少女
夢を見る。毎日のように見る夢。
「春太君」
顔も朧げな少女が俺の名前を呼ぶ。差し伸べられた手を掴もうとすると、少女が遠ざかる。
「春太君」
……目を開けると、見慣れた天井。
「はぁ…またか」
身体を起こして、目元を袖で乱暴に拭く。なぜかは分からないが俺は眠っている間に泣いているらしく、朝起きると枕が冷たくなるほどに濡れていることが多々ある。そういう体質…と思うようにしていたが、どうにも小学校高学年くらいから毎日のように見るあの夢が原因なのではないかと17歳になってようやく思い始めた。
「…準備しねーと」
布団を捲ってベッドから出ると、冷たい空気に全身が晒される。季節は春といえど早朝は普通に寒い。寝巻きを脱ぎ捨てて、壁にかけられた制服を着る。
勉強机の上、昨日置いてから一度も開けていない鞄の上に置かれたマフラーを手にとって少し考える。
「一応、まだ寒いしいるか?」
寒いとは言ったが、すでに4月も半ば。窓の外は暗いが次期に陽も登る。現在の時刻が5時30分なので30分もしないうちに東の空が明るくなってくるはずだ。流石に日が照ってからは気温も上がり、マフラーを巻いていると暑く感じる。
「まあせっかく貰ったしな、もうちょっとだけ付けてくか」
先ほどまでの考えを放棄して、雑にマフラーを首に巻く。鞄を手にとって部屋を出た俺は急いで家を後にした。
「やべえ、ちょっと寝すぎたな」
まだ薄暗い道を早歩きで急ぐ。朝飯は家では食べない。別に所属している部活が朝早いわけではない…別の場所で俺の朝飯を作ってくてる奴がいるのだ。親父もお袋も、ついでに妹からも朝飯はそこで食えと言われている。別に家族仲が悪いわけではない。むしろその辺の家庭と比べれば異常なほど仲は良い。今でも両親はよくデートに行ってるし、妹と俺は中学3年まで一緒に風呂に入っていた。まあ、それは妹が一緒に入りたがったからだけど。
けたたましい音を立て、いくつもの漁船が港を出て行く。俺の住む月御町は山と海に囲まれた港町だ。子供より老人の方が数が多い、どこにでもある片田舎。特産品を使ったB級グルメを大々的に売り出し、シャッターの多かった商店街は休日になると鬱陶しいぐらいに人で溢れる。
海と住宅に挟まれた道路を進み、とある木造の一軒家の前で立ち止まる。町の平均年齢が高いからか、この時間にはすでに電気の付いている家がちらほらあるが、玄関先まで明るい家はここくらいだろう。
学生服の内ポケットから合鍵を取り出して鍵を開け、声もかけずに中に入る。無造作に靴を脱いでから、隣で綺麗に並べられた靴を見て自分も揃える。狭く入り組んだ廊下を迷わず進み、立て付けの悪いドアを開けて台所に着くと溌剌とした声が投げかけられた。
「おはよう春太!」
「おう、おはよう」
「早く食べないと遅刻するよ、ほら座って座って」
そう言って彼女、佐保 千紗姫は自分の座る横に置かれた椅子を叩く。俺は指示通り千紗姫の横に座ってマフラーを取ってから箸を手にとった。
「マフラー暑くないの?もう冬じゃないよ?」
「家出る時は寒かったんだ」
「ふーん」
机に置かれているご飯やおかずはどれも彼女の手作りであり、ついでに言えばマフラーも彼女の手作りだ。
「春太今日何時終わり?」
「7限まである」
「そ、じゃあいつものとこで待ってる」
「ん」
何気ない会話。側から見れば付き合いの長い親友か、はたまた恋人のように見えるだろうか?しかし、俺と千紗姫はそういう関係じゃない。俺がこうして千紗姫の作った朝飯を食べに来ている理由…というよりは彼女を迎えに来ている理由はまた別にある。
「そういえばまだ見てるの?」
「なにが?」
「夢、女の子の出てくる夢見てるんでしょ?」
「なんか言い方に引っかかるな、まあ見てるけど」
「どう、なんか変わった?顔とか見えた?」
「全然、ただでさえ起きたらほとんど思い出せなくなるのにいちいち気にしてられるか。というかなんだよ、またバカにするのか?良い歳こいて夢見て泣いてるって」
「あっはっは、そんなことしないって!」
「どうだか」
「それで、どうなの?念願の彼女できそう?」
「……」
頬に米粒をつけた千紗姫は、ニッと笑って俺を見た。
「できるわけないだろ、ただでさえ毎日お前と登下校してんだ。クラスの連中にも誤解されてるよ」
「…そっか…ごめん」
「…いや、まあ気にするなよ。俺も悪かった」
気まずくなる。千紗姫は露骨に悲しそうな顔をしてほうれん草のおひたしに箸を伸ばす。
「…ご馳走さま」
「もう良いの?」
「うん、美味かったよ」
「そう」
場の空気に耐えきれず、残ったご飯をかけこんだ俺は一足先に席をたった。
「……」
洗面所の鏡に映る自分を睨みながら歯磨きをする。女友達の家に自分の歯ブラシがあることを、世間一般的に考えて普通か普通でないかでいうと、きっと普通ではない。歯ブラシどころか、一応この家には俺の着替えも布団も…というか専用の茶碗や箸に至るまで置かれているのだから、この異常性が分かるだろう。
「はぁ……」
歯を磨いても、口をゆすいでもなにか嫌なものがこべりついたような感覚がする。ため息混じりにそれを何度も吐き出していると後ろの扉が開かれて千紗姫が入ってきた。
「春太?その…さっきはごめんね?」
「もう良いよ、お前のせいじゃないんだから」
「でも、ごめん」
「…」
千紗姫は俺の背中に体重をかけてもたれかかる。学生服に身を包んでいると言ってもやはり女子。なんというか、ムズムズする。
「い、いいって言ったろ」
「うん…」
数分動かなかった千紗姫は落ち着いたのか、隣で歯を磨き始めた。
「…なあ」
「ん?」
「学校、楽しいか?」
「んん」
「そっか…早くしろよ、電車に乗り遅れたら遅刻確定だぞ」
「んー!」
「うし、じゃあ行くか」
「うん」
準備を済ませ、俺と千紗姫は玄関を出る。千紗姫が鍵を閉めてから、右手を俺に向かって差し出してきた。
「はいはい」
いつも通りその手を握って歩き出す。時刻は8時を少し過ぎたあたり、道端では近所のおばあちゃん達が座ってお喋りに興じている。
「あら2人とも、いってらっしゃい」
「い、行ってきます」
「……」
千紗姫は緊張気味に挨拶をする。別に俺と手を繋いでいるところを見られるのが恥ずかしいわけではない。俺は恥ずかしいので、努めて無視をするが。
「…」
「…」
最寄駅、というより学校に着くまでの間、俺と千紗姫はほとんど会話をしない。恐らく喋りかければちゃんと返してくるし、なにか緊急の用でもあれば喋りかけてくる筈だが、基本的に千紗姫は家の中などの特定の場所以外ではほとんど無口だ。マフラーまだしてるの?なんて聞いてきた割に自分は深めにマフラーを巻いているのだから笑ってしまいそうになる。
彼女は…千紗姫は他人が怖いのだ。
人と話すのが怖い、目が合うのが怖い、見られるのが怖い、触れるのが怖い。
電話やメールを介したやりとりにすら怯えるほどに。
横目で彼女を見る。毎日見る、彼女の横顔。その顔はどこか不安げで常に目線を下げている。家の中で見せるあの溌剌とした笑顔は見る影もない。人見知り…というわけじゃない。いや、人見知りではある。しかし彼女の根底にあるものは決して単なる人見知りで片付けられるようなものではない。
やがて駅の近くなるとちらほらと通勤する大人や学生の姿が多くなってきた。もうこの関係も中学校から数えれば5年になるのだが、やはり慣れない。緊張から手に込める力が強まると、それに応えるかのように千紗姫の手にも力が込められる。
…相変わらず黙りこくってはいるが、千紗姫の耳が少し赤くなっているように見えた。
俺と千紗姫の通う公立緑葉高校は、最寄駅から3駅ほど離れたこれまた小さな町にある。電車は1時間に一本、3駅しか離れていないと思いきや山をいくつも挟むため歩けば1時間では済まない道のりだ。まあ他の高校に行こうと思えば片道1時間以上かかるからここ以外に選択肢が無かったとも言えるが。
8時20分の電車に乗り、35分に学校前の駅に着く。朝のHRが45分からだからあまりゆっくりはしていられないが、その分他の学校に行く連中よりはのんびり朝を過ごせるのが良いところだ。電車を降りた生徒たちの行列、その最後尾を俺と千紗姫は歩いていた。
「……」
「……」
正直かなり眠い。もう慣れたとはいえ朝5時過ぎに起きるというのは男子高校生にとって…それも運動部にも所属していない俺にとっては辛いものがある。千紗姫の作る朝食はいつも美味しくて、こうして一緒に投稿することも嫌ではないがやはり時間ギリギリまで惰眠を貪るというのも大事なことだと思うのだ。これから朝の気温も高くなり、二度寝するのにちょうどいい季節なのだから。
…横目で千紗姫をちらりと見る。やはり目は伏せがちで眉毛も若干ハの字になっている気がする。短めに切り揃えられた髪をうなじで小さく結んだ髪型とその愛らしい童顔、着痩せするタイプだということを知っている同学年の男子の間では結構人気なんだが…この様子だと彼氏ができるのもまだまだ先になりそうである。
……彼氏か……千紗姫に彼氏ができれば俺も必要なくなるのだろうか?どうだろう、考えたこともなかったな。
千紗姫を彼女のクラスまで送り届け、自分の教室へと辿り着いた俺を待ち受けていたのはクラスメイト達からのニヤニヤとした顔とヒソヒソ話だ。クラス替えで顔ぶれは変わっているとはいえ、去年1年間で俺と千紗姫のことはだいぶ広く知れ渡ってしまっている。特に女子の間で。
何度も自分と千紗姫はそういう関係ではないと説明したがついぞ聞いてもらえず、結局何を言っても無駄だと判断してからは放っている。素早く自分の席に座って机に突っ伏す。HRが始まるまでもう時間もないが、色めき立つ女子たちの会話を聞くよりかは何も考えず目をつぶっていた方が幾分か気が楽だった。
「ほれ席につけ、HR始めるぞ」
数分と経たない内に担任が教室に入ってきてHRを始める。まあ出欠確認しか特にやることもないのだが、特別なにかお知らせがある時は決まって副担任も前に立つのだが、今日は廊下で主任の教師と談笑しているところを見ると特になにもないらしい。
……あいつ、いつもどうしてるんだろう。
ふと、千紗姫のことが頭に浮かんだ。中学まではクラスが一緒だったから、休み時間も一緒にいたが、高校ではクラスは別、科目も別だから様子を見に行くわけにもいかず千紗姫と合流するのは放課後部活が終わってからだ。そうすると彼女だけで行動する時間がほとんどなわけだが、あの人見知り具合で大丈夫なのだろうか。まあ今朝も学校は楽しいって言ってたから心配はいらないと思うが………ってなんで俺学校に来てまでアイツのこと考えてんだ。
これも千紗姫が変なこと聞いてきたのが悪いんだ。なーにが彼女できそう?だ、俺だって仲の良い女子くらい…いるにはいるんだ。彼女くらい作ろうと思えばいつでも作れるさ。うん…
頭の中で仲の良い女子を思い浮かべて、すぐにやめた。内弁慶な幼馴染みと、いつも小難しいことを言ってる先輩しか思い浮かばなかったからだ。ひとりは千紗姫である。
放課後、最後の授業が終わってすぐに教室を後にした俺は久し振りに部室の前に立っていた。特別教室棟の3階、その隅っこ。普通の教室の半分程度の広さしかないこの部屋こそが俺の所属する歴史研究部…なのだが……
「おや、青葉君、早いね」
「部長が遅いんですよ、それより早く鍵開けてくださいよ」
「うんうん、そう慌てなくても開けてあげるとも」
部長と呼ばれた女子生徒は表情をほとんど変えることなく器用に笑いながら部室の鍵を開けた。
「さあ、実に2ヶ月振りの部活動だ。今日までのこと、じっくり聞かせておくれよ」