経済とは酔っぱらいの戯言か? 落語『花見酒』
(* ̄∇ ̄)ノ 奇才ノマが極論を述べる。極論だぞ。
経済というのは難しい。なんだかややこしい。
一方で経済も政治も、人の頭から出てきたものではある。自然にできたものでは無く、多くの人が関わりできた、人工のものである。
それが難しいというのは、やってる奴等が『俺達、高尚で難しいことやってんだぜー』と、自慢したいが為にわざと難しくしてんじゃなかろうか? なんて邪推したりもする。
かけ算の九九も出土した木簡を見ると、九かける九から始まり九かける八、九かける七と数の大きい方から順に書かれていたりする。
九かける九から始まるから九九と呼ばれるようになったという。
これは計算ができる人は頭の良い高貴な人である、という背景があったりする。九九も簡単な一かける一から、一かける二と順にすると、憶えやすく解りやすい。そうすると九九が広まり計算ができる子が増えてしまう。今ではそちらの方が都合が良いと、算数で九九は一かける一から始まっている。
身分の低い人に計算上手が増えると為政者が『俺達賢い』と言えなくなるし、誤魔化しができなくなって困る。それで、わざと難しく解りにくい九かける九からスタートしている、という話がある。
いやまあ、昔から小賢しい奴等が愚者を騙してこきつかったり奪ったりするのが、政治と経済の基本と言われてしまえば、それまでの話なんだが。
そんな経済の一面を分かりやすく風刺したのが、落語の『花見酒』
1962年、笠新太郎の著書『花見酒の経済』が、高度経済成長時の日本の経済を、落語の花見酒に例えた。
最近ではアベノミクスでも、この花見酒を引っ張り出されたりする。
改めてこの落語の『花見酒』を聞いてみると、おもしろい。
落語の花見酒は二人の酒好きの男の話。
この二人、大の酒好きの江戸っ子で金があれば酒を買って飲む。そして酒屋にツケを溜めている。ツケを払うあては無いが、酒を飲む金をなんとか稼げないかと考える。
「向島のあの辺り、桜が綺麗に咲いてるけどよ、あそこに茶屋はねえんだ」
「兄貴よう、茶屋が無いから花見に行った奴は、花だけ見て帰ってんのかい?」
「だからよ、俺達があそこに酒を運んでよ、一杯五銭で売りゃあ、一稼ぎできるってもんよ」
「兄貴、天才だあ!」
この落語は湯飲み一杯が五銭だったり十銭だったりするが、細かいところは省いて。
この男二人が酒屋から三升の酒をツケで買う。稼いだ金でツケを払うという約束で。これでツケを返した上に儲けが出たら、その金で酒を買って飲もうという計画だ。
桜の花が満開の名所、向島へと、男二人は酒樽に棒を通して肩に担ぎ、えっほえっほと進む。
ここで後棒を担いだ弟分が言う。
「兄貴ぃ、さ、酒の匂いが、たまんねえよう」
「バッカお前、この酒は売りもんだぞ?」
「じゃ、兄貴、俺に一杯売ってくれよ」
「ん? そうか、売りもんなんだから、金払って買って飲む分にはいいのか」
で、弟分は兄貴に五銭払って湯飲みに一杯の酒を飲む。
「うめえー! たまんねえ! こいつはいい酒だ!」
「お前が後棒じゃ酒が無くなっちまう。お前が先棒で、俺が後棒な」
「あいよー」
弟分が先棒に、兄貴は後棒に、再び酒樽担いで歩き出す。
「くああ、後棒だと酒の匂いがたまんねえなこりゃ! 酒樽の上を通った風が俺の顔にふわりとよう!」
「そうだろ兄貴、いい匂いだろ?」
「こりゃ辛抱たまらん。俺も一杯」
「兄貴、この酒は売りもんだぜ?」
「大丈夫、買えばいいんだ。ここにさっきお前から受け取った五銭がある。これで一杯売ってくれ」
そして兄貴は弟分に五銭払って、湯飲み一杯の酒を買う。ぐいっと飲む。
「うわ、これはいい酒だ。空きっ腹にずんと来やがる」
酒を飲んで気分が良くなる男が二人。
ここまで来ればオチは読めるだろう。
五銭の金は兄貴分と弟分の間をいったり来たり。その度に酒は一杯ずつ売れ、二人の酔っぱらいはどんどん気分が良くなっていく。
すっかり酔っぱらった二人が、到着した向島で酒を売ろうとすると、既に酒樽の中身はすっからかん。
「兄貴! 酒が全部売れた! 売り切れだ!」
「おお! 三升全部売れたか! こりゃかなり稼いだろ。いくらになった?」
「三升の酒を売り切ってー、売り上げはー、じゃじゃーん! 五銭!」
「なんでだよ! 三升売って五銭ぽっちって、そんなバカな話があるもんかよ!」
「なんでだろ? まず俺が兄貴に五銭払って一杯飲んだろ? 次に兄貴が俺に五銭払って一杯飲んでー」
「なんだ? 五銭の銭が俺とお前の間を行ったり来たりしているうちに、俺達二人で三升全部飲んじまったのか?」
この落語の花見酒を経済への警鐘として、笠新太郎の本『花見酒の経済』が出版されたのが1962年。身内で資本と金を回し、それで儲かったと喜ぶ危うさを、花見酒経済と例えた。
この本はのちの1973年のオイルショックを予見した名著と呼ばれた。
これは現在も変わらない。経済には常にこの花見酒のような危うさがある。江戸時代の落語は、時代が変わっても変化しない経済のバカバカしい部分を笑いのネタにしている。
消費が増えると景気が良くなる。というのはこの兄貴と弟分の間で五銭の金が行ったり来たりするのが早くなることと同じこと。二人が酒を飲むペースが早くなることと、消費の増加は同じこと。
で、二人が酒を飲んで気持ちよく酔っぱらったのが、景気が良くなった状態。売った、儲けた、買った、呑んだ、と調子良く売り買いすることで、商売が活発になる。
五銭の金があっちに行ったりこっちに来たりして、その度に酔いが回る。あぁ、こいつは景気がいいや。
酒樽の中の酒が資源。この資源を勢い良く消費して、酔っぱらいが更に気持ちよくなることを、景気が良いと言う。
そして酒樽の酒が底をついたとき、二人の手元にあるのは空の酒樽と五銭だけ。
この状況にやっと気がついて、ありゃ、三升売って売り上げは五銭だけ? あぁ、これじゃ酒屋のツケが払えねえな、あっはっは。
そして酒が切れて酔いが覚めることを、バブル崩壊とかリーマンショックと言う。
うん……、経済って、アホか?
酔っぱらって先のことを考えられなくなることを、景気が良いと言うのか?
経済学とは、酔いが覚めないように、いつまでも酔っぱらいが酔っぱらっていられるようにするための学問か?
ところがこの花見酒経済を、あった方が良い、という説もある。
二人の江戸っ子が自分達で酒を呑み尽くし、借金を増やして手元には五銭しかない。
しかし、これでも俯瞰して見ると、三升の酒の分量、GDP、国内総生産は増えている。
現代に合わせて言うと、例えばワンカップ五百円で酒を売り、三升の酒がトータルで二十万円で売れる見込みだったとする。
兄貴と弟分は自分達で酒を呑み尽くし、手元にあるのは五百円玉一枚と、三升の酒の分の酒屋への借金。
しかしこれでもGDPは二十万円分増加することになる。
GDPとは最終消費物の販売価格の合計。これは、生み出された付加価値の合計。
兄貴と弟分は『酒を湯飲みに注いで手渡す』というサービスを提供した。
このサービスの最終消費の総額は、兄貴と弟分が酒を飲んでも、本来の売る対象の花見客が飲んでも、どちらも同じことになる。つまり二十万円の合計販売価格になる。
結果、二十万円分、経済成長したことになるのだ。
兄貴と弟分は、二十万円分の酒を五百円で手に入れて、二十万円分の『酔っぱらって気持ち良くなった』という財産を得たことになる。
たとえ手元にあるのが五百円玉と酒屋のツケだけだったとしても。
これが経済学の考え方で、説明されても、なんだか狐にでも摘ままれたような気分になる。
経済に詳しい人の中には、この落語の花見酒のように、後先考えずに借金で酒を買い、酔っぱらう人が増えることで内需が拡大する、という人もいる。景気が良くなるので、皆で借金して享楽的に使いましょう、となる。
これはこれで間違ってはいないが、景気が良くなった後で、破産する人も増えそうな。
二人の江戸っ子は酒屋のツケも払えない。酒の売り上げで金を返す約束で、酒屋からツケで買った三升の酒も、二人で呑み尽くしてしまった。この借金、どうすんだ?
「大丈夫だって」
何が大丈夫だ? この酔っぱらい。
「商品貨幣論ならよ、借りた金は返さないといけねえけどよ、信用貨幣論なら、借りた金は返さなくともいいんだとよ」
はあ? じゃあ、お前の酒屋のツケは誰が払うんだ?
「知らねえよ、そんなの。俺の知らない未来の誰かだろ? つまり、皆で金を稼いで、その金で酒を買ってよ、皆でよっぱらっちまえば景気は良くなるって寸法よ」
あのな、日銀と政府で金と国債のやり取りして、それで景気がいいやって言ってるのは、花見酒経済なんじゃないかってことなんだよ。後に何も残らず、資本を身内で回してるだけで、借金増やしてんじゃないかって。
「ま、それでも金を稼げりゃ、さらにもう一杯呑めそうだろ?」
そうやって、目先の金さえ稼げりゃいいってことで、売れる木材だからって山に杉ばっかり植えたんだろが。それで杉花粉が異常に増えて、花粉症になる人がやたらと増えたんだろうに。
やらなくてもいい公共工事をやり過ぎて、昔は何処でも見かけることができたメダカが、今じゃ絶滅危惧種だ。金儲けの為に何をやらかしてんだ。
「別に、金が稼げりゃ、メダカくらい絶滅してもいいだろ?」
ひとつの動物種の絶滅が環境に与える影響は未知だろが。ニホンオオカミが絶滅して、今じゃ農家は、天敵のいなくなったシカとかイノシシの獣害に困ってるっていうのに。
「お、それならそれで、獣害に困るのが増えりゃ、獣害対策でひと儲けできそうじゃねえか」
あぁ、経済学者は環境問題を考えることはできない、とはこのことか。
「あのな、環境問題なんて、そんな小難しいこと言ってたらよう、気持ち良く酔っぱらえねえじゃねえか」
もう黙れ、この酔っぱらいが。
「いやだねえ、これだからシラフの奴は、怒りっぽくていけねえや」
景気というのは国民の気分でも変わる。後先のことを考えない酔っぱらいが増え、皆で返せない借金で酒を呑むのも、景気が良いということになる。
一方で膨大になった国の借金というのもある。経済に詳しい人は、この国の借金は国民が返す必要は無いと説明する。
だが、返せない借金を抱えた国の一員である、というのは消えない亡霊につきまとわれるような不愉快さがある。
借金を返さなくて良い、というのも、まるで開き直った詐欺師が捏ねる屁理屈のようで、胡散臭くて騙されたような気分になる。
これは経済に詳しい頭のいい人がどれだけ説明しても、この1000兆近い借金のある政府、という雰囲気は簡単には変えられない。
こういうことを書けば、経済を知らない奴と怒られそうだが。
しかし、借金という言葉に負のイメージがある以上、膨大な借金のある国、という雰囲気を国民全員から払拭するのは難しいのでは無いだろうか。
経済の根本は、労働と分配である。
返せない借金を前提とした時点で、先行きが暗くなるは当然の帰結なのかもしれない。借金があると聞いて明るくなれる人はあまりいないだろう。
そして景気が悪いと感じるひとが多い、今の時代とは、浮かれた酔っぱらいが減り、未来を考える賢い人達が増えたからなのかもしれない。