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死者たちの事情

ゾンビたちの黄昏

作者: 大窟凱人
掲載日:2026/10/16

 長谷川蓮はラジオから流れてきたニュースを耳にし、愕然とした。聞き間違いかと思ったが、ニュースキャスターの女は落ち着いた声で同じ内容を繰り返し、それが間違いでないことが確定した。


『これをもって人類は、地球の支配権を完全に取り戻したと宣言します。今後、各地域のコミュニティーは、残存するゾンビの完全殲滅に乗り出す方針です』


 人類が勝った。

 それはこの世で最も聞きたくない知らせだった。 

 彼は心のどこかで、いつかこうなる時が来ることをわかっていたが、改めて宣言されてしまうと、恐怖の念がどっと押し寄せてきた。長谷川は居ても立ってもいられず、頭を抱えてのたうち回った。

 なぜなら、彼自身がゾンビだったからである。


    *


 ゾンビウイルスのパンデミックが起こってから、すでに三十年以上が経過していた。

 かつて人類は、人口をわずか三億人にまで減らしていた。しかし、リチャード・ミラー博士らの研究によってワクチンが開発され、状況は一変した。接種した人間は、ゾンビに噛まれても感染しない。人類は次第に勢力を取り戻し、十四年もの反撃の末に、ついに勝利を宣言したのである。

 もっとも、ゾンビが絶滅したわけではない。今も数億体が世界各地をさまよっているという。

 人類にとって、彼らは復興を妨げる危険な害獣だった。

 そして長谷川も、その一匹ということになる。


「冗談じゃねえぞ……」


 長谷川はラジオの電源を切った。しばらく狭い山小屋の中を歩き回っていたが、やがて藁のベッドに腰を下ろし、頭を抱えた。

 彼は三十年以上前、四十七歳のときにゾンビウイルスに感染した。

 しかし、どういうわけか脳だけは侵されず、人間の意識を保ったままゾンビになった。身体は腐り、顔も醜く変形したが、記憶も知性も残っている。それどころか、ゾンビになってからの人生の方が、彼にはずっと素晴らしいものだった。


 人間だった頃の長谷川は、非正規労働者として職を転々としていた。どこの職場でも無能だと蔑まれ、毎日くたくたになるまで働き、帰宅すれば酒とたばこで気を紛らわせる。妻も子供もなく、将来に楽しみなどなかった。


 ところが、ゾンビになってすべてが変わった。

 まず、働かなくてよくなった。

 眠る必要もなく、年を取ることもない。身体を維持するために食物は必要だったが、動物や人間の死体を見つければ、それで事足りた。

 誰の命令も聞かず、誰にも頭を下げず、好きなところへ旅をする。山に登り、海を眺め、腹が減れば何かを食い、気に入った場所があれば何年でも滞在した。

 とりわけ、今の山小屋は気に入っていた。

 何年か前に偶然見つけたもので、屋根も壁も古びていたが、雨風をしのぐには十分だった。長谷川は周辺から木を集めて椅子を作り、寝床に藁を敷き詰めた。外には焚火の場所も設けてある。

 そして、何より大切なのが本だった。

 旅先で拾い集めた本が、棚に何十冊も並んでいる。昼は椅子に座って景色を眺め、夜になれば焚火のそばで本を読む。三十年も生きていれば、昔読んだ本の内容などすっかり忘れてしまうから、何度でも楽しめた。


 こんな暮らしを、長谷川は死ぬまで続けるつもりだった。

 いや、すでに死んでいるのだから、永遠に続けるつもりだった。

 それを人間たちが奪おうというのである。


「ふざけやがって」


 長谷川は、棚に並んだ本を眺めた。

 逃げるべきだろうか。今までも、人間の姿を見つけるたびにそうしてきた。幸い、ゾンビになってから聴覚が著しく発達し、数百メートル先の足音まで聞き分けられる。人間が近づけば、発見される前に逃げることができた。

 しかし、今回ばかりは事情が違う。

 人類は組織的にゾンビを狩り始めるという。銃火器を持った集団が山へ踏み込んできたら、逃げ切れる保証はない。別の土地へ行ったところで、そこでもゾンビ狩りが行われているかもしれなかった。

 長谷川は外に出て、自分で作った椅子に腰を下ろした。


 山の向こうに夕日が沈みかけている。

 また、こんな場所を探せるだろうか。

 彼はしばらく考えていたが、やがて立ち上がった。

 やらなきゃ、やられる。


 長谷川は山小屋へ戻り、これまでの旅で集めてきた武器を取り出した。

 ライフル、拳銃、ボウガン、手榴弾、それに通信機や釣り糸などの小物がある。いずれも廃墟や放棄された車両などから拾い集めたものだった。

 しかし、銃を使うのはなるべく避けたかった。

 ゾンビの身体は丈夫なようで、案外もろい。ウイルスによって筋肉や細胞が再生するとはいえ、長年の腐敗は進んでおり、強い衝撃を受ければ骨が折れたり、肉が裂けたりする。指先も弱っているため、重いものを強く握るだけで皮膚が破れることがあった。

 欠損した身体を再生させるには栄養が必要だ。腕一本失うようなことになれば、元通りになるまでどれほどかかるかわからない。

 そこで長谷川は、まず山道に罠を仕掛けることにした。

 それから、もう一つ準備することがあった。

 彼には、切り札があったのである。


    *


 それから一週間後、山の向こうで爆発音が響いた。

 長谷川は山小屋から飛び出し、音のした方角に耳を澄ませた。距離は二、三キロメートルほどだろう。鳥や獣の騒ぐ音に混じって、人間の叫び声が聞こえてくる。

 罠にかかったのだ。


 長谷川はボウガンを担ぎ、森の中を進んだ。

 しばらくすると、人間の足音が聞こえ始めた。十数人はいる。しかも、足音の間隔がほぼ揃っていた。

 組織的なゾンビ狩りが、とうとうこの山までやって来たのである。

 長谷川は茂みに身を隠し、様子を窺った。

 現れたのは、銃で武装した十数人の集団だった。先頭の数人が周囲を警戒し、負傷した仲間を支えながら慎重に進んでいる。

 中でも目を引いたのが、赤いバンダナを巻いた筋肉質の女だった。


「隊列を乱すな! 足元を見ろ!」


 女の指示に従って、一行は歩みを遅くした。

 どうやら、あの女が隊長らしい。

 長谷川は手榴弾を握りしめた。

 人間たちはまだ彼の存在に気づいていない。このまま見過ごせば、何事もなく山を下りていく可能性もあった。

 だが、再びやって来ないとも限らない。

 いずれ見つかるくらいなら、今のうちに殺しておく方が安全だ。

 長谷川は、隊列が狭い山道に差しかかるのを待った。

 女が何かを叫び、数人の隊員が振り向いた。

 その足元へ、手榴弾が転がり込んだ。


「伏せろ!」


 爆発が起こった。

 隊列の中央で土煙が上がり、数人の隊員が地面に倒れた。誰かが悲鳴を上げ、残った隊員たちが一斉に銃を構える。


「撃つな! 敵の位置を確認しろ!」


 赤いバンダナの女が叫んだ。

 しかし、倒れた隊員の一人は動かず、もう一人は血を流して苦しんでいた。


「くそっ、撤退するぞ! 負傷者を運べ!」


 長谷川は茂みの中から、その様子を眺めていた。

 これで懲りただろう。

 人間たちが引き揚げるのを待ってから、彼は残された死体に近づいた。

 死んだ隊員の一人はまだ若く、横向きに倒れたまま、片手を胸元に添えていた。

 長谷川はその死体を見下ろした。

 食料が手に入った。

 ささやかな勝利を喜びながら、彼は死体を引きずって茂みの奥へ運んだ。


    *


 人間という生き物は、実に執念深い。

 その日の夜、長谷川は山小屋で休んでいたが、遠くから聞こえてくる異様な物音に気づいた。

 数え切れないほどの足音だった。

 百人以上はいるだろう。しかも、山のあちこちから近づいてくる。上空ではヘリコプターの音まで響き始めた。


「もう来たのか……」


 長谷川は慌てて外へ出た。

 人間たちは、最初の部隊が通った道を避け、複数の方角から山を包囲し始めていた。あれだけ派手に攻撃したのだから、危険な敵がいることは知れ渡ったはずだ。

 長谷川は舌打ちした。

 あの女を逃がしたのは失敗だった。

 だが、こうなった以上、後悔しても仕方がない。

 長谷川は通信機を取り出した。

 これから使うのは、三十年以上のゾンビ生活で偶然発見した能力だった。


 ゾンビたちは、人間の声とは異なる独特のうなり声を発する。その音を聞いた仲間は、近くに獲物がいると判断し、声のする場所へ集まってくる。

 人間には意味のない唸り声にしか聞こえないが、ゾンビにとっては「餌がいる」という合図なのだ。

 しかも長谷川には、その声を意図的に出すことができた。


 彼はこの一週間、山中の何か所かに、通信機と接続したスピーカーを設置していた。そして周辺の山々に散らばっていたゾンビたちを、声で少しずつ呼び集めておいたのである。

 その数は数千体に達していた。


 長谷川は通信機を握ったまま、喉の奥から低いうなり声を発した。

 遠くの足音が、一斉にこちらへ向きを変えた。

 枯葉を踏みつけ、地面を引きずり、枝を折りながら、無数のゾンビが動き出したのである。

 あとは連中が到着するまで隠れていればいい。


 もっとも、数千体のゾンビが武装した人間に勝てるかどうかはわからない。最近の人間は銃も弾薬も豊富に持っているらしく、ヘリまで飛ばしている。ゾンビの群れを全滅させられる可能性もあった。

 しかし、戦闘になれば必ず混乱が生じる。

 その隙に逃げるつもりだった。


 長谷川は、山小屋から二十メートルほど離れた場所に掘っておいた隠れ穴へ潜った。穴の上には木の板を被せ、枯葉と土で覆ってある。

 ここなら、そう簡単には発見されない。

 彼はじっと身を潜め、ゾンビたちの到着を待った。

 ところが三十分ほど経った頃、聞き慣れた場所から人間の声がした。

 山小屋だった。


 長谷川は板を少し持ち上げ、外を覗いた。

 五人ほどの隊員が、彼のねぐらを調べていた。


「誰か住んでたみたいだな」


 一人が焚火の跡を見つけた。

 別の隊員が小屋の中へ入り、藁のベッドを調べている。


「人間か?」


「さあな。だが、この山には爆弾を仕掛ける奴がいるんだろ。油断するな」


 隊員たちは周囲を警戒しながら、小屋の中を調べ始めた。

 その中のひとりが椅子を乱暴に引きずり出し、椅子を蹴飛ばした。椅子は地面に倒れ、背もたれが折れた。腐った手に苦心しながら、何日もかけてつくった大切な椅子だった。


「なにをしやがるんだ!」


 もちろん、相手には聞こえない。

 隊員たちは、そんなものに興味がないらしく、壊れた椅子を脇へ放り投げた。

 今度は、山小屋から本を持ち出してきた。


「おい、こんなもんまであるぞ」


「本か。誰か住んでたのは間違いなさそうだな」


 一人がページをめくり、仲間に見せた。

 長谷川は穴の中で身を震わせた。

 その本は、彼が旅先で見つけたお気に入りの一冊だった。何度も読んだせいで表紙が外れかけ、ページの角もすり減っていた。

 隊員はぱらぱらとページをめくったあと、本を地面に放った。外れかけた表紙が折れ、開いたページに泥がついた。

 ほかの隊員が、小屋の奥から声を上げた。


「誰もいないが、寝床に本まである。誰かの住処だったのは間違いない」


 隊員の一人が無線機を取り出した。


「隊長、小屋を発見しました。寝床と本、それに銃もあります」


『そうか。周囲を見張れ』


 聞き覚えのある女の声だった。


『それから、小屋に火をつけろ』


「焼くんですか? 森に燃え移りますよ」


『わかってる。延焼したら全員退け。だが、奴がここにいるなら、黙って見てるとは思えねえ』


「……了解」


『私も近くを探す。何か動いたら知らせろ。今度こそ逃がさねえ』


 長谷川は耳を疑った。

 焼く?

 隊員たちは小屋から離れ始めた。

 そして間もなく、屋根の下から煙が立ち昇った。

 火をつけられたのだ。

 長谷川は、穴の中からその光景を見つめていた。

 火は乾いた木材を伝い、壁から屋根へ広がっていく。あっという間に炎が大きくなり、窓から真っ赤な光が溢れ出した。

 毎晩、焚火のそばで本を読み、朝になれば景色を眺めて過ごした、自分の家だった。

 それが今、燃えている。


「やめろ……」


 長谷川は声を絞り出した。


「やめろよ……」


 だが、隊員たちは火を消そうとしなかった。

 長谷川は、隠れ穴に置いてあったボウガンを手に取った。

 弦を引こうとしたところで、右手の指先が裂けた。腐敗した皮膚が剥がれ、黒ずんだ血が滲む。

 それでも彼は矢を装填した。

 我慢すれば、もうじきゾンビの群れが来る。

 そうなれば人間たちを襲わせ、自分は安全に逃げられるはずだった。

 だが、長谷川は待てなかった。

 燃え盛る山小屋の前に、一人の隊員が立っていた。長谷川は穴の蓋を少し持ち上げ、隙間からボウガンを突き出した。頭上ではヘリが旋回し、周囲の足音をかき消していた。

 長谷川はその男に狙いを定め、矢を放った。

 矢は男の首に突き刺さり、男は膝を折って倒れた。


「敵だ!」


 仲間たちが一斉に銃を構えた。

 長谷川は穴の中で笑った。

 ざまあみろ。

 しかし、ボウガンを引っ込めたところで、すぐ背後から声がした。


「尻尾出しやがったな」


 振り向く間もなく、穴を覆っていた木の板が乱暴に取り払われた。

 赤いバンダナを巻いた女が、銃口を突きつけていた。


「このクソ野郎が……!」


 長谷川は慌てて拳銃に手を伸ばしたが、女はそれを見逃さなかった。

 

「動くな。少しでも動いたら撃つ」


 長谷川は手を止めた。

 女は穴の中を覗き込み、彼の顔を見ると、妙な表情になった。


「……何だ? お前、言葉がわかるのか?」


 長谷川は答えなかった。


「手榴弾を投げて、隠れて、今度はボウガンか。普通のゾンビにできるわけがねえ。お前、頭は人間だろ」


 女はしばらく長谷川を見下ろしていた。

 その目には、怒りと驚きが入り混じっていた。


「てめえが殺した部下の中には、まだ二十歳になったばかりの奴もいたんだぞ」


 長谷川は黙っていた。


「死体まで食い荒らしやがって……」


 女は歯を食いしばった。

 しかし、引き金は引かなかった。


「――ちっ」


 女はライフルを握り直した。


「これまでにないタイプの個体だ。今すぐぶち殺したいが……仕方ねえ。連れて帰る」


 長谷川は目を見開いた。

 連れて帰る?

 いったい何のために?

 解剖するつもりか。実験材料にするつもりか。何十年も檻に閉じ込められるかもしれない。

 そもそも、人間たちはゾンビを皆殺しにすると宣言したばかりではないか。

 長谷川は必死で逃げ道を探した。

 穴から這い出ようとすれば撃たれる。女の背後へ回り込むこともできない。腐った身体では、素手で飛びかかっても返り討ちに遭うだけだ。

 女は彼の焦りを見て取ったらしく、少しだけ銃口を下げた。


「大人しくしてろ。余計なことをしなきゃ、今ここで殺しはしねえ」


 長谷川には、その言葉を信じることができなかった。

 女は背後へ向かって怒鳴った。


「おい! こっちに来てくれ! 生きたまま運ぶぞ!」


 そのときだった。

 山小屋の方から、けたたましい悲鳴が上がった。


「何だ!?」


 女が振り返った。

 燃え盛る山小屋の向こうで、無数の人影が動いていた。

 ゾンビの群れが到着したのである。

 先頭のゾンビが隊員に飛びかかり、続いて何十体ものゾンビが押し寄せてくる。隊員たちは一斉に発砲したが、その背後からも次々とゾンビが現れた。


「くそっ、こんなにどこから……!」


 女が銃口をそちらへ向けた。

 長谷川はすかさず拳銃を抜いた。

 銃声が響き、女がよろめいた。

 弾丸は肩に当たったらしい。彼女は顔を歪めながらも、すぐに銃を構え直そうとした。

 しかし、長谷川を撃つより早く、背後からゾンビが飛びかかった。


「うぐっ! どけ、この!」


 女はゾンビを振り払おうとした。

 その隙に長谷川は穴から這い出した。

 拳銃を撃った右手首が裂けていた。親指の付け根から肉がめくれ、指がうまく曲がらない。

 だが、動けないほどではない。

 長谷川は荷物を抱え、森の中へ走り出した。


「待ちやがれ!」


 背後から女の怒声が聞こえた。


「てめえ、絶対に見つけ出してやる!」


 長谷川は振り返らなかった。


    *


 山は大混乱に陥っていた。

 数千体のゾンビが山中を埋め尽くし、人間たちに襲いかかっている。銃声が絶え間なく響き、叫び声があちこちから聞こえた。


 上空のヘリも、何かを探すように山の周囲を旋回していた。

 長谷川は、人間の足音が少ない方角を選んで逃げた。

 三十年以上、誰にも見つからないように歩いてきた。夜の山道も、茂みの中の獣道も、長谷川にはよくわかっていた。


 やがて、後ろから聞こえてくる銃声が遠ざかっていった。

 長谷川はようやく足を緩めた。

 振り返ると、山の一角が赤く燃えていた。

 小屋から燃え移った火は、周囲の木々にまで広がっているらしい。風が吹くたびに炎が勢いを増し、黒い煙が夜空へ昇っていく。

 あの中に、長谷川の家があった。

 彼はしばらく山を眺めていたが、やがて再び歩き始めた。

 もう戻れない。

 藁のベッドも、椅子も、本も、すべて焼けてしまった。

 ちくしょう。

 あんなにいい場所だったのに。

 長谷川は裂けた右手を押さえながら、山道を下り続けた。

 しばらくすると、赤いバンダナの女の顔が思い浮かんだ。

 あの女は自分を殺さなかった。

 部下を殺され、死体まで食われていたというのに、捕まえて連れて帰ると言っていた。

 あそこで抵抗しなければ、どうなっていただろう。

 長谷川にはわからなかった。

 それどころか、最初の小隊を見つけたとき、手榴弾など投げずに逃げていたら、今頃まだ山小屋で暮らしていたかもしれない。

 その考えが浮かんだ途端、長谷川は腹を立てた。

 何で俺が逃げなきゃならないんだ。

 自分の家がある山から、なぜ逃げなければいけない。

 そもそも、先にゾンビを皆殺しにすると宣言したのは人間の方ではないか。

 殺される前に殺しただけだ。

 あの女だって、結局は自分を捕まえて、どこかへ連れて行こうとしていた。

 やっぱり人間なんか信用できない。

 長谷川は足を速めた。

 こうなれば、別の山を探すしかない。人間が滅多に来ないような、もっと奥深い山がいいだろう。

 そこでまた小屋を探して、椅子を作り、本を集め直せばいい。

 どうせ時間はいくらでもある。

 そう考えたところで、長谷川は立ち止まった。

 また見つかったら?

 今度は逃げられるだろうか。

 人間たちはヘリコプターまで使っていた。あれだけの兵士を一度に動かせるのだから、今後はもっと大がかりなゾンビ狩りを行うに違いない。

 別の山へ逃げたところで、いずれ見つかる。

 そのたびに逃げるのか。

 せっかく作った椅子も、集めた本も捨てて。

 長谷川は、昔の自分を思い出した。

 嫌な職場を辞めても、次の職場でまた同じような目に遭う。そうやって転々とするうちに四十七歳になり、結局、何一つ手に入らなかった。

 ゾンビになって、ようやくその暮らしから解放されたのだ。

 もう二度と、あんな生活はしたくない。

 彼は腰を下ろし、しばらく考え込んだ。

 やがて、荷物の中から通信機を取り出した。

 人類の人口は、かつて三億人にまで減ったという。一方で、ゾンビは今も数億体が残っている。

 今日集めたのは、たった数千体だ。

 それでも、武装した人間たちを混乱させ、逃げ延びることができた。

 もっと大勢集めたらどうなるだろう。

 ゾンビの群れを人間の町へ送り込んだら、どうなるだろう。

 長谷川は通信機を握りしめた。

 人間が強くなる前に叩き潰す。

 今なら、まだ間に合うかもしれない。

 もしかすると、自分と同じように知性を残しているゾンビもいるかもしれない。そういう仲間が見つかれば、もっと大きなことができる。


 やらなきゃ、やられる。


 長谷川は暗い山道の向こうに耳を澄ませた。

 遠くから、いくつもの足音が聞こえてくる。

 人間の足音ではない。

 ゾンビたちだった。

 長谷川は今まで、その足音を頼りに仲間を避けたり、危険な場所から遠ざかったりしてきた。

 しかし、今度は違う。

 彼は通信機を口元へ寄せ、喉の奥からうなり声を発した。

 遠くの足音が、一斉にこちらへ向きを変えた。

 それを聞いた長谷川は、満足そうに笑った。

 もう、逃げるのはやめだ。

 醜い人間どもを一匹残らず始末してやる。

 この星の支配者は、この俺だ。

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