第三話 壊れる日常
その日は朝から空を曇天が覆っていた。ゴールデンウィークを終え、気の抜けた学生の上に、物憂げな雨を落とす。
なんとなく早く起きてしまった秀一は、二年間変わることのない通学路を、傘を差して学校へと向かう。その隣を、近所に住む幼なじみの奏が歩いている。
「珍しいよね? 秀がこんな時間に起きてるなんて。地震でも起きるのかな?」
「言ってろ。雨の音で目が覚めたんだよ」
最近は、朝練で秀一と一緒に登校できなかった奏は、ご機嫌な様子で、一足早い紫陽花のような笑顔を咲かせる。本来であれば憂鬱な朝の雨も、今の彼女にとっては恵みの雨になったようだ。楽しそうな奏の頭上で、水色のリボンがゆれる。
「そういえば、噂で聞いたんだけど……柊さんを助けたって?」
「ん? ああ、先月のことか。何人かの女子に、校舎裏に連れていかれるのが見えたから」
「はぁー。秀って昔から本当にお人よしだよね。人の苦労も知らないで……」
「別にそんなことねえって……それに、柊に余計なことするなって怒られたし」
昔から変わらずお節介な幼なじみの様子を見て、奏は嘆息をもらす。
「ふーん。でも、そんな秀だから私は惹かれていったんだろうなぁ」
「え、何だって?」
「ううん、何でもないわよ。ベーだ」
奏は振り返って、秀に向かってちろりと舌を出す。
「なんだよ、それ」
「ふふ。それじゃあ、私は朝練があるからこの辺りで」
昇降口から入り、下駄箱で靴を履きかえると、奏は武道場へと足を向ける。
「ん、頑張れよ、奏。大会近いんだろ? 当日は応援に行くからさ」
「うん、ありがとう。行ってくるね」
奏と別れた秀一は、やることもないので自分の教室に向かう。教室に入るとやはり人影はまばらで、学校に朝早く来て、予習に励む生徒の姿が何人か目に付く程度であった。
(さてと、何して時間を潰すかな……)
秀一は机に座ると、目の前にARデバイスの操作ウインドウを表示させ、なんとなく今日のニュースを見る。今日も大したニュースもなく、相変わらず世の中は平和なようだ。
窓の外では雨が降り続いている。天気予報によると、雨は夕方まで続くらしいが、夜には晴れるそうだ。
秀一がそうやって時間を潰していると、教室が少しずつ生徒でうまっていく。
――ジジジ、ガガ、ジジジ、ジ。
「んぁ?」
(気のせいか? なんとなく視界が歪んだような気が……)
――ジジジジジジジジジジジ。
「き、気のせいじゃない! 一体なんだ!?」
秀一が声を上げると、目の前の空間が、周りの空間を巻き込むように渦を巻いて歪んでいく。周りを巻き込んで、限界まで歪み、緊張した空間は、ぷつりと紐が切れたかのように一瞬で元に戻る。
「な、何だよこれ?」
秀一の視線の向こう。渦の中心だった空間には、ポッカリと大穴が口を開けていた。あり得ないその光景に、教室にいた全員が思考を放棄する。
大穴の暗黒の向こうから“何か”が這い出してくる。その歩を進めるたびに、ガシャンガシャンと音を鳴らすのは全身に身につけた漆黒の甲冑。教室という日常には、あまりにも似つかわしくない“それ”は、虚空の大穴のへりに手をかけると、そこからのそりと顔を出す。
「うむ、無事に顕現できたようであるな」
身の丈二メートルはあろうかという甲冑の騎士が、無機質な声でそう言い放った。
「なんだなんだ?」
「ドッキリか何かじゃない?」
「でも、あまりにも大掛かり過ぎないか? 仮想映像じゃないみたいだぞ?」
周囲のクラスメイトも突然の事態に混乱を隠せない。教室にいる誰もが、騎士と周りのクラスメイトを交互に見ては、それぞれの憶測を口にする。
「ほう、何とも大人数での出迎えであるな。大儀である」
周囲を見渡し、自分に集まる視線を確認した騎士は満足そうに頷いた。
「あ、あのー」
意を決して、生徒の一人が騎士に近づいて正体を確かめる。
「えーと。あ、あなたは、どこから来たのでし――ぐへぇ」
教室内に風が吹いた。風上には鞘から剣を抜き放った騎士が立っている。剣の先からは赤い液体が滴り落ち、声をかけようとした生徒の体がズルリとななめに滑り落ちた。床に落ちた彼の胴体が、教室の床を鮮血で赤く染める。
「不用意に近づくでないわ。思わず抜いてしまったではないか」
甲冑の先でにやりと笑う。
「い、いやーーー」
「じょ、冗談じゃないぞ!」
「なんだよ、なんだよ、なんなんだよ? 何だよこれ?」
教室の中は地獄と化した。錯乱する生徒、悲鳴が木霊する教室、あちらこちらで机やイスに体をぶつけ、蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑う。秀一は上手く頭が回らず、立ち尽くしていた。
「いいぞ、人間。楽しい声をもっと聞かせてくれ」
甲冑の騎士が両手を広げ、教室の惨状に喜びの声を上げる。
「ぎゃ」
――ゴロリ。
近くに寄ってきた虫を手で払うような、そんな自然な動きで剣を横に薙ぐ。そんな自然な所作で、逃げそびれて近くにいた生徒の首が床に転がり落ちる。床に転がった生徒の頭と秀一の目が合った。その顔には、苦悶の表情が張り付いている。
(は? 死んだのか? そんな馬鹿な……う、嘘だろ? でも、いや、だけど……)
「ふはははははは――なんと脆い存在であるか?」
漆黒の甲冑で全身を包んだ騎士は、無骨な剣を構え、高笑いする。
(あれは何なんだ? 何が起きてる? どうしてこうなった?)
混乱のどん底にいる秀一をあざ笑うように――騎士は剣を再び振るった。
「ひいっ」
神速の剣閃が秀一の目前にいた女生徒の頭を体から切り離した。秀一の顔を彼女の血が汚す。秀一は、震える手で自分の頬を触る。
(これは……血?)
漆黒の騎士が、次の獲物をその目に捉える。秀一の目の前で立ち止まった“それ”が、兜の向こうでにやりとする。
「く、久瀬!」
遠くで誰かが秀一を呼ぶ声がする。しかし、淀みのない動きで、騎士が鈍色に光る剣を上段に構える。あまりにも現実離れした目の前の光景。秀一には――何もかもが他人事に思えた。
騎士は、秀一に向けて剣を振り下ろす。人智を超えた神速の一撃に、秀一は両腕でその身を守り、目を瞑ることしかできなかった。
(―――やられる!)
――ズガン。
直後、騎士が“爆ぜた”。騎士を中心に燃え上がる爆炎。炎が教室の天井まで届く。気づけば、スプリンクラーの水が秀一の肌を濡らしていた。ゆっくりと、秀一の思考も冷やしていく。
(今度は……一体何なんだよ?)
秀一がつむった目をゆっくりと開くと、その目に金色の髪が飛び込んでくる。彼女を取り囲む業火のゆらめきの向こうで、艶やかにその美しい髪を肢体に纏わせる。しかし、美しい姿とは裏腹に、その表情は歓喜と憎悪に歪んでいた。
「ひ、柊か?」
しかし、返事はない。赤々と燃え上がる炎の熱が頬をなで、頭上から降り注ぐスプリンクラーの水が混乱した秀一の頭を冷やす。目の前に広がる自分の理解を超えた現実。彼女は、炎の向こうの異形を、憎悪に満ちたその漆黒の両眼でにらみつける。
(これは……本当に柊なのか?)
直後、燃え盛る炎の中から黒い影が飛び出す。剣を腰に据え、突然の闖入者に、断罪の一撃を加えんとする。
「笑止! その程度の攻撃、我には届かぬわ」
「黙れ!」
怒声を放つマリアが手を横に振るう。その動きに合わせてマリアの前方の空間が突然、爆裂する。爆風が周囲の机も巻き込み、騎士を壁まで吹き飛ばす。
「ふん、効かぬと言っておろう。しかし、≪奏者≫がいるとはやっかいな……。娘、名はなんと言う」
「怪物風情に……名乗る名などない」
凍てついた視線で見下すマリアが、手をかざす。瞬間、騎士の足元で、爆炎と閃光がこだまする。
一度、二度、三度、四度、五度――六度。爆煙が晴れた跡地には、床にぽっかりと大穴が開いていた。騎士の姿は跡形もない。
「やった……のか?」
秀一がそう思った直後、マリアの背後の教室の床が突然盛り上がる。床を突き破って現れたのは――無傷の騎士の姿だ。
「――くっ」
マリアが、騎士に返り迎撃に入る。しかし、背後からの攻撃に対応が一歩遅れた。騎士は淀みのない動きで、剣を上段に構えると、
「逝ね」
騎士がマリアに神速の一撃を見舞う。
(――くそっ、『アクセル起動!』)
(『了解』)
直後、秀一の世界は再びの静寂を取り戻した。マリアの頭上に振り下ろす騎士の剣が、馬鹿みたいにゆっくり見える。緩やかに流れる時間の中で、秀一は走る。一歩、二歩、三歩――。
(今度こそ――守る)
瞬間、秀一の体の芯が熱く震える。心臓から流れ出した熱い血流が、脳を焦がす。熱い血流を受けた脳が、かつてない速度で情報の処理を始める。あまりの速度に脳がズキリと痛んだ。
(熱い――、痛い――、でも――)
体全体を支配する全能感。高揚する精神。見開く視線の先にいる騎士には、何の脅威も感じない。四歩、五歩、六歩――。残りの距離をつめる。
(――守るんだ)
マリアの目の前に立ち、右手を開く。
――ガキン。
「むぅ!?」
秀一の伸ばした腕の先、薄く半透明な青みがかった障壁が出現する。障壁が騎士の必殺の一撃を眼前で阻む。触れ合う剣先が火花を撒き散らす。
「小癪な……むん――!」
騎士がぎりぎりと両腕に力を込める。しかし、障壁は微動だにしない。
「小僧が……舐めおって。おおおおおおおおお!」
騎士が全身から黒いオーラを放つ。騎士の踏みしめる床は、数センチから下にめり込む。みしみしと悲鳴をあげるに鈍色の剣。しかし、障壁はそのすべてを防ぎきる。
「ふう――。まさか、顕現したその場に≪奏者≫が二人もおるとは予想外であった。どうやら分が悪いようだな、撤退するとしよう」
騎士は腕に込めた力を緩めると、後ろに飛びのく。騎士は自らが現れた大穴に戻ると、その大きな体をその穴にくぐらせた。
「待ちなさい!」
「また会おう、少年少女たちよ」
マリアの呼び止める声を無視して、甲冑の騎士は虚空へと姿をくらませる。
「たす……かった、のか?」
秀一はふらふらになりながら騎士の後ろ姿を見送ると、体を包む疲労感に身を委ね、まどろみの中へと落ちていった。
◇◆◇◆◇◆
「――うん?」
「しゅ、秀!? 良かった……目が覚めたのね?」
秀一が目を覚ますと、白い天井と自分を覗き込む奏の顔が目に飛び込んでくる。鼻腔を消毒液の匂いが刺激する。
「奏? ここは……保健室か?」
「ええ、そうよ。秀、どこか痛むところはない? 大丈夫?」
「えーと……少し頭痛がするけど、他に異常はないっぽいな」
「そう……良かった。本当に良かった……うぅ……」
秀一の言葉を聞いた奏は心の底から安堵し、両手を胸の前でぎゅっと握り締めると、その透き通った両目から大粒の涙をこぼした。涙がぽつぽつと彼女のスカートに水跡を作る。
「ごめん……心配かけた」
「本当だよ……。私、秀が死んじゃったかと思って、いても立ってもいられなくて、もうどうしていいか分からなくて、それで、それで……」
「ごめん……ありがとう」
秀一は泣きじゃくる幼なじみの頭をぽんぽんと優しく撫でる。泣きながら震えていた奏は、秀一のそんな優しさに安心したのか、少しずつ平静を取り戻していった。
「へへ……恥ずかしいとこ見られちゃった」
「馬鹿。今さらだろ」
「それも……そうだね。へへへ」
そう言って、奏は目を腫らしながら笑った。
「そういえば……あのあとどうなったんだ?」
「えっと、うん……大変だったんだよ。警察来たり、消防来たりで。犯人は逃げたみたいだけど、まだ捕まってないみたい。それに、三人も被害者が出たって……」
「そうか……」
秀一は目の前で簡単に奪われていった級友の命のことを思い、悔しさに歯を食いしばる。それにしても、相手は人間かもわからないような正体不明の存在だ。秀一は、正直、警察の手には余るのではないだろうかと考えていた。
「しかし、あの騎士みたいのは、一体何だったんだろうな?」
「えっ? 騎士って何の話?」
「何って……だから教室で暴れていた騎士だろ。あいつのせいでみんな……」
「秀、本当に大丈夫? 教室でみんなを襲ったのはナイフを持った暴漢よ。爆弾を持っていたみたいで、それを教室で爆破させて姿をくらませたって……」
「はあ!?」
秀一は奇妙な齟齬を感じていた。何かがおかしい。
「そんな馬鹿な。俺は見たぞ、漆黒の甲冑を身につけた騎士の姿を」
「ちょ、ちょっと待ってよ。常識的にそんなのいるわけないじゃない。秀、やっぱりもう少し寝ていた方がいいわよ」
奏が心配そうに秀一を見つめる。秀一はそんな奏の様子に憤りと困惑を隠せない。秀一は鮮明に覚えている。教室の真ん中に君臨し、友人の命を刈り取っていった超常の存在を。漆黒の甲冑に身を纏い、愉悦に高笑いするその姿を。
「間違いないって! そうだ、教室にいたやつらに聞けばきっと……」
「私、事件の現場になった教室にいた人から聞いたのよ? 突然、教室に押し入ってきた男がナイフで次々とみんなに切りかって行くのを見たって」
「そんな……馬鹿な……」
秀一は再び、混乱の渦に飲み込まれていった。あれが見間違いだった? そんなはずはなかった。秀一はやはり覚えている。地獄と化した教室、漆黒の騎士の姿、そして、炎の中の金髪の少女を――。
「そ、そうだ。柊は? 柊はどうした?」
「ひ、柊さん? さぁ……もう家に帰ったんじゃないかしら? 今日はあんな事件があったから、全校生徒が自宅に帰されたの。私は先生に頼み込んで、ここで秀一のことを看させてもらっていたんだけど」
「そうか……」
「柊さんがどうかしたの?」
「あっ……いや、なんでもない。気にしないでくれ」
ここで奏に話しても信じてもらえないだろう。秀一はどうするにしても、まずはマリアに話を聞くしかないと考えていた。
「なんだか……気になるけど、まぁ、いいわ。秀も起きたから、お父さんに迎えに来てもらえるように電話してくる。あっ、それと保健室の先生にも報告しないと。秀はここで待ってて?」
「……わかった」
秀一は保健室のドアから出て行く奏を見送ると、窓から外を見る。すでに陽は西に沈みかけ、朝から降り続いていた雨はもう止んでいた。夜が街を包もうとしている。
「一体どうなっている?」
秀一の独り言は、夜の闇に溶けていった。