悪魔は女神から逃げられない
熊谷 大和は善人である。重い荷物を持ったお婆さんがいれば代わりに荷物を持ち、電車に乗れば困っている人に席を譲るために座っているほど。
しかし彼に近寄る人間はいない。なぜなら、およそ堅気には見えない顔だから。あらゆるところに傷があり(捨て猫を拾ったのに嫌われているため)、眉は全て剃られている(元があまりに濃かったので剃ったら失敗した)。鋭い目付きも相まって(親の遺伝)、このような状況を生み出してしまった。
それは高校に入っても変わらず。付いた通り名は“悪魔”。別に喧嘩をしょっちゅうしているとか、性格に難があるわけではない。むしろ素行の良さから教師陣の覚えも良いくらいだ。
完全に外見だけである。制服を着崩しているが、これは幼い頃に習っていた水泳によって肩幅が広くなり、趣味の筋トレで大きくなった胸筋が悪さをして、第一ボタンが閉まらなくなってしまっただけだ。
こう考えてみると、筋トレも多分に影響している。背は特段高くないが、ガタイが良い、と表現するのが正しいだろうか。とにかく、威圧感が半端ではないのだ。それも近寄りがたくなっている要因の一つだろう。
そんな彼に話しかけてくる物好きがたった一人だけいる。樫宮 棗という名の、大和の一つ上の先輩。人呼んで“女神”。
しかし、大和は彼女から逃げ回っていた。理由は、棗が風紀委員会の所属だからである。道を歩いているだけで職質される彼にとって、風紀委員会とは天敵なのだ。やましいことは無いが、何も無いからこそ互いの時間を無駄にするのを避けたい。無意識に相手を気遣っているあたり、優しさが滲み出ている。
一方、棗が大和を追いかける理由。それは、単純に大和のことが好きだから。
きっかけは些細なことだった。普段乗っている電車が事故で止まり、仕方なく別の路線に乗り換えたことがあった。そう考えるのは棗1人な訳がなく。普段は比較的空いている車内が、一気にすし詰め状態に。
同じく乗り換えた老人が、ラッシュ時の学生やサラリーマンより速く歩くことなどほぼありえない。当然座れず、苦しそうにしていた。
棗は席を譲るよう声を出そうとするが、その前に席を譲った人物が。それこそが、元からその路線を使って通学していた大和である。
老人と入れ替わり、大和が立ち上がったその時。電車が大きく揺れ、大和と老人の様子を近くで見ていた棗は、集中力が散漫になっていたためにバランスを崩してしまう。それを救ったのも大和だった。
『大丈夫ですか?』
『はい、助けていただきありがとうございます』
『そんなに畏まらなくても。見たところ、同じ高校みたいですし。俺、新入生なので、これからよろしくお願いします』
惜しむらくは、この出来事が大和が普段から行なっている人助けの一つにすら入らず、ただ当然のこととして忘れてしまった、ということ。
高校で棗が再会した時、大和は何食わぬ顔で挨拶だけをしていった。
棗の心には、火が着いた。
「ふふ、絶対逃しませんよ」
そこから、棗の猛アピールが始まった。教室まで来て呼びに来たり、風紀委員会の権限を使って全校放送で、
「1年2組熊谷 大和くん。至急生徒指導室まで来てください。繰り返します———」
と勝手に生徒指導室の名前を出してまで、大和となんとか接点を作ろうとした。ラブレターを送ったのだって一度や二度じゃない。
しかし、大和は靡かなかった。それどころか呼び出しに応じず逃げ出す始末。
もちろん、大和からすればたまったものではない。なぜなら何もしていないから。身に覚えのないことで処分を受けるのは初めてではないし、中学の頃は、一度フラッと着いていっただけで酷い噂まで立ったことも。
だから出会ってから半年が経った今日この日まで、二人の間に一切の接点がないのだ。
しかし、いい加減にしびれを切らした棗が強硬策に出る。
「熊谷さん。なぜ私の呼び出しに応じてくれないのですか?」
「げっ、風紀委員長………」
「覚えてくれていて良かったです。君が忘れられないように、わざわざ風紀委員長なんて役職に立候補したんですから」
「忘れるわけないでしょうが。“女神”だなんて呼ばれてるのに、あんだけしつこい人のこと」
「し、しつこいとはなんですか!せめて執念とですね……」
大和はあの時のことを覚えていなかった。しかし、「とんでもなくしつこい風紀委員の先輩」という認識はあったようだ。
そして“女神”という呼び名。棗はあまり好んではなかったが、大和に知られていたのならそれだけで価値はあった。
ちなみにここは大和の家の前。アパートの1階で一人暮らしをしている彼の後ろを尾け、扉の前で逃げ道を塞いでいた。
「コホン。改めて、君にお話があります」
「俺はなんもしてないっすよ!この顔のせいで怖がられて、“悪魔”だなんて呼ばれて!俺はただ捨て猫を拾っただけなのに………」
「へぇ〜、そうだったのですか!私、猫ちゃん大好きなんです!良ければ見せてくれませんか?」
「いいっすよ。上がってください」
底抜けにお人好しな大和は、つい流れで家に入れてしまった。棗にそんなつもりはなかったが、結果オーライ。これでゆっくりと腰を据えて話ができる。
「はわっ、可愛いです〜……。お名前はなんて言うのですか?」
「ビスです。ビスケットみたいな小麦色をしてたんで」
「いいお名前ですね…よしよし。ビスちゃんは大人しい子ですねー…」
「あっ、それで用件ってのは………」
「いけない、うっかりしてました。警戒しなくても大丈夫ですよ、君が何もしていないのは知っていますから」
棗が風紀委員として呼び出す時、教師には幾度となく止められてきた。あいつは何もしてない、勘違いされやすいだけでむしろ優しいやつなんだ、と。
棗ももちろん知っている。そんな彼の優しさに惹かれたのだから。
「遅刻するのはご老人を助けているから。鍛えているのは重い荷物を運んで困っている人を助けるため。まだまだありますけど、聞きたいですか?」
「いらないっすよ。てか何で知ってるんすか」
「それはこの半年間、うしr………君のことを観察していたからです」
「今、後ろを尾けてたって言おうとしました?」
「キノセイデスヨー」
カタコトになったことで余計に怪しまれる。しかも大和は、半年前あたりから頻繁に背後に気配を感じるようになっていた。それが今、確信に変わった形だ。
「はぁ…なんで俺のことを尾け回してたんですか。何か悪事を働こうとするところを押さえるためですか?」
「違います!私はただ君のことが、す………」
「す?」
「す………素晴らしい人物だと思っていたからです!」
樫宮 棗はヘタレである。そもそもこうやって強硬策に出ることだって、本当はもっと早くできたはずなのだ。しかも肝心なところでこうして言葉が出てこない。
計画自体は4月の時点で思い付いていたのだが、事を起こすと決めるまで要した時間は、なんと二カ月。夏休みだの中間テストがあるだのと、何度も自分に言い訳をしては先延ばしにしていた。
アピールと言いつつも、大和の逃げられたらすぐに諦めるあたりに、棗のヘタレ度合いが見てとれる。
そんな棗が辛うじて紡ぎ出した言葉に、大和も若干困惑しているようだった。
「えーっと…そう思ってもらえてたのは嬉しいんすけど………なんで毎度呼び出されてたんすか?」
「それは………そうだ、君にも風紀委員会に入ってもらいたかったからです」
「絶対今考えたでしょ………」
もう八方塞がりだった。攻めに来たはずの棗が、墓穴を掘りまくっていつの間にか追い込まれていた。大和はずっと訳が分からないといった表情。
樫宮 棗は、覚悟を決めるしかなかった。
「熊谷さん、私は本当は………」
「……………………」
真面目な気配を察した大和も、口を閉じて居住まいを正す。
「本当は———君のことが好きなんです!」
「………………………えっ?」
「で、ですから、君のことをひとりの男の子として好いていると、そう言ったのです!恥ずかしいんですから二度も言わせないでください………」
「あっ………す、すんません………」
勇気を出した棗の告白は、大和が聞き返してしまったことでなぜか気まずい雰囲気になってしまう。
だからなのかは分からないが、今まで棗に抱きかかえられていたビスが、唐突に大和の顔面へと飛び付く。
そしてその鋭い爪で大和を引っ掻き始める。
「ちょ、いててて!何すんだビス!」
「シャーーーー!!」
「ほら、ビスちゃんも『女の子に二度も告白させるなんて最低』って言ってますよ?」
「言ってないでしょうが!ってビスもなんで頷いてるんだよ!?」
言葉は理解していないはずだが、なぜか首を縦に振った後、引っ掻く速度はより速くなった。
大和が悶絶しているのを流石に見ていられなかった棗は、ビスを引き剥がし、もう一度自分の膝に座らせる。
そのまま無言で大和を見つめ、口を開くのを待っているようだった。
「その顔やめてくださいよ。なんか話しづらいんで……」
「だって一世一代の告白ですよ!?それを君は平然とした顔で…許せないですよね、ビスちゃん?」
「にゃあ」
「勘弁してくださいよ……。それ、結構痛いんですから」
「なら、返事をください」
この場で返事が欲しいと要求する棗。それに対し、大和は複雑な表情をしていた。
彼には恋人はおろか、友人もいない。誰からも関わりがたい存在となっていた彼にとって、当然好意を向けられることなど初めての経験だった。
その想い自体は嬉しいと思っている。どんな形であれ、自分と話してくれるのだから。家族以外と会話することがほとんどない彼にとって、棗の存在はそれだけ貴重なものであった。
だからこそ及び腰になってしまう。もし恋人同士になったとしても、別れてしまったら大和はまた1人に戻ってしまう。
ましてや相手は、“女神”だなんて呼ばれている高嶺の花。付き合ったことで何を言われるか分かったものではない。
なら、いっそこのままの方が良いのではないか。
先輩には申し訳ないけど、これ以上傷付きたくない。そう思ってしまうのも無理はなかった。
しかし断った場合、傷つくのが棗になるだけ。そのことに気付いた大和は、形容しがたい感情に襲われる。
大和は結論を出し、不安げな顔で見つめてくる棗にそれを伝える。
「気持ちはすげえ嬉しいんすけど、ごめんなさい。俺は先輩とは付き合えねえっす」
「…っ、そうですよね………。急に先輩にこんなこと言われても気持ち悪いだけですよね……」
「全然そんなこと思ってないっすよ。むしろ、これからも仲良くしてほしいぐらいなんですけど」
「…………ほ、本当ですか…?嫌いにならないんですか?」
「あれっすよ、よくあるやつ。“まずは友達から”ってやつです」
大和は少し使い方を間違えているが、友人でいたいという気持ちは本当だ。それがたとえ年上の異性であっても、彼にとって気軽に話せる同年代の存在は貴重なのだ。
一方の棗は、心から安堵していた。もちろん告白を断られたことにショックは受けているが、大和は友人でいたいと言った。潔く引き下がろうと思っていた棗にとって、九死に一生を得たような気分だった。
ただし、棗は意味を間違えない。その言葉で余計に諦められなくなってしまったのは、変えようのない事実だろう。
「私のことを突き放さなくていいんですか?自分で言うのもなんですが、私、諦め悪いですよ?」
「そうなったらその時っす。もしかしたら俺の方が先輩を逃さないかもしれないっすよ?」
「望むところです!絶対振り向かせてみせますから、覚悟しておいてください!」
こうして彼らの奇妙な友人関係が結ばれた。
その翌日。
「これからお隣さんとしてよろしくお願いします、熊谷さん♡」
「うっそだろ………」
悪魔は女神から逃げられない。




