彼女が恋に落ちた音(2)
ガラス破壊事件を引き起こした旨を店長にメールで伝えておくように提案して、僕は店内に戻った。
時間帯のせいか、お客さんはまばらになっている。
僕は安全確認のために、ガラス破壊事件の発生現場へと向かった。
店内に流れている音楽は、ありきたりなラブソング。背景に置かれているのは、百円クオリティの造花。手にしている商品は、安っぽさが隠しきれていないプラスチック製の花瓶だった。
それでも、そこに結城先輩という要素を加えさえすれば、一つの物語が完成する。長年想い続けた最愛の女性にプロポーズをする映画の主人公と言ってしまっても過言ではない。
これなら、春香が見とれていたのにも頷ける。男の僕でさえも、結城先輩は魅力的でつい目で追ってしまう。
「春香ちゃん、大丈夫だった?」
「はい。中身は全滅でしたけど、春香は何ともないです」
「それはよかったよ。中身なんてどうとでもなるからね。最悪のときは、僕と君と春香ち
ゃんで折半しよう」
「ありがとうございます」
結城先輩というのは、見た目だけでなく中身までイケメンだった。段ボールの中身の心配よりも先に、春香の心配をする。それがまた、憎らしいまでにジェントルマンだった。
綺麗に整えられた指先が、百円の商品を撫でるように陳列していく。それだけの動作で、世の女性の大半が彼のことを好きになってしまうんじゃないかと、僕は割と本気で思っている。
「つばき」
背後から声をかけられた。
それは、大人びた女性の声だった。
振り返ると、声から想像していた通りの女性が立っている。ノースリーブのワンピースにレザーのジャケットをスタイリッシュに着こなす麗しい人だった。僕の大してあてにならない推測によると、大学四年生とみた。
「瑞希さん、わざわざ遊びに来てくれたんですか?あんまり目新しいものなんてないで
すよ」
「つばきが働いてる姿を見に来ただけだよ。それに、今日は泊まっていいんでしょ?お
泊りセットも買って行こうかなって」
「瑞希さん、決まったところのシャンプーしか使わないじゃないですか。百均のやつなん
て合わないでしょう?」
「バレちゃった?ただの口実。つばきに会いに来ただけだよ」
つばきと呼ばれたのは結城先輩で、瑞希さんと呼ばれたのは大人びた女性だ。内容から察するに、恋人。もしくは褒められた関係ではないかもしれない。どちらにせよ、そういう間柄ということだ。
「この中身を出し終わったら、今日はあがりなんです。だから、ちょっとだけ待っててく
ださいね」
結城先輩は、優しい手つきで瑞希さんの頭を撫でた。ガラス細工に触れるような丁寧さを持ち合わせながら、とても慣れた動きだった。
僕はそれを、「何を見せられているんだ」と冷めた気持ちで見守っている。
すると、パタパタという足音と共に、小さな体が割って入ってきた。
少し息を切らした春香は、不器用にひきつった笑顔を浮かべて言った。。
「結城先輩。わたし、それ代わりにやっておきますよ。あとは造花だけなんで、ちょちょいのちょいです」
結城先輩に向かって親指を立てたあと、春香は瑞希さんを横目で確認した。
「ほら、彼女さん待ってますから。任せてくださいよ、ね?」
明るく告げる様子が、見ていて痛々しい。
「春香ちゃん、ありがとう。今度また埋め合わせさせてね」
結城先輩はそう言って、春香の頭も優しく撫でた。その動作に迷いや躊躇いはなかった。 ―― このくそ野郎、蹴り飛ばしてやろうか
そんなできるはずのない妄想を振り払い、僕も軽く会釈をした。結城先輩は僕なんかにも優しい笑みを浮かべて、手を振ってくれた。
僕は、結城先輩が大嫌いだと知った。
結城先輩の女癖の悪いところが。仕草の一つ一つが「大好き」を軽率に告げているところが。彼の所作のすべてが、たまらなく不快だった。
大切な人がいるというのに、誰にでも優しく接する。そんな風だから、すぐに隣に居る女性が移り変わるんだ。
たった一人が大好きで、大切でたまらない。誰にも譲りたくない。もどかしいくらいの焦燥を先輩は知らないんだ。
いままでは先輩に対して、特になんとも思ってこなかったのに、春香の気持ちに気が付いてから嫌悪の気持ちが溢れてきた。黒く濁った感情は、決壊した川のように激しい勢いで流れ出そうとする。しかし、震える春香の手を見て、すっかり塞き止められてしまった。
苦しいのも、悲しいのも、もどかしいくらいの焦燥も、
すべて春香のものだ。
春香だけのものだ。




