第一話 キツネとネコとサバゲーと
木々の隙間から日が差し込む森の中。ピクニックなんかをするにはもってこいの環境だ。しかし、どうして私はこんな事態に陥っているのだろうか。
ある大きな木の根元で、私は一人の女性を抱えて座り込んでいた。
「に、逃げろ……。私は……もう……」
女性は息絶え絶えにそうつぶやいた。直後、女性は激しくせき込み、さらに顔色が悪くなる。
「しっかりしてください、まだ助かりますって!」
私はなんとか女性を励まそうとするが、女性の容体は悪化していく一方のようだ。
「一体どうすれば……」
とうとうこぼしてしまった弱音に続き、周囲から足音が聞こえてきた。
私には他に味方はいない。つまり、この足音は敵のものだった。逃げなくては――そう思った時にはもう遅く、銃を持った二人の男が姿を現した。
男たちはへたり込む私を囲うように立った。逃げ道をふさがれたうえに、こちらに武器は無い絶体絶命――そんな単語が頭をよぎり、私は目を強くつぶった。女性を抱え、ただ震える私に痺れを切らしたのか、やがて男の一人が口を開いた。
「ゲームセットだ、新兵君」
四時間前――。
「えー、であるからして――」
何度目かもわからない校長先生のその言葉に、あくびをこらえながらも耳を傾ける。
周りの生徒の中にはうとうとしている人や、既に夢の世界に旅立っている人もいた。
(入学式くらい頑張れないのかな……)
横目に見ながらそんなことを思う。
今日はここ秋畑高校の入学式。体育館には新入生が集まり、私もそのうちの一人だ。今は校長先生の式辞で、かれこれ十五分以上経っている。ただでさえつまらないのに、同じような内容を繰り返す校長先生の言葉を真面目に聞いている人などほとんどいなかった。
確かに長々とした話で退屈になるのは分かるが、これから高校生活が始まろうという日に寝るのはどうなのか。
「えー、では最後に――」
とうとう校長先生が、誰もが待ちに待った台詞を述べた。もうすぐこの苦痛から解放される、そんな希望が見え始めたとき、私の心に大きな油断が生まれた。
「ふあぁぁぁ……」
頑張っていたつもりだったが、ついに抑えきれなくなったあくびが口をついて出た。長い時間ため込んでいた分、それは大きなものだった。
(ごめんね、みんな。私ももう無理みたい……)
今やみんなと同じ位置にまで落ちてしまった私は、心の中で謝りながら式辞の終わりを待つ。しかし、いくら待ってもそのときがやってくる気配はなく、校長先生の口は絶賛稼動中だった。
なおも解放の時を待ち望むが、残る僅かな期待をあざ笑うかのように瞼は重くなっていった。
そして、それ以降の話が頭に入ってくるわけなどなく、うつらうつらとしているうちに時間は過ぎていった。
「うぅん、やっとおわったよー」
入学式も無事に終えて一度教室へと戻った私は、席に座るなり盛大に伸びをした。
「おつかれ、みこっちゃん」
突然、後ろから声をかけられる。振り向くと、ちょうど声の主が後ろの席に座った。
「ひなちゃんもお疲れ様」
私は長い茶髪を鬱陶しそうに払うその女の子に労いで返した。
彼女の名前は今田雛。朝、私が席に着くなり、後ろから話しかけてきたのがひなちゃんだった。教室には席が五十音順に並べられていて、彼女は私の後ろの席だった。周りが見知らぬ人ばかりで心細かった私を、いきなり救い出してくれたひなちゃんと仲よくなるのに時間はかからなかった。
「もう、校長の話長すぎ……。『えー、であるからしてー』って何回言えば気が済むのあのおじさん」
ひなちゃんが入学式での不満をこぼす。
「あはは……、十回は言ってたよね」
「まあ私は三、四回目でリタイアしてたんだけどね」
「もー、かなり序盤じゃん」
私とひなちゃんが笑い合っていると、担任の先生が教室に入ってきた
「みんな入学式お疲れさん。あと今日はちょっとした話だけして解散だ。よーし、それじゃあ点呼をとるぞ。ん、このクラスはやけに『あ』から始まるやつが多いな。相沢――」
担任の先生が点呼をとり始めたとき、後ろからひなちゃんが話しかけてきた。
「そういえば、みこっちゃんは入る部活動決めたの?」
田舎町に建つ秋畑高校では部活動に力が入れられており、なるべく部活に入るよう勧められていた。
「ううん、まだ」
私は苦笑いとともに返した。
「じゃあさじゃあさ、ちょっと見学したいところがあるんだけど、今日一緒に行ってみない?」
他に興味のある部活があるわけではなかったので、了承することにした。
「うん、いいけど。どんな部活なの?」
「ちょっと珍しい部活なんだけど。ま、それは着いてからのお楽しみってことで」
私の質問に、ひなちゃんは意味深な笑顔を見せた。珍しい部活とはなんだろうか。部活に力を入れている秋畑高校ならではの部活だったりするのだろう。
「なり――」
きっと見たことも聞いたこともないような部活なんだろう。そんなふうに想像を膨らませていると、ひなちゃんが焦ったように声をかけてきた。
「みこっちゃん、呼ばれてるよ」
「ん、何?」
一瞬何のことかわからなかったが、すぐに聞こえてきた先生の声でやっと状況を理解することができた。
「稲荷、いないのか? 稲荷美琴ー」
「え? あっ、ひゃい!」
自分が呼ばれていることに気が付かなかった私は、あわてて返事をしようとして変な声を出してしまった。
「もー、早速恥かいたよー」
私はさっき教室でのこと思い出していた。
「いやいや、あれでみんなの心をつかめたんだからよかったんじゃない?」
と、ひなちゃんがフォローしてくれた。確かにあの後、初日にやらかしてしまった私のもとには大勢のクラスメイトが集まり、いきなりたくさんの友達を作ることができた。人づきあいがあまり得意ではない私にとって、それは嬉しいことではあった。
「でもやっぱ恥ずかしいよ……」
「まあまあ、あんまり気にしててもしょうがないでしょ。ほら、とうちゃーく」
そう言って立ち止まるひなちゃんに、私は目の前のドアを見る。
「……さばげーぶ?」
連れて来られたのは、部室棟の一番奥にあるやや錆びついたドアの前だった。目的の部活と思われるその部室のドアには「サバゲー部」とだけ書かれていた。
(何、鯖? 料理かなんかの部活なのかな?)
私がそんなことを考えていると、ひなちゃんがドアをノックした。すると、部屋の中から「はーい」という女性の声が聞こえた。
「失礼しまーす」
元気な声で言って、ひなちゃんがドアノブを回した。
部屋の中では、私たちと同じ制服を着た女性が一人、パイプ椅子に腰かけて上品に紅茶をすすっていた。
私たちが部屋に入ると、女性はティーカップを目の前の長机に置いてこちらに体を向けた。
「いらっしゃい、見ない顔ね。新入生?」
女性が長くきれいな黒髪を書き上げながら聞いてきた。
「はい、今日は見学させてもらえたらなーと」
部員と思われるその女性に、ひなちゃんが答える。
「へー、女の子なのにうちなんか見学したいの? うれしいけど、ここがどういう部活か知ってるの?」
最初、女性は驚いた様子を見せたが、やがてすぐに怪訝そうな顔になった。それよりもなんだろう、なんか女性の発言に嫌な予感がした。
「もちろんです、私結構興味あるんですよ!」
ひなちゃんがまた元気に答える。
「本当? そういうことなら熱烈大歓迎よ。私は二年の白沢優里、よろしくね」
ひなちゃんの言葉に、女性の表情も元の明るいものに戻った。
「私は今田雛です、よろしくお願いします。ほら、みこっちゃんも」
「あ、うん。稲荷、稲荷美琴です」
ひなちゃんに促されて、私も自己紹介をする。
「あ、立ち話もあれだし、とりあえず座って。パイプ椅子で悪いんだけど」
言いながら、白沢先輩がパイプ椅子を二つ用意してくれた。
「ありがとうございまーす」
「失礼します」
私たち二人が腰を下ろすと、白沢先輩も自分の椅子に座って話し出した。
「えっと、雛ちゃんに美琴ちゃんね。まさかこんな可愛い女の子が二人もうちに興味を持ってくれるなんて。二人とも来てくれてありがとうね」
なんだか私の知らないうちに話が進んでしまっている。
「ちょっといいですか……」
私は恐る恐る手を挙げた。
「あら、どうしたの?」
白沢先輩がこちらへ顔を向けた。
「あのですね。私、何が何だかさっぱりわからないんですけど……」
正直な告白をする。このまま勝手に話が進んで後戻りできなくなってはまずい。
「えーっと、興味持ってくれてたのはこっちの子だけなの? なら、悪いことは言わないから、あなたは早く帰った方がいいわよ。じゃないと面倒なことに--」
白沢先輩が言い終わる前に、部屋のドアが開く音がした。入ってきたのは、学校の制服を着た男性だった。
「うーっす、戻ったぞ。残念ながら収穫はゼロだけどな――って、あれ、この子たち新入生?」
この人も部員なのだろうか。白沢先輩に声をかけながら、他のパイプ椅子に腰かけた。
「あー……。お帰りなさい、部長」
白沢先輩が困ったような顔をして男性を迎えた。どうやら男性はここの部長らしい。
「あ、こんにちは。お邪魔してます」
ひなちゃんが挨拶するのに続いて、私も会釈だけした。
「あれ、まさか白沢さんが戦果を挙げるとは思いませんでした」
そんな言葉とともに、部長さんの後からもう一人制服姿の男性が顔を出した。
「チカ君もお疲れ様」
白沢先輩が男性に労いの言葉をかける。
「それで、この子たちが入部希望者……と」
やけに期待のこもった目で、部長さんが私たちをまじまじと見つめる。
「入ってくれそうなのは片方だけですけどね」
白沢先輩が部長さんに告げる。その言葉に微妙に居たたまれなくなった私は、何か言わなくてはと必死で言葉を探した。
「あぅ……、えーと……」
「ほほう、君か。入部希望じゃない方は」
明らかに様子が変な私に気が付いた部長さんが、あごに手をやりながら声をかけてきた。
「えと、あの、すみません」
なぜだか申し訳なくなった私は反射的に謝ってしまった。
「いやいや、いいって。女子は普通うちには入らないからな」
「それって、私たちは普通じゃないってことですか?」
部長さんの言葉に、白沢先輩が冗談めかしく言った。
「どう考えたって普通じゃないだろ、女のくせに銃が好きとか。揚句の果てに、うちの誰かさんはライフル相手にハンドガンで無双するし。あいつは女……どころか、人間ですらねーな」
と、部長さんが肩をすくめた。
「それ、乾先輩が聞いたら怒りますよ?」
「だからあいつがいないときに言ってるんだろ? こんなこと聞かれたらと思うと――っていうか、あいつはどこ行った?」
部長さんが部室を見渡す。
「乾先輩なら今日はまだ来てませんよ」
白沢先輩から告げられた事実に、部長さんが若干苛ついた様子を見せた。
「なに……ったく、今日は新入生の勧誘するから絶対来いって言ったのによ」
不満を漏らす部長さんだったが、やがて思い出したようにこちらを向いた。
「おっと、身内で盛り上がって悪かったな。それじゃあ部長として当部活動の説明だけさせてくれ」
そう言うと、部長さんは一度咳払いをしてから話し出した。
「それでは、ようこそ新入生のお二人。まずここはサバイバルゲーム部だ」
「さばいばるげーむ?」
聞きなれない言葉に、私は思わず反芻してしまう。
「サバイバルゲーム、略してサバゲー。サバゲーってのは、言うなれば戦争ごっこだな」
部長さんの口から聞こえてきた不穏な単語に、私は不安を感じた。
「戦争って……なんか物騒ですね」
「そんなことはないぞ、戦争ごっこってのはあくまでも言うなればだからな。便宜上、一番手っ取り早くイメージを伝えられるからそう言っているにすぎん。どちらかというと、ゴルフだとかみたいな紳士のスポーツだと言える」
「はぁ……」
よくわからないがとりあえず相槌だけ打っておいた。
「プレイヤーはみな、このエアガンでBB弾を撃ち合って戦う」
部長さんはそう言って、近くのロッカーから一つの拳銃と、透明なボトルにたくさん入った小さな玉を取り出して見せてきた。
「このエアガンにもいくつか種類があるんだが、とりあえずそれは置いといて。撃たれたプレイヤーはヒットコール、つまり大きな声で『ヒット』と言わなくてはいけない。これがいわゆる死亡扱いで、そのプレイヤーはゲームから退場、一切干渉できなくなる」
ここで部長は、手に持っていたものを長机の上に置いた。
「そうやって戦闘を繰り広げながら、ゲームごとに定められた勝利条件を目指すのがサバゲーだ。これで大まかなことは説明し終えたが、何か質問はあるか?」
「あ、じゃあ……」
私が小さく挙手をすると、部長さんがやや前かがみになった。
「おう、いくらでも質問していいぞ」
「ヒットコールしたら退場ってことは、撃たれてもヒットって言わないで生き残る人とかがでるんじゃないですか? 撃たれたかどうかなんて本人以外には分かりづらいでしょうし」
「そう、その通り! だから紳士のスポーツなんだ。自分の負けを自分で認めなくてはいけない自己申告制だからこそ、プレイヤーの質、良心が求められるんだ。いきなりいい質問だぞ新入生!」
「あ、ありがとうございます」
サムズアップしてくる部長さんに、何が何だかわからずお礼だけ言っておく。
「他にはないのか?」
期待に満ち満ちた目で部長さんが私を見てくる。
「それじゃあもう一つだけ」
「お、何だ? また素晴らしい質問をくれよ?」
「あはは、えーと……」
プレッシャーに苦笑いで返しつつ、私は最も気になっていたことを口にした。
「痛く……ないんですか?」
「…………」
私の言葉を聞いた部長さんが突然口を閉じてしまった。
「もしかして痛いんですか、やっぱ痛いんですよね? 撃たれるってことは痛いに決まってますよね!?」
「いや、まあ痛いっちゃあ痛いが。だが安心しろ、痛いといっても『いてっ』くらいだ。確かに、素肌に至近距離で撃ち込まれたら『あいでだだだ!』くらいにはなるだろうがまずそんなことには――」
大げさにジェスチャーをしながら答える部長さんを見て、私は急に怖くなってきた。
「ややや、やっぱり入部は遠慮しときます!」
勢いよく頭を下げる私に、部長さんもあわてた様子を見せた。
「おい、なんでだよ!? 大丈夫なんだって、話聞いてたか?」
「もう、根子部長。怖がらせちゃダメじゃないですか! よしよーし、大丈夫だからねー」
白沢先輩に頭を撫でられる。しかし、私はそれよりも気になることがあった。
「ね、ねこ?」
「ん? ああ、そういえば自己紹介とかしてなかったな。俺はサバゲー部部長の根子壱哉だ」
「ネコ……ねこ、猫…………にゃんこ?」
そのとき、ぶちりという何かが切れる音がした。いや、実際に音が鳴ったわけではなかったが、私にははっきりと感じられた。
「初対面で、新入生で、後輩の女子にまで……」
先輩が若干うつむき気味になる。そんな先輩が気にかかり、私は声をかけた。
「えーと、猫先輩?」
私が名を呼ぶと、先輩はピクリと反応を示した。そして急に顔をあげたかと思うと、そのままの勢いで立ち上がった。
「よし、決めた」
先輩はそう言うと、びしぃっと私を指さしてさらに続けた。
「お前には何が何でも入部してもらう。そのうえで徹底的にしごいてやる。あと猫じゃなくて根子な。アクセントが『ね』じゃなくて『こ』につくからな!」
「ひぃぃぃ、ごめんなさーい!」
だんだんと強くなっていく根子先輩の口調に耐え切れなくなった私は、思わず部室を飛び出してしまった。
「あ、待て! 追うぞ、マサ!」
「はいはい、部長」
稲荷の後を追って、男二人が銃を片手に外へ飛び出した。
「ちょっと、二人とも!」
出ていく二人を追って、白沢までもが部屋を出た。
「みんな行っちゃった……」
一人残された雛は、しばらくどうしようかと考えていたが、やがて何か思いついたように部室の物色を始めた。
「くっ、なんて逃げ足の速さだ。だが、この足は使えるかもしれん。あの新入生、余計に欲しくなってきちまったぜ、ひっへっへ……」
稲荷を追いながら根子が笑う。
「部長、目がちょっと変態っぽくなってきましたよ」
そんな根子に、お供の男がやや引き気味に言った。
「うるせえ! お前は黙って従ってろ!」
「はいはい」
男が呆れたように応える。しかし、根子はそんなことはどうでもいいかのように、男に向かって指示を出した。
「おいマサ、左からまわれ」
「……了解」
その後も何度となく根子が支持をし、それに従う男だったが、その都度稲荷を取り逃がしてしまっていた。
根子の指示に従い続ける男だったが、疲れてきた男はやがて口を開いた。
「二人じゃ無理ですって、このまま追いかけても逃げられるだけなのでは?」
男の言葉に根子はふふんと鼻で笑った。
「お前の目は節穴か? この俺がただやみくもに追い掛け回していたとでも思うのか?」
根子がなにやら自信に満ちた声色で言いながら男を横目で見る。
「違うんですか?」
男が呆れたような目で根子を見る。
「当たり前だ! 見ろ、標的が逃げ込んだ先を」
そう言って根子が指差す方向を見て、男は驚いた様子を見せた。
「あ、あっちは……」
男が声を上げると、根子は自慢げに言い放った。
「そう、我が部自慢の特設サバゲーフィールドだ!」
「裏山をちょっといじっただけですけどね」
そんな男の突っ込みは聞こえていたのかいなかったのか、根子は気にすることもなく余裕の笑みを浮かべた。
「ふふふ、まんまと俺たちのテリトリーへ追い込まれおってからに」
つぶやく根子のもとに、白沢がようやくやってきた。
「はぁはぁ、やっと追いつきましたよ部長……」
「お、いいところに来たな白沢。あの新入生の名前はなんだ」
追いついたばかりで息が荒いままの白沢に根子が尋ねる。
「え? えーと、稲荷美琴だったかと」
「稲荷、キツネ…………なるほど」
白沢の答えを聞いた根子はあごに手をやってしばらく何か考えるそぶりを見せたが、やがてお供の男に声をかけた。
「行くぞ、マサ」
根子は銃を構えると、僅かに口の端をつり上げて言い放った。
「狐狩りだ」
「はぁはぁ、も、もうダメ……」
私は手近な木の根元に座り込み、何とか息を整える。
初めはなるべく人の多い校舎周辺を走っていたはずなのに、気が付けばこんな山にまで来てしまった。
「すー、はー…………ふぅ……」
何度か深呼吸をしてようやく落ち着いてきた私は、木から少しだけ顔を出して逃げてきた方向を確認する。
「あれ? 追ってきてない」
振り切ることができたのだろうか、そこに追っ手の姿は見えなかった。
「はぁ、助かった――」
と、安心した瞬間だった。突然、私は背後から口元を抑えられてしまった。
「むー、むごごがご!」
前触れなく訪れた事態と相手の正体がわからないという恐怖に、私は必死でもがいて抵抗を試みた。すると、そんな私の耳元で囁く声が聞こえた。
「しーっ、静かに!」
聞こえてきた女性の声に、私はピタリと抵抗をやめた。
横目で声の主を見ると、その正体は迷彩服に身を包んだ女性だった。女性はセミロングの黒髪を後ろで束ねて、目には大きなゴーグルをかけていた。
「驚かせてわりいな。手ぇ放すけど静かにしてろよ」
私が頷くと、言った通り女性はゆっくりと手を放した。
「面倒なことになったな、お前も……ぷっ、あはははは! お、お前も、まさかいきなりあいつの地雷を踏むとは……くふふっ」
言いながらこらえきれなくなったのか、女性が笑いをこぼした。
「聞いてたんですか? あの発言、そんなにまずかったですか?」
そんな私の疑問に再び笑いそうになる女性だったが、それをなんとか飲みこみ答えてくれた。
「まずいなんてもんじゃねえ、むしろグッジョブだ。あいつも新入生にいきなり言われるとは思ってなかったみたいだしな」
と、女性が私の肩をたたいてきた。
「なんだかよくわからないです」
「ま、後で機会があったら話すよ。ああ、あたしは三年の乾瑞穂、サバゲー部のエースだ。お前はえーと……美琴だったか?」
「はい、そうですけど。どうして知って……あ、そういえば、さっきの部屋でのことも何で――」
「へへ、実はずっと窓の外で聞いてたんだ」
乾先輩が子供っぽい笑みを浮かべる。
「そうなんですか。でもなんでそんなこと」
「いやなに、新入生の勧誘が面倒だったんだけど、こんな時間に一人帰るのもなんだと思って様子見てたんだ」
そこまで言うと、急に乾先輩の目つきが鋭いものに変わった。
「約四十ってとこか……。美琴、どうやらおしゃべりはここまでみたいだ」
さっき私が逃げてきた方に目をやりながら、乾先輩が腰から拳銃を取り出した。
「ほら、危ないからこいつをつけとけ。絶対に外すんじゃねえぞ?」
手渡されたのは、先輩がつけてるものと同じように両目を覆えるサイズのゴーグルだった。
「何なんですか、これ?」
「弾から目を守るためのものだ。今からここは戦場になるからな」
「え――」
乾先輩は私が疑問に思うよりも早く木の陰を飛び出すと、両手の拳銃を連射しながら別の木の陰へと移った。すると、やや遠くから根子先輩の声が響いてきた。
「まさか瑞穂か、なんでこんなところにいる!」
根子先輩の声はやや驚いていたように聞こえた。
「なんだっていいだろ。そんなことより壱哉、こんな幼気な少女を追いかけまわして何が楽しいんだ?」
根子先輩からの返事はすぐに帰ってきた。
「貴重な新入部員だ。みすみす逃がすわけねーだろ」
「ふん、お前の場合それだけが理由じゃないだろ?」
乾先輩が見透かしたように言うと、根子先輩の興奮した声が聞こえてきた。
「うるせぇな! そいつは俺のことにゃんこ呼ばわりしてきたんだぞ。今までも同じようにからかわれてきたが、初対面でいきなりにゃんこはこいつが初めてだ!」
(うぅ、ごめんなさいぃぃぃ)
心の中で猛烈に謝る私をよそに、再び二人の言い合いが始まった。
「いい加減受け入れなって。いいじゃんか、にゃんこ、可愛くて」
「お前にとってはそうでもな、男の俺にとっては不名誉なだけだ! それに、ガキの頃から散々からかわれてくりゃ、さすがに嫌気もさすわ!」
根子先輩の様子に、乾先輩が溜め息を吐いた。
「まったく、今だって十分ガキじゃんかよ……。どうしてもこの子を見逃すつもりはないんだな?」
「何と言われようと捕まえて入部させる」
ややしばらく、二人の間に沈黙が流れた。少しして、乾先輩が口を開いた。
「……どうやら、交渉決裂みたいだな」
「ああ、そうだな。おい瑞穂、ちゃんとそこのキツネちゃんにゴーグルさせたか?」
キツネちゃんとは私のことだろうか、根子先輩が突然そんなことを聞いてきた。
「もちろん」
答えると、乾先輩はにやりと笑った。
「そうか、なら――」
根子先輩はそこで言葉を切ると、一拍あけてから叫んだ。
「思う存分撃てるってことだな!」
その言葉と同時に、乾先輩目掛けて小さな白い弾が飛んできた。
「へっ、そんなボルトアクションの長物なんかじゃあ、あたしに当てることはできねーぞ!」
乾先輩は次々に木へと移りながら、根子先輩がいると思われるほうへと拳銃を撃つ。先輩の言うとおり、弾は少し間隔をあけて一つずつしか飛んでこなかったためか、先輩はそのすべてをうまくかわしていた。
「お前だって、ハンドガンでこの距離を当てるのは難しいみたいだな!」
根子先輩の言う通りでもあり、こちらからは先輩の姿をはっきりと目視することもできなかった。
「ふん、なら距離を詰めるまで!」
そう言って前に飛び出ようとする乾先輩だったが、私はその奥にもう一つの人影を見つけた。その人物もやはり銃を構えており、その銃口は乾先輩の方を向いているように見えた。
「あ、危ない!」
私の叫びに、乾先輩も人影に気が付いたようだった。
「何っ、トシ、いつの間に!?」
突然姿を現した刺客に驚いてか、乾先輩は一瞬硬直してしまった。
「くっそ!」
乾先輩はなんとか近くの木の裏に飛び込んだ。乾先輩が隠れると同時に、人影のもつ銃から弾が撃ち出された。根子先輩のものと違って大量の弾が降り注いだが、ぎりぎりで姿を隠した乾先輩には当たらずに済んだ。
私も乾先輩もほっと胸を撫で下ろした。しかし、まだ危機は去っていなかった。
「乾先輩!」
新たな人影から身を守るために木の陰に隠れた乾先輩だったが、その場所は根子先輩からは丸見えの角度だった。遠くに嬉々として乾先輩を狙う根子先輩の姿を確認した私は叫んだが、そのときにはもう遅かった。
「もらったぁぁぁ!」
根子先輩の声ともに、銃口から弾が飛び出した。弾はまっすぐに乾先輩へと飛翔し、その胸を撃ちぬいた。
「ぐぁぁぁ!」
乾先輩が声を上げてその場に倒れた。
「先輩!」
いてもたってもいられなくなった私は、今まで隠れていた木を飛び出し乾先輩のもとへと走った。
私は先輩のもとまで行くとすぐにそのそばに座り、地面に横たえる先輩を膝に抱えた。
「だ、大丈夫ですか!?」
私が声をかけると、先輩は弱々しい声で言った。
「に、逃げろ……。私は……もう……」
乾先輩は一度咳き込むと、ふっと目を閉じた。
「しっかりしてください、まだ助かりますって!」
私は先輩の肩をゆするが、先輩は反応を示さなかった。
「一体どうすれば……」
何をすればいいのかわからず、ただ先輩の顔を見つめていると、私の目の前に銃を持った根子先輩ともう一人の男性が姿を現した。そして、根子先輩が口を開いた。
「ゲームセットだ、新兵君」
数分後、稲荷はパイプ椅子に座らせられていた。さらに目の前の長机には、上に大きく「入部届」と書かれた紙とペンが並べられていた。
「別にサインする必要はないんだからな? こいつが無理やり迫ってるだけだし」
乾が稲荷の肩に手を置きながら言った。ここでこの言葉に甘えれば稲荷は本当にサバゲー部に入らずに済んだだろう。だが、稲荷の決心は逆の方向で固まっていた。
「いいえ、私書きます」
「ほほう、随分と潔いな」
稲荷の入部宣言に、根子は腕組みをしながらほくそ笑んだ。
「おい、いいのかよ! 今ならまだ間に合うんだぞ?」
そんな稲荷を乾は本気で心配して言った。しかし、それでも稲荷の意思は変わらなかった。
「いいんです、負けたら入部するって約束ですから」
(そんな約束してないんだけど……)
部室内にいた稲荷以外の人間全員が思った。
「それに――」
何かを勘違いしている様子の稲荷にいろいろな視線が刺さる中、稲荷はさらに口を開いた。そして、稲荷は微かに笑みをこぼして続けた。
「さっきの戦い、ちょっと格好いいなって思いましたし……」
「美琴……」
乾が声を漏らした。根子は輝かしい笑顔を作っていた。
「私、サバゲー部に入部します!」