彼女が恋に落ちた音(3)
アイスコーヒーのグラスから滴る水滴が、紙製のコースターを湿らせる。その様子は、涙を流しているようにも見えた。
「ねぇ、風太。聞いてよ」
「なに、どうしたの?さっきからずっと聞いてるけど」
グラス大量破壊事件から、もう五か月近くの日々が経っていた。結局、僕らの店長はその犯行を咎めることはなかった。もちろん、買取りもなしだ。
僕たちは、バイト終わりにこうやってよく談話をするようになった。週に一度か二度。多いときは四回くらい馬鹿な話を楽しむ。場所はいつも同じチェーンのコーヒーショップ。
安くて美味しい、学生の味方。
そして、春香は僕にとって最も落ち着く女友だちになっていた。
「ねぇねぇ、聞いてよ。来週、結城先輩がランチに行かないかって。ちょっといいところのイタリアンなんだって、ふふふ」
「よかったじゃん」
少しだけ、胸がちくりと痛んだ。一番の女友だちだからこそ、結城先輩の恋人になってしまえば、こうやって馬鹿な話ができなくなる。それが少し惜しかった。
「それでね。風太に服を選んで欲しくて。わたし、あんまりセンスないから」
「別に、春香のセンスが悪いと思ったことはないけど。それに、僕自身もセンスがあるとは思えないしね」
「でも、風太がこの前プレゼントしてくれたイヤリングすごく可愛かったよ。お父さんとお母さんも褒めてくれたし、結城先輩も可愛いって言ってくれたもん」
「それは、そうだけど… … 」
「ほらね。風太は気が付いてないだけで、見る目もセンスもあるんだよ」
客観的に見ても、春香はけっこう可愛いと思う。とびきり美人というわけではないが、愛嬌があって守りたくなる。それは内面的な部分においても言えることだ。
だから、僕がプレゼントしたイヤリングがセンス良くて可愛いんじゃない。
イヤリングを嬉しそうにつけて自慢する春香が、愛らしくて可愛いのだ。だからみんな褒める。結城先輩に至っては、流れるように誉め言葉が生み出される人種なのだ。誰にだって言うだろうし、なんなら道端の雑草を褒めることも容易いに違いない。春香には悪いが、結城先輩はそういう人なのだ。
確かに、そういう女癖の悪さに目を瞑れば、文句の付けようもないイケメンで魅力的な人だ。それでも別に不釣り合いではないと思う。それに、結城先輩の元恋人たちは系統や容姿を含め、実に幅広い。
「いっそのこと、結城先輩に直接聞けばいいんじゃない?」
「それができないから、こうやって頼んでるんじゃんか」
春香は頬を膨らませながら、アイスコーヒーをストローで吸った。その様子は、グラス大量破壊事件の加害者として泣きそうな顔をしていた少女とは思えないほど生き生きとしている。
「わかったよ」
僕はお手上げ、という風に両手をあげた。
その様子を見て、春香は満足そうに歯を見せて笑った。
「ありがとう。風太、大好きだよう」
春香は気軽に「大好き」という言葉を使う。それは飴玉を手渡すことと同じくらいに、簡単に差し出される。
僕もその言葉を何度も貰った。そのたびに気持ちが膨らんでいったけど、心のこもっていない「大好き」はあっという間にしぼんでしまう。しぼむたびに、寂しさが心を占拠した。
「大好きは簡単に使っちゃダメだよ。ほんとうに大好きな人にしか使っちゃダメなんだ。あんまり多用しすぎると、その価値が下がるからね」
僕はそうやって何度も言い聞かせてきた。しかし、何度繰り返しても春香は反省の色を見せない。
しまいには、
「大好きな人に「大好き」を言っちゃダメなんだったら、価値なんて大暴落でいいよ」なんて言い出す始末だ。
僕はアイスコーヒーを飲み干して屈託なく笑う春香を恨めしく見つめた。
僕が欲しいのは価値のある「大好き」で、それ以外はいらない。
僕は、春香よりも長い時間をかけてコーヒーを飲む。いつも最後は氷が解けて、味の薄いアイスコーヒーになってしまう。正直、作ってくれた店の人には悪いと思ってる。
でも、その行為は意味がないものじゃない。この幸せな時間が少しでも長く続けばいいと願った上での行為だ。そんな気持ちの一つや二つ、誰にだってあるだろう。友だちと過ごす時間が長く続いて欲しいというだけだ。
そして、心のどこかで結城先輩が春香を拒絶することを願っている。そのことを知ったら、春香は怒るだろうか。それとも、泣いて「大嫌い」と言うだろうか。
そんなことは、どちらでもいい。
とにかく、大切な友だちを結城先輩にだけは譲りたくなかった。
僕が知る限り、グラス大量破壊事件から結城先輩の恋人は七回変化していた。
そのうち、百円ショップで何らかのお泊りグッズを購入したのは六人。結城先輩自身がレジに持ってきたことが一回。計七回だ。事件当日に出会った身長の高いスタイリッシュな美人。その二週後にやってきた可愛らしい小犬のような女の子。さらにその三週後にボーイッシュでショートカットがよく似合う元気な人。それから、少しふくよかなで小柄な女の子。あとは、見るからに社会人の女性もいた。僕が気付いていないだけで、もっと高頻度で移り変わっていたのかもしれない。
――ただの友だち。
そう片付けるには親密すぎる距離感。店に来店する女性たちが結城先輩を見つめる視線。
あれは、ただの友だちに向けるものではなかった。
もちろん、そのうち何度かは春香も遭遇している。
それでも、春香の気持ちは変化せずに結城先輩が好きなままだ。見ているこちらが苦しくなるほどに、恋焦がれてしまっている。
「どこが好きなの?」と尋ねれば、「ぜんぶだよ」と答える。
「ちょっと女癖悪いよ」と正直に言ってしまえば、「人のいい部分をたくさん見つけて好きになれる素敵な人なんだよ」と返してきた。
春香はどうしようもなく、一途に結城先輩だけを見つめている。
僕以外の同期の何人かが、春香に言い寄った時期があった。食事や軽いショッピングに行かないか。その程度の誘いだ。しかし、春香は決して首を立てには振らない。
「わたし、どうしても好きな人がいるんだ。だからごめんね」
そう繰り返すので、同期の大半はその相手が僕だと思い込んでいるらしい。確かに、春香と僕はよく二人で出かける。そのほとんどは、結城先輩の会話で終わるんだけど、周囲にはそれが伝わっていないようだった。
本当に残念だけど、春香が想う相手は僕じゃない。
僕に与えられるのは、価値が暴落しきった「大好き」だけだ。形だけで、中身が伴わなかった「大好き」。受け取るたびに、胸が苦しくなった。




