ポテトチップスの生み出す情景
早朝まで激しい雨が降っていて、私は今日は学校が休みになると思いこんでいた。しかし、大雨警報は8時に解除され、私はいつもとは違う時間に、いつもと同じ路線の列車に揺られていた。車内は大学生や主婦や営業職のサラリーマンたちでけっこう混み合っていたけれど、私は何とか席を占めることができた。湿気を含んだだるい空気が車内に漂っていた。
私はこの春に中学2年生になったばかりだった。紺色の分厚いカバンと家庭科の教材を詰め込んだ重たいサブバッグを提げて、うらめしい気持ちで車窓に貼りつく雨粒を見つめていた。そして窓の外を眺めるのに飽きると、私は潜望鏡のようにゆっくりと首を動かし車内を見回した。すると左の目の端に何か不自然な動きがひっかかった。斜め向かいの座席に、ひとりの中年女性が座っていた。
女性はどう駅員の目をごまかしたのか、キャンバス地のトートバッグの中に1匹のシーズー犬を座らせ、膝の上に乗せていた。犬が雨に濡れないためにそうしたのかもしれないし、犬用のわずかな切符代金を惜しんだせいなのかもしれないけれど、女性は犬をスーパーの白いビニール袋の中に隠していた。背丈の小さな犬はバッグの外に出ようともがき、ジャリジャリバリバリと音を立ててビニール袋を踏みしだいた。犬はしゃくにさわるそのバリバリをどうにかしてやろうと、むきになって更にバリバリと音を立てている。だんだんと大きくなる音にまわりの乗客たちも女性の方をちらりと見るが、当の女性は犬の鼻先を軽く押さえるばかりで犬を叱ろうともしない。誰も女性に注意をしようとしなかった。
犬は女性の注意を引こうと、止まらないクシャミみたいに吠えたてた。女性は犬をバッグから取り出してなだめたが、犬の興奮はなかなか収まらなかった。女性は赤ん坊にするように犬の背中を軽くたたきながら中空を見つめ、何か考えごとをしていた様子だったけれど、急に犬をトートバッグに戻すと、もう1つの手提げカバンから赤い袋を取り出して封を開けた。女性が袋の中から取りだしたのは1枚のポテトチップスだった。女性は犬の鼻先にポテトチップスを突きつけた。私には奇妙な組み合わせに見えたが、犬はさも慣れたことのようにむさぼり始めた。犬が体勢を整えなおして吠えようとするたびに、女性はまるで穴に詰め込むみたいにポテトチップスを与え続けた。犬は目の前の世界を噛み砕くみたいに食べ続け、果てしなく単調な音が続いた。女性の穿いているデニム地のスカートの膝にポテトチップスの破片が散らばった。
ポテトチップスの袋が空になる前に女性は電車を降り、彼女のスカートについていたポテトチップスの破片が散らばって彼女と犬が存在した余韻を車内に残した。あとに残された乗客たちの感情は徐々にベタついた気分へと変わり、また私を重たい気持ちにさせた。
大人たちは最初、散らばった破片で汚れないよう靴の踵を浮かせたり、座席の上の破片を手で払ってから座ったりして注意深く振舞っていた。しかしたくさんの人が乗り降りし、それが何の破片であるのか、どのようにして散らばったのかを知らない人々が破片を踏み砕きはじめ、車内のベタついた気分もだんだんと砕かれていった。それにつれて私の重たく固まった気持ちもほどけ始めた。
そして、私の降りる駅が近付いてきた。
私はドアの前に立ち、もう一度ポテトチップス破片が落ちていたあたりを振り返ってから、ホームへ降り立った。雨はまだ降り続いていたけれど、重たかった空は西のほうから明るくなり始めていた。
ベタついた気分は電車とともに走り去った。私は気持ちをいったんまっしろに戻して、学校へ向かって歩き始めた。