彼女が恋に落ちた音(4)
実家のドアを叩くと、いつものように母が出迎えてくれた。
「おかえり、最近遅いわね。シフト変わったの?」
もう大学生なんだから、放っておいてくれよ。そう言いたい気持ちをぐっと我慢する。
「友だちとしゃべってただけだよ」
「彼女とか… … ?」
「違うよ。むしろ僕は当て馬。恋愛相談に乗ってるだけ」
「ふうん。片思いなんだ」
「ちがうって」
母親という生き物は、どうしてすぐに息子の心に土足で入り込もうとするのだろうか。
遠慮する心を少しは持ち合わせて欲しい。そのくせ、妙に察しが良いところがさらにムカつく。
「僕、課題あるから」
「ふうん、課題だなんて珍しい」
含み笑いを浮かべる母親を振り切って、僕は自室の扉を固く閉ざした。
そう、僕と春香は友だち。親友と言ってもいいかもしれない。
だから、僕が抱く気持ちは恋ではなく友愛だ。そうでないと困る。そうでないと僕のこの気持ちは、どこにも着地することができない。
このもやもやとした感情は、結城先輩に対する不信感から生れたもので、春香との時間が減ってしまうことから生れた喪失感によって増長された。
無理やりにそう思い込ませて、頼まれたデート用のコーディネートを考え始めた。
どんな服が似合うだろうか。春香には、白や薄いピンクなどの淡い色が良く似合う。パンツスタイルよりも、絶対にスカート。中でもワンピースが一番似合っていた記憶がある。
うん、絶対にそれが一番だ。
結局、以前に春香が来ていた白いニット生地のワンピースを提案することにした。僕は優しいから、誕生日にプレゼントしたイヤリングもつけるよう提案して、髪型の候補のリンクも添付してあげた。
だけど、生まれてはじめて送信ボタンを押すのが惜しかった。
そこでようやく、この気持ちが恋だと気が付いてしまった。
その日の空は、眩暈がするほどの快晴だった。秋晴れ、という言葉がふさわしい。台風でもやってきて、中止になればよかったのに。目の前にいる春香には言えないことを考えてしまう。
今日の春香は、誰が見ても世界で一番可愛い。
僕が選んだ白いニット生地のワンピースを身に纏い、僕が似合うと提案した髪型にセットした。耳に光る控えめなイヤリングは、僕が彼女の誕生日にプレゼントしたものだ。
春香は今日、結城先輩に告白する。
きっと上手く行くだろう。結城先輩が恋人と別れたことはリサーチ済みで、基本的に来るものは拒まない。去るものを追うかどうかは、まだ知らない。そのあとは、春香と結城先輩次第だ。
グラス大量破壊事件で泣きそうな顔をしていた春香はもういない。恋する乙女は、その可愛さに磨きをかけた。
「あぁ、緊張する。大丈夫かな?服は風太が選んでくれたから、間違いなくかわいいんだけど、メイクとか変じゃないかな?」
「全部大丈夫だよ。安心して」
「ほんとにほんと?お世辞じゃない?」
春香は不安を露わにして、同じようなことを繰り返し尋ねる。
僕が「可愛くない」と言えば、結城先輩に告白するのを取り止めてくれるのだろうか。
そんな意地悪なことを何度か考えて、すべて追い払った。子供じみた理由で、彼女を苦しめる意味はない。そんなことは、僕自身も望んでいない。
幸せになって欲しい。相手が誰だろうと、春香の幸せが一番大切だった。
「本当に本当。大丈夫だよ、ちゃんと可愛いから」
春香はようやく目じりを下げて、安心したように笑った。ラメが入ったアイシャドウが、太陽の光を反射させている。
「風太、大好きだよ」
いつも通り春香は、価値の暴落した「大好き」を差し出してくれた。
「だから― ― 」
「でも、もう大好きは言わないよ」
「え?」
時間が止まったのかと思った。もしくは、聞き間違いかと思ってしまった。何度言っても聞き入れなかった僕の忠告を、春香はいまになってようやく受け入れようとしている。
「もう、大好きは結城先輩にしか言わない。だから、最後」
春香はようやく「大好き」の価値を大切にするようになった。
「そっか。うん。それが正しいよ」
「うん、ありがとう。もしフラれちゃったらさ、そのときはちゃんと風太が慰めてね」
「きっと上手くいくから大丈夫だよ」
それに、僕はバイト辞めることにしたんだ。だから、もう隣にはいられない。
その言葉は告げないでおいた。余計なことを言えば、春香は不安になるかもしれない。
いまはただ、結城先輩のことだけを考えていればいい。
春香は僕のもとから離れていく。
ひな鳥のように、すぐうしろをついて歩いていた春香は、もう自分の力で飛べるようになったんだ。 ― ― がっちゃんっ
あの日、僕は春香が恋に落ちる音を聞いた。
でも、あの音はそうじゃなかった。
あの音は、僕が恋に落ちる音だったんだ。
あの日、落とされた段ボールの中身は粉々になって割れていた。すべて跡形もなく、砕け散った。
あぁ。僕の恋心は、最初からすべて砕け散っていたじゃないか。
「じゃあ、行って来るね。風太、いろいろありがとう。告白が成功したら、連絡するね。ダメだったときも連絡するけど」
「うまくいったときは連絡しなくていいよ。せっかくなんだから、楽しんでおいで」
「うん、わかった。じゃあ」
春香は白いニット生地のワンピースの裾を翻して、離れていく。
もう二度と戻らない。僕が春香の背中を押したんだ。
もう二度と、振り返ってはくれない。
「春香。僕は、大好きだったよ」
絶対に聞こえない距離まで離れたとき、僕は小さく呟いた。ずっと大切に秘めていた価値が高騰した「大好き」だ。
春香の背を映した視界が、涙で滲む。
心の中で大好きを繰り返した。
何度も、何度も、繰り返し告げた。
どうか、僕の中にある「大好き」の価値が暴落しますように。そう願って繰り返す。
振り返らない春香を、そっと見守る。曲がり角に差し掛かったとき、春香はこちらを振り返った。
大きく手を振り、嬉しそうに笑う。遠すぎて表情は識別できないが、確かに笑っているように思う。
僕は柄にもなく、手を大きく振り返して精一杯の笑顔を浮かべた。泣いていることに気が付かれないように、なるべく大げさに笑った。
好きだ。
好きだ。
大好きだ。
はやく僕の「大好き」の価値が暴落して、意味を持たなくなりますように。
そして、春香の「大好き」の価値が、結城先輩だけのものであり続けますように。
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