結
アンデル様と同じ魂、デルタ様。
私は150年待った。
メイドとして、ずっと変わらずこのお屋敷で働いて。
そして、やっとアンデル様が、デルタ様がお生まれになった。
おむつを替え、哺乳瓶でミルクをあげて、お世話した。
いつアンデル様だった時のことを思い出してくださるかしら?
いつアンデル様になるのかしら?
同じ魂を持つ人間、それがどんな風なのか、全く理解していなかった。
デルタ様の瞳はアンデル様と同じ深緑色。
髪の色は……分からない。出会った時、アンデル様は既に50才を超えていらして、髪は綺麗なグレーだったから。
デルタ様は成長なさる。
首がすわって、寝返り、ハイハイ、お座り、掴まり立ち、つたい歩き、たっち、一人歩き。
あー、うーの喃語から、2語、3語と単語が増えて、言葉が繋がり、会話になって。
人間の成長はあっという間。
そして気付けば学園に入学され、背はぐっと伸びて、いつしか自分は追い抜かれていた。高かった声も低くなり、自分の目と同じ高さにある喉仏にドキリとした。
デルタ様は赤ちゃんから幼児になり、少年になり、今はちょうど、少年から青年になるくらい。
もうすっかり、男性で、異性だ。
デルタ様の深緑色の目に見詰められ、私は自分の愚かさを恥じる。
150年も経って、やっと今更気付く。
デルタ様はデルタ様であって、アンデル様ではないのだと。
同じ色の瞳に同じ魂でも、根から伸びた茎や枝木、葉は一緒じゃなかった。
ふとした表情、しぐさ、喋り方が似ていると思う時もある。
でもやっぱり、坊ちゃんは紛れもなく坊ちゃんであり、それはアンデル様ではなく、デルタ様だった。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
坊ちゃんはお優しい。
アンデル様だった時のことを思い出してほしくて、早くアンデル様になってほしくて、私は坊ちゃんに沢山のお願いをした。
坊ちゃんは嫌そうな顔をしながらも、丁寧に一つ一つ、ちゃんときいてくださった。
アンデル様とウタ様の姿を映し出す「もわもわの輪」は何度も何度も何度も見せた。
でも、坊ちゃんは何も思い出さない。
魔女子謹製スペシャル闇煮込みスープ。
吐きそうになるのを耐えながらも坊ちゃんは毎回完食。(全部食べてから嘔吐することはあったけれど)
でも、坊ちゃんは何も思い出さない。
坊ちゃんの魔女子による魔女子の為の全身ツボ押しマッサージ。
ベットの上に坊ちゃんを横たえて、ツボ押しに明け暮れた日々。
アンデル様にかつてそうして差し上げたように。魂の奥底に眠るかもしれない身体の記憶を思い起こさせたくて、力と愛情を目一杯込めてツボを押した。
刺激による痛みに顔を歪ませる坊ちゃん。時に坊ちゃんの口から漏れ出す声にならない声と荒い息。自分の胸が何故だかワシワシ鷲掴みにされたみたいに苦しくなり、自分の身体の奥が何故だかウズウズ疼いて足をじっとしているのが辛くなっても、私は黙って坊ちゃんを指圧し続けた。
それでも、坊ちゃんは何も思い出さない。
そんな日々を過ごしながら、今から約半年前、坊ちゃん15才のある日、私は坊ちゃんに、ずっと不思議に思っていたことを訊いてみた。
「坊ちゃんは何故こんなにもわたくしに協力してくださるのですか?」
だって、坊ちゃんは何一つ思い出していないのに。
私を孫のようだと可愛いがったアンデル様にはまだなっていないのだから、坊ちゃんはデルタ様のまま。幼い頃からお世話している私を母のように姉のように慕い、懐いてくれているとは思う。それにしたって、不味いスープに痛いマッサージはきっとお辛いだろうと思うから。
「魔女子と一緒にいたいから、かな」
優しく目を細め、柔らかい表情の坊ちゃん。
「不味いスープを飲まされて、痛いツボを押されても?」
「その間、魔女子は仕事をせずに俺の側にいるだろ?」
変わらない細められたままの目。でも、深緑色の瞳が少し意地悪そうに見えた。
「うっ……、でも、ちゃんと与えられた仕事はきっちりしております」
チクッと、軽い攻撃混じりの答えを返されてしまったので、可愛い反撃(嫌がらせ?)を試みる。「仕事をせずに」と言われ残念に思うけれど、今この時も、せっかくお勉強休憩中の坊ちゃんと一緒にいるのだから、頑張って思い出していただかないと。
「……ほら、坊ちゃん。アンデル様とウタ様ですよ」
「もわもわの輪」にもわもわっと現れた仲睦まじい二人の姿を見せる。坊ちゃんは嫌そうに顔を引き攣らせながらも、もわもわな二人を深緑色の瞳でじっと見詰める。
でもやっぱり、坊ちゃんは何も思い出さなかった。
それからしばらく経ったある日、坊ちゃんが高熱を出した。
お勉強の合間にお付き合いいただいた、幻覚キノコ&微毒キノコ(主に利尿作用)&恋する色濃い鯉のウロコ入りキノコスープがよくなかったのかもしれない。
ベットで眠る坊ちゃんのおでこに手を触れる。
体はとても熱く、水滴のような汗が浮き出て、肌はしっとりべったり湿っていた。
「……魔女子?」
弱々しい声だけれど、坊ちゃんが私を呼んだ。
微睡んでらっしゃるのだろうか。
清潔なタオルを氷水で濡らして軽く絞り、そっと坊ちゃんの顔に当てていく。
顔と顔の距離が近過ぎたのかもしれない。
私が坊ちゃんの顔を覗き込むような体勢になってしまっていたから。
坊ちゃんの左腕が布団の中からニョキっと伸びて、開いた手が私の頭にポンッと乗った。
そして、ふんわりと包み込むように、優しく温かい手が私の頭を撫でた。
「……アンデル……様?」
その手の平の懐かしさに、私の口から思わず言葉が漏れた。
すると、手はまるで固まったみたいに、私の頭の上でピタリと止まった。
「……アンデル様?……坊ちゃん?」
声は少しも返って来ない。
代わりに、強い力が私の頭をグッと下に押さえつけた。
ゴンッ
痛っ……
おでこ同士がぶつかって、鼻と鼻も当たって、坊ちゃんの顔に自分の顔が重なっている。
私の心はあわあわ慌てた。
顔をどかさなければ、と思うのに、頭を強く押さえられていて身動きが取れず、更に私は心中であわあわ慌てる。
そんな、あたふたする私の唇を、坊ちゃんが噛み付くように塞いだ。
「!?……ッン……………………っ…………んっ…………」
熱い体に熱い呼気。
頭を押さえる手はゆるまない。力強い、男の人。
「魔女子」
一瞬唇が離れ、私を呼んだと思ったらまたすぐに塞がれた。
どれくらい時間がたったのか、私が鼻呼吸を極め、もがくことも考えることも諦めたくらいになって、気が付くと坊ちゃんの手はただ乗っかるだけになっていた。
坊ちゃんはまた深く眠ったようだった。
アンデル様……アンデル様は……あんなこと、こんなことは絶対になさらない。だって、私を呼んだから。ウタ様ではなく、私を呼んだから。
そう、私を呼んでくださった。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
アンデル様をずっとずっと好きだった。
150年待つことを即決し、実際150年待ち続けられるくらい、アンデル様のことがずっとずっと大好きだった。
なのに。
一途なはずの魔女の愛はいつの間にか形を変えた。
アンデル様を想う気持ちは思い出に変わっていき、坊ちゃんを、デルタ様を想う気持ちばかりが日増しに募っていく。
坊ちゃんが16才を迎えた日の朝、私は髪色を変えなかった。
わざと結わずにおろしたままの長い髪。
首元のリボンは少しゆるめて、ボタンを3つ開けてみた。
いつもの真面目な魔女子をちょびっとだけ辞めて、デルタ様への色仕掛けを始めた。
デルタ様は受け入れてくださる?
アンデル様を想う私は今の私じゃない。
アンデル様にウタ様を裏切らせようとする私は、本当の私じゃない。
坊ちゃんを、デルタ様を想う私が、今の本当の私。
デルタ様は、デルタ様を恋慕う私でも、いつかみたいに求めてくださるかしら?
私がアンデル様ではなく、デルタ様を望んでいると知っても、いつかのように私を女として求めてくださるかしら?
魔女の想い、魔女の恋する気持ち、愛する気持ちはきっと人間のそれよりもずっとずっと重いから……。
デルタ様にとって、デルタ様を想う私は重い?
拒まれたら……受け入れてもらえなかったら、私はまた1人で待つのだろうか?
アンデル様と同じ魂で、デルタ様と同じ魂を持つ人間の生まれ変わりを。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
今日もまた、私はベットで眠るデルタ様を起こす。
「坊ちゃま、お早うございます。今朝も晴れて、とてもよいお天気ですよ」
部屋のカーテンを一気に開け、私は窓を全開にする。
高級羽毛布団からデルタ様がまだ眠そうな顔を少し覗かせた。どうにか開けた薄目を瞬いている。
今日の私は真面目に働く。
首元まできっちりボタンを止めたレースの白いブラウスに、襟の前には水色のリボン。その上に着た膝下丈の黒色のワンピースはこの家のメイド服。腰まである長い黒髪は後ろの真ん中で大きな三つ編みに。メイドとして慎ましくあるように、化粧は最低限に留めている。
「んー」
そう言ってデルタ様が両手を上に伸ばす。
ぐーっと、伸びーっと上に真っ直ぐ伸びた両腕は何故かそのまま、凍った湖でのス◯キヨの両脚のようにベットと高級羽毛布団の間から突き出している。
まだ眠たくて甘えてらっしゃるのかしら?
引っ張って起こして差し上げようと、私はベットに近付いた。
けれど……
「?」
強い力で手首を握られ、ぐいっと体まるごと引っ張られ、一瞬でベットに引き込まれた。と思ったら、景色が反転する。
握られた手首がじんと痺れる。
覆い被さるのは自分よりも大きな体。
顔の上には、眩しそうに目を薄く開け、悪戯っぽく笑うデルタ様。
「お早う。好きだよ、魔女子」
「!?」
想定外の状況と思いがけない言葉に、私は驚き戸惑ってしまう。
デルタ様は普段眠りが深く、朝に弱い。その為、色仕掛けの先制攻撃をするのは常に私であって、逆にデルタ様から仕掛けられたことは無かった。(以前高熱だった時と、先日の上空でのことは……別として……)
私は幾らか混乱しながら、どうにかいつもの言葉を口にする。
「ウタ様が……。アンデル様が……ウタ様よりも、私を選んでくださる? ウタ様がどれ程ご傷心なさるか……」
いつもなら挑発するように微笑んでみせるのだけれど、あまりに急なことで、きっと顔が笑えていない。
そのせいだろうか?
いつもと同じ遣り取りのはずなのに、デルタ様のご様子が今日はどこか違った。
先程までの、にこやかだったデルタ様の笑みはスッと引いて、深緑色の瞳が一気に温度を下げた。
私を冷えた瞳で見詰める。
「アンデルは……お前を選ばない」
今……何て……?
デルタ様が私の目を射抜くように真っ直ぐ見て、冷たく言い放つ。
「アンデルは、お前を選ばない」
二度……。
アンデル様は……デルタ様は……私を選んでくださらない……?
急にピントが合わなくなって、直ぐ上にあるデルタ様の顔が幾重にもぶれて、ぼやけて見えた。
デルタ様は……私を選んでくださらない……。
でも、それなら今の状況は何?
組み敷かれたこの状況は?
求めてくださったのではなく?
でも……デルタ様は私を選ばないとおっしゃった。
あぁ、そうだ。やっぱり私はいらないのだ。
私は誰にも求められない。
私は求めてもらえない。
アンデル様がそうだったように、デルタ様もそうであるように。
じっと私を見るデルタ様の瞳が少し揺れた気がした。
ぼんやり見えるデルタ様の顔は少し悲しそうに、泣きそうに見えた。
デルタ様の手がゆっくりと動く。
デルタ様の手の動きはスローモーションのようにゆっくりで。
また……頭を撫でられる?
いつもアンデル様がそうしたように。
女としては見られないのだと諭すように。
私の愛をなだめるように。
パシッ
ぼーとした私の頬を、力のこもったデルタ様の手が勢いよく挟み込んだ。
男の人の手。熱が伝わる温かい手。
深緑色の瞳は再び力を持って、横たわる私を真っ直ぐに見た。
「俺が、お前を選ぶ」
選……ぶ……?
「俺が、お前を選ぶんだ」
……選んで……?
「他の、誰でもなく。爺さん、婆さんは関係なくて。俺が、お前を欲しい。俺が、お前を選ぶんだ」
真っ直ぐな深緑色の瞳は私を見下ろしたまま。
私は突き刺すように鋭いデルタ様の瞳から目をそらせない。
アンデル様と同じ魂、同じ色の瞳。柔らかで心地よい空気。
でも全てデルタ様。
私が今、恋慕う、デルタ様。
私が愛するデルタ様。
私は……。
私も……。
……でも、今は……
……そう、今は……
「坊ちゃん、遅刻してしまいます!」
「この状況で? 俺、こんなに頑張ってるのに」
「時間が押しています」
「俺、ちゃんと自分の気持ちを言ったんだけど」
「急ぎましょう」
「魔女子、好きだよ」
「っ今は……そんな話をしている場合ではありません」
「そうだな、遅刻は駄目だよな。分かった。なら、続きは夜で」
「はい、急いでお支度なさってください」
「続きは夜かぁ」
「……話の……続き?」
「……ん?」
「……え?」
広く高く晴れ渡った青空を、寝坊助なデルタ様を箒の後ろに乗せ、私は学園まで急ぎ飛ぶ。
途中、デルタ様が私のお腹の肉をモミモミ揉み出したけれど、返す言葉が見付からなくて、モミモミ揉まれ続けた。モクモクした雲一つ無い空の中、私は黙々と飛行を続けた。
学園が見えた。
高度を下げ、速度を落とし、ふわりと地面に着地する。
「有り難う、魔女子」
そう言って坊ちゃんは箒から降りようとしたけれど、制服のボタンに私の三つ編みが引っ掛かり、ピリリと後頭部の頭皮が痛んだ。
「ごめん、魔女子。ちょっと待って………………あ、取れた」
ほっとして振り向くと、思ったよりも近くにデルタ様の顔があった。
首元の水色のリボンを引っ張られる。
いつかの出来事のように、噛み付くようにしてデルタ様が私の唇を吸う。
「…………………………………………ふぅ。っんじゃ、行ってきます」
「……っ……行って……らっしゃい……ま、せ………………デルタ様」
デルタ様が驚いたように深緑色の瞳を一瞬大きく見開いた。
そして、その後にっこり微笑んでくださった。
箒で空高く舞い、学園内に入っていくデルタ様を遠くから見送る。
ぼさついてしまった三つ編みを片手でほどき、癖がついた黒髪を手櫛でとく。
髪をすくい、指でとき、髪をすくい、また指でとき、広がった長い黒髪は次第にミルクチョコレート色に戻っていく。
まだ遠くに、小さく見える。
私の愛する人、大好きな人。
「行ってらっしゃいませ。デルタ様」