空飛ぶ恋する半魚人
その半魚人は衰弱していた。自分がなぜそこにいるのかも知らなかった。
元々自分は海で生活する者のような気がしている。気がついたら沼の中にいた。真水がなんだか生臭くて、嫌な気持ちになったのが最初の記憶だ。
おそらくは卵の時に、誤ってこの沼に落ちたのだろうと推測した。ある程度大きくなると水から上がり、近辺の地上を歩いてみた。彼には立派な二本の足があった。
森はどこまでも広がっているように思えた。あまり水から離れていると息が苦しくなった。仕方なく沼に戻り、獲物がやって来るのを待つようになった。
沼には鳥や小動物がよく水を飲みに来る。しかし彼らはすばしっこく、半魚人が水中から迫り上がって姿を現した時にはもうとっくに逃げてしまっていた。
主に沼に棲む仲間を捕食するしかなかった。カエルやエビ、水棲昆虫などは、はじめはたくさんいた。しかし小さなそれらは人間大の半魚人の腹をなかなか満たさず、遂には沼の生物を絶滅させることになってしまった。
食べるものがなくなり、半魚人は衰弱していた。朦朧とする意識の中で、二度だけ捕まえたことのある、大型哺乳類の記憶を夢のように頭に浮かべた。
鹿と、熊だった──。あれはうまかった。彼が水中から姿を見せてもすぐには逃げ出さず、熊なんかはむしろ自分を逆に食おうとした。
彼の口には前に向かって伸びる16本の鋭い牙があった。自らに備わったその武器の使い方を、その時に初めて知った。
沼に引きずりこみ、何日もかけて、骨も残さず食った。物心ついてから初めて感じる至福の時だった。
またあんな大型の何かがやって来てくれないものか──
夢を見るようにそう願っていると、気配がした。
何か大型のものが、沼を覗き込んでいる。
半魚人が水面にゆっくりと顔を出すと、人間の少女がそこにいて、熊とも鹿とも違った反応を見せた。
熊は襲いかかってきた。
鹿は逃げようとした。
しかし人間の少女は、半魚人を見て驚いた顔はしたものの、にっこりと安心させるように微笑むと、ゆっくりと腕に下げていたバスケットから、パンを取り出した。
産まれて初めて半魚人は他人から話しかけられた。何と話しかけられたのか、その意味は当然わからなかった。ただ、少女のその声が、優しいということだけはわかった。
食うつもりで少女の前に姿を現した半魚人は、戸惑った。襲いかかってくるなら返り討ちにする、逃げようとするなら捕まえる。しかし微笑む人間の少女には、何をしたらいいのかわからなかった。
後から知ったのだが、半魚人は醜い姿をしていた。16本の牙が口から飛び出して生え、緑色の皮膚はどろりとした粘膜に覆われ、窪んだ目は腐ったような色を浮かべている。
少女はその時13歳だった。その国のかわいい民族衣装に身を包み、頭には白い花飾りのような帽子をかぶっていた。見た目がそれほど違いながら、半魚人には少女が自分の同族のように思えてしまった。
戸惑っていると、少女がパンを一口齧ってみせた。どうやらそれが食べ物だということを教えようとしているようだった。
差し出されたパンをおそるおそる長い爪の先で受け取ると、少女がそうしてみせたように、齧ってみた。丸くて固いパンを齧るのに、16本の牙が邪魔だった。その時初めて自分の口が、必要によって形を変えられることを知った。
牙を収めると、人間と同じような臼のような歯が内側にあった。今までも咀嚼する時にはそれを使っていたことに改めて気づいた。
パンは産まれて初めて食べる『綺麗な味』がした。血とも肉とも関係のない、いつも沼の中から見上げている、よく晴れた青空のような味だった。
◆ ◆ ◆ ◆
少女は毎日のように沼へやって来た。
彼女がよく口にする「カレン」という言葉が、彼女の名前だと気づくのにそう時間はかからなかった。
カレンと接するようになって、半魚人は自分の高い知性にようやく気がついた。
「カレン」
半魚人は彼女と同じ言葉を使い、聞いた。
「なぜ僕を怖がらない」
ソーセージを挟んだパンをむしゃむしゃと食べる半魚人と並んで沼のほとりに腰かけて、少女は笑った。
「あら、グレアム。怖がらないといけなかった?」
森が青空を丸く切り取って、太陽が緑色の光を沼の上に浮かべていた。
◆ ◆ ◆ ◆
あっという間に四年が経った。
カレンは変わらず毎日のように会いに来てくれた。
いつものように、嬉しい気配がしたので、半魚人は水面から顔を覗かせた。
いつもの17歳のカレンの眩しい笑顔がそこにあった。いや、なぜだかその日はいつもよりも眩しさが強かった。
「グレアム」
自分がつけた半魚人の名を、カレンは呼びながら、報せた。
「わたしね、結婚するのよ」
グレアムには意味がわからなかった。なので、聞いた。
「結婚とは何だ?」
「結婚というのはね、人生で一番の幸せよ」
言葉の通り、今までで初めて見せるほどの幸せそうな笑顔で、カレンは教えた。
「運命のひとと結ばれるの。相手はずっと憧れてた詩人のグラハムさまなの」
運命のひと──
難しい言葉はまだわからなかったが、それは自分のことじゃないのかとグレアムは思った。それになぜ、その相手が自分とよく似た名前なのかがわからなかった。
「じゃあ……」
頭に浮かんだ言葉を口にしてみた。
「僕とも結婚してくれ」
冗談を聞いたように、聞き流すようにカレンはくすっと笑い、答えた。
「そうね。グレアムが人間になれたら──ね」
◆ ◆ ◆ ◆
グレアムは自分が何なのかを知らなかった。
ある時気づいたら沼の中にいた。他の魚とは随分おおきさが違っていたので、自分は半魚人なのだと自覚した。もっともそんな言葉は知らなかったが。
どのぐらい言葉を知らず、ただ食べて生きるだけの生活をしていたのか、覚えていない。彼は最強の生物であり、周囲はすべて自分を生かす環境だった。食べ物、空気、光──それ以外は何もいらないと思っていた。
そこへカレンが現れた。
彼女はさまざまなことを教えてくれた。言葉を教えてくれ、世界には環境以外にも『仲間』というものがあると教えてくれ、自分の存在と同じくらい、あるいはそれよりも大事なものがあることを、身に沁みるほどに感じさせてくれた。
しかし彼はまだ、自分について知らないことがあった。
結婚してからもカレンは三日に一度は会いに来てくれた。
バスケットに入れて持って来てくれたパンを食べ終えると、グレアムはカレンに聞いた。
「どう?」
カレンは驚きに目を白黒させながら、笑った。
「すごいわ、グレアム」
彼には変身能力があった。カレンの目の前で、練習していた通り、カレンに変身してみせたのだった。彼女は口に手を当ててびっくりしてから、目のやり場所に困った表情をした。
「ねぇ、私と同じ姿じゃなくて、もっと違う人間にも変身できる?」
「違う人間がいるのか?」
グレアムは首をひねった。
「見たことがないからわからないな」
「グレアムは男でしょう? 声も男だし、股のあいだについているのが男のひとと同じだもの。だったらちゃんと男のひとに変身しないと変よ」
「どうすればいい?」
「教えてあげる」
カレンの言う通りにグレアムは自分のかたちを変えていった。
色々と失敗を繰り返したのち、遂にカレンの言うとおりのかたちに変身することができた。
「明日、お父さんの服を借りて持って来てあげる」
◆ ◆ ◆ ◆
グレアムはカレン以外の人間を見るのが初めてだった。こんなに騒々しい『街』という場所があり、こんなにも多くの人間がそこに存在していたことを知って、驚いた。
そして何より驚いたことは、こんなにたくさん人間がいるのにカレンだけが特別だということだった。
不思議なことに、半魚人の姿では陸ではエラ呼吸が切れて、沼から離れることができなかったのが、人間の姿になると肺呼吸ができる。カレンに導かれて、グレアムは街の色々なものを見て回った。知らない人間のことは怖かったが、人間の作ったさまざまな珍しいものを見て、何よりカレンと一緒に歩いていることが、この世の春と思えるほどに楽しかった。
噴水の傍を通った時、石畳の上を歩いていた白い鳩の群れが一斉に飛んだ。
森にも鳥はいくらでもいるが、白い鳥はいなかった。初めて見る光景に、グレアムは声を漏らした。
「あれはうまそうだ」
「だめよ」
カレンが苦笑して、彼を止める。
「白い鳩は幸せの象徴なのよ。食べたりしたら不幸になっちゃうわ」
「カレンはあの鳥を愛してるの?」
「そうね。愛してるわ」
子どもに教えるように、カレンはそう言った。
「じゃ、食べない」
カレンの愛するものを、グレアムは愛したいと思った。
「僕もあの鳥を愛してる。……でも、あの鳥のどこがカレンは大好きなんだ?」
「空を飛べるなんて羨ましいし、美しいものが大好きなの」
カレンはそう言うと、なぜか顔を少し曇らせた。
「結婚も、あんなふうに美しければいいのに……」
その時、ふいに後ろから話しかけられた。
「おや、カレン。そのひとは誰だい?」
振り返ってみると、背の高い老紳士がそこにいた。初めて知らない人間から話しかけられ、グレアムは怖がって、カレンの後ろに隠れようとした。しかしじぶんのほうがおおきすぎて、隠れきれない。
「あっ。ウィルさん、こんにちは」
挨拶をしてから、カレンは少し考える顔をして、答えた。
「この方はグレアム・マーマンさん。その……お友達なの」
「ご主人の知り合いなのかな?」
「主人は……グラハムとは、面識がないわ」
そう言って、カレンは少し寂しそうな顔をした。
「私のお友達よ」
老紳士は微笑みの中に怪訝そうな色を浮かべた。グレアムには何もわからなかったが、それはカレンの不貞を疑っている表情だった。
「こんなに近くに人間の街があったのか。なぜ、カレンの他の人間は、沼へやって来なかったんだろう?」
街を並んで歩きながらグレアムが聞くと、カレンは少し恥ずかしそうに答えた。
「私は変わり者だから。みんなは不気味な場所だって言って、近づきたがらないのよ」
「カレンはこの街で暮らしているのか。結婚をして、幸せに」
グレアムがそう言うと、カレンはうつむいてしまった。
「どうした、カレン?」
「私の夫──グラハムはね」
なんでもないことのように笑いながら、カレンは打ち明けた。
「私と結婚したのに、毎日のように他の女の子と遊んでるの」
グレアムはもう食べて生きるだけの半魚人ではなかった。カレンの言葉の意味がすぐにわかった。
結婚とは運命のひとと結ばれることで、その二人は永遠の愛を誓い合うことだと理解していた。
自分もカレンとそうなりたい。そう強く思っていた。だからグラハムという男のことを許せない気持ちが、ふつふつと胸の奥から湧き上がってきた。
「君の夫に会いたい。会わせてくれ」
カレンは驚いて隣を振り向くと、泣きそうな顔になりながら、首を横に振った。
「だめよ……! 私、グレアムに街を見せてあげたかっただけだから……。夫に何もしないで!」
一体何をすると思っているのだろう? とグレアムは首を傾げた。街を歩いている人間を見ても、食べたいとは思わない。人間は食糧ではなく、カレンと同じ仲間だとしか思えない。
「大丈夫、食べはしないよ」
殴るつもりではいた。
その時、人混みをかき分けるように、凛々しい男の大声が、カレンの名前を呼ぶのが聞こえた。振り返り、彼女が小声で叫ぶ。
「グラハム……!」
グレアムもそちらを振り返り、見た。
二人の後ろに、フリルのたくさんついた白いポエットシャツに身を包んだ、長身の美しい男が腰に手を当てて立っていた。
「カレン……。その男は誰だ」
グラハムの美しい顔が憎悪に歪む。
「ウィルさんから聞いて探し回ってみたら……本当にオマエ、そんな男と──」
「彼はただのお友達よ!」
「友達というにはあまりにも……そいつはオマエ好みの美男子すぎるぞ!」
グレアムはグラハムを見て驚いた。名前は似ているが顔は少しも似ていない。しかし、白いポエットシャツにふんだんにつけられたフリルが、魚のヒレのように見えたのだ。『コイツは僕と同族なのか? 半魚人なのか?』と考えてしまった。
同族だからといって仲良くするとは限らない。同族だからこそ容赦なく闘ってもいい。人間はカレンを見てわかる通り、弱いものだ。16本の牙で刺しただけで壊れてしまいそうなものだ。
しかし同族なら手加減は必要ないし、正体を隠す必要もない。
「そんな女だとは思わなかった」
グラハムがカレンを罵倒する。
「貧乏人の娘ならずっと私の世話をしてくれると思って結婚し、貞淑な妻だと思って養ってやっていたのに、こんな男と──」
グレアムがイケメンの変身を解いた。
どろりとした緑色の、鱗だらけの顔から、16本の鋭い牙が飛び出す。
彼を指さすグラハムの動きが固まった。
周囲にいた街の人間たちが悲鳴をあげた。
「化け物!」
「化け物よ!」
「な……! なんだ、コイツは!」
指をさしたまま、グラハムが震える声でわめく。
「カレン! オマエ……化け物と浮気してたのか!?」
カレンは振り向き、グレアムが半魚人の正体をさらしているのを見ると、かばうようにその前に立ち塞がった。
「彼は……グレアムは化け物じゃないわ! 見た目だけで決めつけないで! とっても心優しいのよ」
グレアムは戦意を喪失していた。
グラハムの様子から、彼が同族でないらしいことを知った。
何より、自分が正体をさらせば、グラハムはカレンを守ろうとするだろうと思っていた。しかし守るどころかさらにカレンを遠ざけようとした。
わかってしまった、グラハムがカレンを愛していないことが。それで戦意などなくなってしまった。欲しいものが同じでない相手とは闘う意味がない。
なぜ周囲の人間たちが、自分を見て怖がっているのかもわからなかった。人間は皆、カレンと同じく、自分を見て微笑むものだと思っていた。しかし一度だけ食ったことのある鹿のように、誰もが皆、自分を怖がり、逃げようとしている。
呼吸が苦しくなってきた。半魚人に戻るとやはり、主にエラで呼吸することになるようだ。
再び人間に変身しようとして、思いとどまった。
人間よりも、カレンが愛していると言った、あの鳥になろうと思った。
白い翼をおおきく広げた彼を見て、人間たちの怯えが消えた。
「あ……」
「ああ……」
「天使さま?」
「大天使さまだったのか!」
一転、手を合わせて自分を拝みはじめた人間たちを見て、グレアムは呆れるしかなかった。確かに半魚人の自分は醜い。しかし見た目でこれほどまでに反応を変える人間たちに軽蔑を覚えた。やはりカレンだけが特別だった。
「どうです。凄いでしょう?」
グラハムも態度を一変させて、周囲に自慢をしていた。
「私の妻カレンは、天使と友達なのです。さすがはこの私の妻だ!」
眠い……
春は眠すぎる、仕事中に寝てもすぐ目が覚めてしまうし──と作者は思った。グレアムはそんな作者のことも軽蔑した。
そして思い出した。
白い翼を広げたこの姿こそ、自分の本当の姿だったことを。
自分を見つめて呆然となっているカレンを振り返ると、グレアムは言った。
「カレン、君は幸せじゃなかったんだね?」
「ううん。幸せよ」
瞳をキラキラさせながら、カレンが答える。
「こんな綺麗な天使さまと友達だったなんて、なんて幸せ」
「カレン」
天使は輝きを背にしながら、言った。
「僕と結婚してくれ」
「いいの?」
カレンは光を浴びながら、微笑んだ。
「こんな人間の私でよければ……喜んで」
「行こう。思い出したんだ。君みたいな綺麗な心の人間しか行けない国がある」
「じゃあ私、行けないわ。綺麗なんかじゃないもの」
「そんな君だからこそ、行けるんだよ」
グレアムがカレンを抱きしめる。
「さぁ、行こう」
「連れていって」
カレンもグレアムの胸に掴まった。
「ここじゃないなら、どこでもいい。天国でも、地獄でも」
グレアムは翼をはためかせると、浮き上がった。
カレンを抱いて、眩しい空へと舞い上がっていく天使を、人間たちは口を開けて見送った。
「本当は、ずっとこうしたいと思ってた」
大空を舞いながら、グレアムが囁く。
「でも君が幸せなのなら、それを奪っちゃいけないと思ってた」
「あなたと初めて出会った時──」
カレンは打ち明けた。
「怖かったわ。でも優しくしてあげれば食べられはしないって思ったの。私の足じゃ逃げられないし、食べ物をあげれば襲ってはこないだろうって、思ったの。あれは防衛のためだったのよ」
「でもあれから毎日のように会いに来てくれたね」
「捨て猫を見つけてお世話したくなったみたいなものだわ」
「それがどれだけ嬉しかったか、どれだけ僕を育ててくれたか──わかる?」
「お世話してるうちに──ほんとうに好きになっちゃったの、グレアムのこと」
「グラハムよりも?」
「私がバカだったわ」
カレンがグレアムの頬にキスをした。
「見た目なんかで好きになって……。グレアムのほうがよっぽど優しいのに」
空の彼方に門が見えてきた。
入れる者はごくわずかだという天国の狭き門を、翼をすぼめてグレアムは通った。
「王子!」
「王子のお帰りだ!」
その向こうには光の世界があって、大勢の美しい天使たちが二人を迎えた。
暗い沼の中で、半魚人はそんな夢を見ながら、二度とやって来てくれなかった人間の少女を想いながら、あまりの飢えに遂に意識を失った。




