さな声が響いた。「イタイデモハナサナイデ」その時、菜穂子の諦観を湛えたような表情に、俺は都会の震源地ともなり得る怪力を発揮し、菜穂子の身体を掻っ攫うように飛行船男から突き放したに違いない。いや、「やっぱり俺は彼氏です」と意味不明な嘘の弁明をしたのが飛行船男が菜穂子を手放す大半の理由となり得た。
花園神社で祈った時間も、たぶん祈ったことも、新宿末廣亭で笑った箇所も、鍋料理でつついた好みの具も、全部シノちゃんとは違っていて、私は、シノちゃんとの価値観の違いを知った。それなのに、好きだ、と言われることに少し怖くなった。それに自分の状況を勘違いされて(NACC行きは祝うほどの事ではない。むしろ、これは始まりであって、祝われてしまえば気が抜ける)、シノちゃんは一体誰に話ししているのだろうと、さらに怖くなった。という内容を酩酊のうちにかろうじて長々紡がれた言葉で菜穂子はしゃべった。俺は、たとえばSDGsの17番目の目標のパートナーシップで目標を達成しようというやつ、それはこういった個人レベルの愛情関係から始まって、その、つまり、全然価値観の違う者同士が、結ばれていくことには、世界の幸福度をあげるためには非常に重要なことなんじゃないかと、無謀な論理展開を始めたとき、「ジュウヨウナコトオ?」と聞き返す菜穂子に、俺は俺の自分のこういう世界と個人を関係付けてしまうようなところにまずは悩んでいると、転調して話した。それからNCAAをMLBと間違ったことや、会いたいと衝動的に送ってしまったことを一つずつ謝り、単なるモノローグにはなってはならないと、ネオンの逆光に暗くなった菜穂子の横顔含む菜穂子の仕草、言葉全体をダイアローグのためのそれとして受容するべく、白線もない短い横断歩道の青信号を前に立ち止まり、菜穂子は神社ではあの日何を祈ったん? と聞いた。俺の肩に乗かっていた菜穂子の手がスルリと落ち、近くのガードレールが両手に掴まれた。「手え、白なんで」
菜穂子は「カンサイベン」と笑ったのち、「チームノショウリトカゾクノケンコウ」と呟いた。
「ええことやな」
トラックのヘッドライトに菜穂子の手の甲の赤黒いシミのようなものが顕になった。
「それ。手え、大丈夫なん?」
「ウルサイナア」
白い塗料がついた手の平を俺の方に見せつけて酩酊のうちに口角を上げた。「違う。裏、裏」裏、を見た菜穂子は、「コケタノオ」と背後に腕ごと背後に隠した。「酔っ払って?」「ジテンシャデエ」「うそ、どこで?」
信号が赤に変わり、何故か渡り出そうとした菜穂子の腕を爪が刺さらないように「赤や」と両手で繊細に包み込んで引き留めた。
「菜穂子は花園神社で俺が何を祈ったと思ってんの?」
「ワタシトウマクイキマスヨウニ?」
「……腹立つな」
「シノチャンハサア、ドコノドノバメンデワタシノコトスキニナッタノ? ガクショクデイッショニ、ガーリックチキンステーキタベテ、カイヨウハクブツカンイッテ、ボキンカツドウノヒトトシャベッタリ、ブカツノプロフィールシャシントッテモラッタリ、シタケド、ソレノドコノドノバメン? コノアイダハナガイコトワタシノコトスキミタイナフンイキノハナシシテクレテ、ウレシカッタケレド、カエッテ、ヨクヨクカンガエタラ、ヤッパリ、ワカラナイ」
菜穂子は酔っ払ってないみたいに言った。が、俺は反射的にこたえた。何を言うか分からない台詞がつくられる前の危うさのままで。
「決定的やったんは、肋骨先輩と菜穂子の練習覗きに行った時。タオルを首に巻いたスッピンの菜穂子が選手に給水ボトル渡して走り回って、その後汗拭きながら、グラウンドに生えたよう分からん雑草の葉っぱを、指でいじってる時。その時、ほんまに可愛いと思った。好きやなって思った。川本さんと付き合ってた時、やったけど」
幾らかは都会のエレメントの音に掻き消されながら、掻き消されたなと思った部分は、言い直した。こめかみは掻かなかった。菜穂子は俺に腕を掴まれたまま「ワタレルジャン。アカダケド」と脱力して俺の方を見上げた。菜穂子のポケットの中のスマフォが鳴った。
「ワタシノソウベツカイ、コミダカラ。モドラナイト」
残念そうな、或いは、告白への明確な辞退として厳しい口調で言った。どっちだ。スマフォを取り出そうとする菜穂子の手を制し、「俺のどこを大切に思う? ほんまはそれほどでもなくて、とりあえず手中に置いておこうみたいな感じ? そうやったらそうって言って欲しい。そのままアメリカなんかに行かんとって欲しい。それで、断るなら断って欲しい。言葉にして欲しい。今ここで」と顔を覗き込み、菜穂子の前髪に付着していた埃を払った。菜穂子は唇を丸めて、すぐパッと開いた。
「コウエンイク?」
「二次会あるんやろ?」
「ツクマデニカンガエルカラ。オサケノチカラデハナシタクナイノオ」
菜穂子はわざとらしく左右に身体を揺らしていた。
―ご馳走様でした。今度こそ俺が奢ります。また絶対飲みましょう。東京で。
悪質な客引きの注意喚起を落語調にするスピーカーの下で、流れゆく雑踏の中に身投げするように切実にぶつかっていく客引きの青年が、数多の拒絶の意を身に纏い、スラックスの破れた裾を折りたたんで捲りあげている。彼の褐色の汗ばんだ脹脛は彼が東京に来たであろう一つの真実を湛えているように生々しい。その姿に薄笑いを浮かべるAmazonの段ボールの上に寝転がった老人の眼が、その場から世界を達観し、迫りくる腐敗の流れから、客引きの青年諸共、泥から咲く蓮の花のような他愛によって、光から弾かれた、闇、それ自身の光を、彼との間柄から滲み出させようとするように彼を視界の中心に留め、「おい、うるせえぞ! クソガキ!」とその尖った口を叫喚させている。列になった数台のゴミ収集車が青年と老人の間を引き裂くように通過し、1台の運転席から潰れたヘビーメタルの音楽が垂れている。その収集車の下を玉が転がって突き抜け、カラオケ店の扉にぶつかった。玉は傾斜に従って転げ落ち、ゴミ袋の中に吸い込まれていった。即座にゴミ袋の間にキューを構える玉突きさんの周りにスマートフォンを向ける人だかりができている。一声かけるにはあまりにも没入した空気感に、俺も菜穂子もただ、次に突かれてゴミ袋の間から抜け出した玉の行方をただ見ていた―12月頃から激動の時代が始まります。あなただけには話しておきます―菜穂子との沈黙の間に玉突きさん言葉が反芻され、俺が今見えているこの光景以上の、劇的な世界の運動があるとは想像はつかない。仮に本当に12月に何か大きな事が起こるとするのであれば、菜穂子がアメリカに行った後である。菜穂子とその激動の時代とやらを一緒にいられないことを思いつつ、玉付きさんの後ろ姿を見送って、街灯の少ない道路沿いに出た時、俺は菜穂子の手を握った。俺の手の中で形を迷ったのち、玉突きさんの半分ぐらいのその小さな手は、俺の手を握り返した。玉突きさんに握られた手に握られた菜穂子の手はまた、他の誰を握っても良い、或いは、絶対に俺から離れないで欲しい、と俺は後者を強く思った。首都高速の壁沿いを、2人と、その他の通行人と歩き、すれ違った7人ぐらいのヨーロッパ系の外国人団体に「イイコイビト!」と揶揄、或いは根底から祝福された。俺は繋いでいない方の片手を高く挙げてこたえた。調子に乗って菜穂子にキスをすると、歓声が上がり、また小さくなった。こっそり唇と舐めとってみたがさすがに目刺しの味ではなかった。「もう行かなくって良いか」と菜穂子は街灯に瞳を揺らしたとき、俺は菜穂子を両手の中に包み込んだ。
「行く。探さなあかんもん思い出したから」
「……くさいで、私」
鼻を菜穂子の肩付近に近付けた俺に、「嗅ぐなや!」と急に関西弁になった菜穂子に膝蹴りされた太腿はすぐに2発目を欲した。
「ちゃんと匂わな、分からへんもん」
俺、キモいなと思った。でも、何より、とにかく玉突きさんに弁償せな、と思い、言葉にもした。ネットで調べても、6番だけではさすがに売ってへんかったし、とにかく、公園には行こう。
(了)