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芋虫

作者: わたる

緑多き郊外の住宅街。そこに溶け込むように建つ築十五年のマンション三階の一室。やや錆びてきているその扉を、僕は躊躇うことなく開く。


「ただいま」

「おかえり」

すぐに返事がリビングから聞こえてきた。明かりさえつけない室内。そこには僕の、

「・・・美嘉、何してるの」

血のつながった双子の姉がいる。

「あ、祥くん。ごめんね、ちょっと着替えを練習してみたくて」

狭いリビングには、白いパジャマが広がっていた。それに埋もれるようにしている、肉塊。

四肢のない、僕の姉。

美嘉には生まれつき、右手と両脚が生えていない。左手さえ肘のあたりまでしかない。先天性四肢欠損症というものだと母は言っていた。

「それで?だから片付けられもしないのに、こんな風にしたのかよ。いいご身分だな」

僕は床に散らばった布を踏みつけた。案の定、姉さんは心底申し訳なさそうに眉を下げる。

「ごめんね、祥くん。そんなつもりじゃ、なくて」

姉さんに悪気はない。生まれてこのかた誰かの介護なしには生きてこられなかった。姉さんはそれを負い目に感じている。こんな重度の障がい者なのだから、開き直ってしまえばいいのに。。

「ごめん、ごめんね。私、何も出来ないのに」

「そうだよ、お前は何も出来ない」

僕は人類の最底辺に位置する屑だ。

「ほんと、美嘉ってなんで生きてるの?ねえ。毎日世話してる僕の苦労とか考えたことあるの?面目守りたい兄さんには悪いけど、やっぱり死んだ方がいいんじゃない?」

姉さんは床に転がったまま、はっと目を見開いて僕を見た。それからすぐにまた悲しそうな顔になる。

「でも、私少しでも祥くんに迷惑かけたくなくて・・・」

芋虫のように這いずることしかできない姉さんを、僕は少しだけ力を入れて蹴った。

「うるさい、黙ってろ」

「う、ぐっ、ご、ごめん…」

爪先に一瞬めりこむ柔らかい脇腹と、感じる軽い体重。両手足のない姉さんは、僕にでも簡単に吹っ飛ばされてしまうのだ。ぞくりと背筋が震えた。僕はこの瞬間、姉さんを支配していて、姉さんの世界には僕しかいない。


僕は、姉さんが好きだった。いや、すでにそんな場所など通り越していた。

僕は、この血の繋がった双子の姉を愛している。家族としてではなく、一人の肉欲的な愛を向ける対象として、彼女を見ている。


どうにかして起き上がろうとしている姉さんの長い髪がさらりと翻った。僕たちは似ていた。わかっている。僕は屑だ。もはや人間ですらないかもしれない。

こんな愛し方が、狂おしい程好きだ。

姉さんは電気もつけない部屋で僕を待つ。毎日することもなく街をふらついている僕を。そしていくら罵られても、暴力を振るわれても、綺麗なひどくかなしそうな瞳で僕の名前を呼ぶのだ。そう、二人しかいないこの世界で。




僕達は、かつて幸せな家庭にいた。

なかなかいいポストにつき、それなりの収入を得ていた父。姉さんの介護をしつつ自宅でデザイン系の仕事をしていた母。歳が随分離れた兄は自立して東京に出ていたが、まとまった休みには必ず帰ってきた。姉さんの重い障害に屈せず常に笑顔でいた母の影響でみな明るく優しく、僕はそんな家庭が好きだ・・・のだと思う。

崩れるのは一瞬だった。

父と母が、八年前に交通事故で死んだ。二人きりで残された僕達は、一人東京に出て働いていた兄に厄介者として扱われるようになった。忙しい兄は、姉さんの面倒を見ることを特に嫌がったのだと思う。

兄は世間の目を気にするたちで、僕達を施設に入れようとはしなかった。しかし家に帰ってくることはなくなった。

僕は兄に、銀行の口座引き落としの方法を教えられた。そこには今でも定期的に生活費が振り込まれる。僕はその日が来ると銀行に行って、半分だけそれをおろす。一戸建てから狭いマンションに移った僕らにそれほど多額のお金は必要が無いのに、最近また昇給したのか兄は額を増やした。罪悪感なのだろうか。なんの?兄は両親が死んだ時、まだ十六だった僕に、なるべく連絡はしてくるな、と目をそらしながら言った。身内に片割れが重度の障害者の双子がいることを、知られたくなかったのだろう。その時僕は、ああ兄さんはどこかで、姉さんのことを気味悪いと思っていたのだなと悟った。



幼い頃、僕はまだ双子の姉が障がい者であることをあまり理解していなかった。五歳頃になると、流石に姉さんと自分との体の違いについて気をつかうようになった。

それでもまだ、しっかりとは理解できていなかった。

ある日、父と兄が外出していたとき。母は確か洗濯物を干しに二階のベランダへ行っていたのだ。リビングで僕は絵を描いていて、姉さんはソファで横になっていた。僕は紙を切ろうとハサミを取り出そうと引き出しの一番上を背伸びして開けた。いつも使っている子供用のハサミではなく、父さんが使っているかっこいいハサミを不意に使いたくなったのだ。

手探りでどうにかそれを見つけ、引っ張り出した瞬間、僕はそれを自分の足に落とした。切れ味のいい鋏は足の甲にざっくりと大きな傷を残した。僕はわっと泣き出した。それに驚いた姉は、「祥くん、どうしたの」と言った。それで僕が怪我をしたのを見つけたらしい。必死になって僕の方に這いながら、母のことを大声で呼んだ。ソファから自分から落ち、姉さんは僕の隣に来て、慌てた母が血相を変えてやってくるまで「大丈夫、大丈夫?」と心配し続けていた。

その日の記憶は強烈なものとして脳裏に焼き付いている。初めて姉さんと僕は一生同じ生活を送ることはないのだと悟ったのだった。

「手が欲しいよ。泣いてる祥くんをよしよししたいよ。お母さんを呼びに行きたかったよ。なんで私には腕も足もないの」

応急手当をしたあと念のため病院に向かう車の中、最終的に僕よりわんわんと泣き出した姉さんの頭を、悲しそうに眉毛を下げて母は撫でていた。

僕はそんな姉さんを見て、心がいっぱいになったのだ。幼いながらに、初めて人を好きになったのだ。・・・実の、双子の姉を。

姉さんは常に介護を必要とした。一本の指すら生えていないのだから、当然である。しかし、僕の通っていた中学校と高校にはそれぞれ障害者クラスがあり、強い希望で姉さんはそこに通っていた。その頃になると「学校では会っちゃっても挨拶はしないでね。姉弟だってわからないようにしようね」と姉さんは言った。どうやら自分のせいで僕がいじめられるかも、と考えたらしい。

僕はそんな姉が嫌だった。その頃にはとっくに恋心は熟しており、僕は思春期の男として正常な欲を彼女に対して抱くようになっていた。同年代の女子は甘ったるい変な臭いをいつも漂わせ、甲高い声でいつも何か叫んでいて、僕にはそれが耳障りでたまらなかったのだ。その中で姉さんだけが、違った。

初めての自慰は、姉さんが母に風呂に入れられているときに、僕が時間を間違って出くわしてしまった日の夜だったと、思う。戻れない。そう感じた。

そのあと間もなく優しかった父さんも母さんも死んだ。まだ二人が生きていれば、違ったのかもしれないね。・・・そんなわけがあるだろうか。

夢の中で、何度も抵抗できずに泣き叫ぶ姉を犯した。しかし最後にはいつも、姉さんは僕を許した。それにひどく吐き気を覚えて、いつも目覚めた。


いいや、僕は例え姉がただのぐちゃぐちゃとした肉塊であってもそれが姉さんであるなら、心の底から愛していただろう。

僕がいないと何もできない姉。誰より僕のことを知っていて誰より僕のことを気にかけてくれて誰より僕のことを信頼していて、誰より僕のことを家族として愛している姉。

ああ、大切にしたい。泣かせたい。殺してさえしまいたい。

そんな勇気がない僕は、姉さんをこのアパートの一室という檻に首輪をつけて閉じ込めている。

「飯、買ってきてやったから」

姉さんの目の前にビニール袋をぐしゃりと投げ落とした。当たり障りのないごく普通のコンビニのおにぎりだ。こんなものでさえ、姉さんは

「・・・祥くん、ごめん。包装紙、とってくれる?」

手を振り上げるふりをすると、姉さんはびくりと体をすくませた。ああ、哀れ哀れ。僕みたいな働いてもいない社会のゴミに、命を握られているだなんて。

「・・・美嘉は僕がいないと生きていけないんだねえ?」

あれ、そういえば僕、姉さんに昼ご飯食べさせてないわ。お腹、空いているんだろうね。そんな様子は欠片も見せないけれど。

「うん・・・私、祥くんが必要」

か細いその声に、ひどく熱を感じた。咎めるものもいないこの空間。僕が神で、支配者だ。






嫌いだった。

姉さん以外のこの世のすべてを僕は憎んでいる。僕たちを蔑み憐み同情するすべてを。

そんな僕が見つけたのは、タンスの中の白い封筒だった。風呂から上がり着替えを探していた時に、それは目に留まった。今まで気づきもしなかったものだった。


二枚のシンプルな白い封筒。

その1枚には懐かしい母の字で、「祥平 へ」と書かれていた。


母だ。

動悸。腹の底にどっしりと紫色の何かが渦巻く。なぜなぜなぜなぜ?今更、死んでから何年経ったと思っている。ふざけるな。

僕にはわかった。そこには、見れば僕を崩壊させるものが示されている。

母さんは優しさの権化のような人だった。体を欠損している姉、心を欠損している僕にでさえきっと、本気で生きている価値があると信じていたのだ。

手紙を開く手が、大麻を吸った時の様に震えた。



祥平、元気ですか。これを見つけるのは何歳の頃かな。タンスの中に入れておいたけど、タンスごと捨ててないかな。それでは、本題に入ります。

美嘉と祥平は、実は奇跡の子なのです。お母さんのお腹にいる子が双子だとわかったとき、お母さんとお父さんはとても喜びました。でも、お医者さんに「この子たちは手足がつながって成長してしまっている」と言われました。ここままだと無事に外に出られずに死んでしまうかもしれないと言われました。お母さんとお父さんは泣きました。毎日必死に祈りました。最悪は帝王切開をしてでも、二人が手足のつながった双子だとしても、産もうと心に決めました。けれど、次の診断ですごいことがわかりました。赤ちゃんの片方から、手足が離れていっているというのです。まるでもうひとりに手足を譲るように、と。そうして産まれたのがあなたたちです。美嘉には手足がないけれど、祥平に産まれる前に譲っていたのです。だから、これから何があっても、祥平、貴方は美嘉を守ってあげてください。




「死ね」


「死ね、死んじまえ!ああ、ああああ・・・あ・・・」

咄嗟に刃物を探した。何重にも折り重なり右手首の蚯蚓のようになった傷がじくじくと疼いて、今すぐにでも切り裂かないと気がおかしくなりそうだった。

あった、剃刀。掴むときに手を滑らせて左手中指が切れた。痛くない。こんなんじゃ、足りない。

「僕、ぼくは」

「祥くん!」

どん、と足に衝撃が走り僕はその場に倒れこんだ。その拍子に左手から剃刀は離れ、床を滑っていってしまった。

「祥くん、祥くん!」

僕に狂ったようにぶつかってきている塊を、ようやく目に留めた。

「ねえさ、」

「ダメだよ祥くん、だめ、やめて・・・」

芋虫のように這いずりながら、姉さんは必死に僕にしがみつこうとしていた。そんな手など、どこにもないというのに。僕の膝に頬をこすりつけて、姉さんは泣いていた。やがて息ができるようになってきた。

「姉さん、なんで」

「・・・祥くん、落ち着いた?」

見上げた姉さんの頬に、また滴が落ちた。おかしい。なんで。

「祥くん、泣いてるんだよ。無理なんてしなくていいんだよ。泣いていいよ」

「嘘だ、ふざけるな」

「嘘じゃないよ、祥くん私の目、見て」

ぐるりぐるりと回っている。吐きそうに頭が痛い。

「私、知ってるよ。祥くんが、私を殴ったり蹴ったりしたあと、泣いてるの」

「・・・!ん、なわけ」

「わたしが、私がこんな体で生まれてきても、祥くんはいつも優しかったよね。今だって、朝起きてから私の介護をしてくれるよね。朝ごはんを食べさせてくれて、歯を磨いてくれて、服を着せてくれるよね」

憐れだ。元々一人として産まれるべきものであった双子。ましてや僕達は融合個体としてこの世に生を受けてもおかしくなかった。

そんな僕を、姉さんはまだ子宮の中にいた時から捨て身で愛してくれていた。

「姉さん、美嘉姉さん」

「久し振りにお姉ちゃんって呼んでくれたね、祥くん」

抱きしめた姉さんの体はあたたかく、やわらかく、このまま抱き潰してしまいそうなほど細く頼りなかった。小さな頃はよく似ていると言われた僕らは、もはや後戻りできないほど大人になっていた。

「祥くん、大きくなったね」

姉さんが呟いた。

「男の子って、運動しなくても勝手に筋肉つくんだね。祥くん文化部だったのに、こんなに大きくなったんだね。でももう少しご飯食べないとダメだよ?」

「姉さん、僕、姉さんが、姉さんに、姉さんのことが」

「わかってるよ、祥くんのことは、私が一番わかってるんだからね」

姉さんは肘までしかない左腕を伸ばして、僕の頭を撫でようとしていた。薬指への拘束程度では足りない。永遠に、お互いに囚われ続ける。これは呪い。


今この瞬間。ここがきっと、世界の果て。




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