南部領は登り龍。
ここからしばらく内政パート、戦争書きたいけどあんまりやり過ぎると嘘臭い。
史実の織田家のペースが異常。
天文13年(1544年)三戸城
そこかしこで聞こえる領民達の楽しげな声を聞きながら、南部晴政はご機嫌に領内を視察していた。
最近の南部領は随分と賑やかになってきた。
先の戦がひと段落した後、地道に続けていた富国強兵のための一連の政策が、ようやく軌道に乗り出したのだ。
もうしばらく戦は無いだろうという安心感を民達が感じているのが大きい。
何しろ今の南部家は辺境の陸奥国、出羽国では対抗できる相手のいない第一の勢力である。わざわざ喧嘩を売ってくる馬鹿はいない。
そもそも現在陸奥国では、南のほぼ全土を支配下に置いていた伊達家が、2年前から伊達稙宗と伊達晴宗父子の間で二分し、内乱が起こっておりその出口もまだ見えない不安定な状況だ。
伊達家の支配下に置かれていた大名達もこれを好機と見て、次々に独立している。
まあこの大名達の離反は当初から南部家も一枚噛んでいて、伊達家への謀反を唆すのは勿論のこと、武器や馬、塩や兵糧など戦に必要なものを売りつけて大儲けさせてもらった。
南部家にいいように利用されていると気付きながらも、この不安定な情勢を乗り切るために背に腹は変えられないといったところだな。まったくお気の毒に(ゲス顔)。
ちなみに最近その辺りで大量発生している山賊や海賊や盗賊も、南部家がスポンサーとなっていることは秘密である。
彼らは今日もひたすら略奪を繰り返した後、こそこそと北の方へ逃げていく。
北にいる風神に奪った品々を届ければ、数割増しの報酬が受け取れるのだとか。
被差別民や職人達も大勢攫われる。攫われた先でより良い暮らしが待っているのだから、元いた場所へ帰ることも、恨むこともない。
南部領では元々の民達から生まれた人数以上に、正体不明の人口の増加が見られる。
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食料事情も大いに改善していた。
元々安東領だった日本海側である出羽国(秋田県)北部では、元々の南部領である太平洋側に比べ、北東から吹く冷たい風、やませによる冷害の影響が少なく米が多く収穫できた。
この大量の米に加え元々の南部領も治水事業の成功(北信愛が頑張った)により、収穫量の大幅な増加が見られた。
収穫量の増加には領内の治水だけでなく、畜産業の推進による、家畜から出る大量の排泄物が肥料になったことも大きかった。
おかげで稲だけでなく様々な商品作物が順調に育ち、良い資金源となった。
畜産の増進による肉食文化も徐々に浸透している。晴政自身が領内を巡って家畜の解体をしたり、自ら肉や乳製品を食らう姿を見せつけるのは、当初は恐れられ(自分達の殿様は化け物だと、当初はドン引きされた)が、本人が魚以外の肉を食いたい一心での懸命な活動の結果、日本土着の神道の価値観による肉食を穢れだとする風潮も再考され始めている。
牛や馬だけに留まらず、最近導入された豚、山羊、羊、鶏などの家畜を食することによる、多量のたんぱく質の摂取により、領民の体格が良くなって来ている。戦争の際は精強な兵士となってくれるだろう。
男も女も米一俵(60Kg)持てるのが当然の時代のため、肉食によって強化された南部領の住人達にダンベル何キロ持てる?と聞いたら現代人が卒倒する重さを涼しい顔で持ち上げて来るだろう。
領内の鉱山開発も順調で、特に銅と金の産出量の増加が著しい。
領内の中央の山岳地帯にある小坂鉱山は金銀、銅をオールマイティに産出する。更には、奥州藤原氏の全盛期を作り出した玉山金山などを領内に抱えている。東北は元々、日本有数の鉱脈が多数ある地域なのだ。
賊の略奪を受けた地域は南部家が裏にいると薄々感づいているが、下手に南部家を叫弾して一万を超えるとも言われる騎馬軍が、怒りのままに南下してくるのは考えたくもない。
この時代、力無きものは涙を飲むしか無いのである。南部家のボスが蹂躙される敵国の民達を見て「乱世の絶景なり」と言って楽しむことができる狂人であることは、それに拍車をかけていた。
蠣崎家を利用した蝦夷地(北海道)開発も絶好調で、南部領以上に寒冷な大地は稲作に向かないものの、家畜の遊牧や米以外の作物の栽培はできるし、先住民のアイヌを雇い調査を依頼し、有力な鉱山が次々と発見された。
これらの鉱山が発見された当時は、使い道のなかった石炭鉱山(炭鉱)が多く頭を悩ませたが、初期は庶民が暖を取ったり、煮炊きをするのに使用され、しばらくすると職人達の製鉄に効果的に使われ始めた。一部の製鉄場では革命とも言えるコークス(蒸し焼きにして不純物を飛ばした石炭)を利用した製鉄の初期型とも言えるものが登場し、日本人職人の変態性に晴政は驚愕した。
日本古来の砂鉄を使った製鉄は当然として、原料の鉄鉱石は日本ではまともに産出しないので、これまた明の沿岸にて略奪を行ったり、投げ売りされていたものを買い叩いたりした。
海産物も職人達(拉致してきた人々も含まれる)の作る製品も良く売れている。
何というか拍子抜けだった。大名が少し積極的に介入しただけで、戦乱の日本国にとっては垂涎の代物が続々と領内から生み出される。あっという間に日の本の最北に国内随一の経済勢力が誕生した。
南部領の物品は今日も貿易用の大型の船により、日本海側、太平洋側問わず、各地に運ばれて行く。
当時の日の本の中心である畿内の庶民達ですら、南部領から届いた品々が生活を支えていたのだろう。当時の日記にこう記している。
[三日月も 満月もきっと 南部印]
これは当時、南部領から送られてきた品々に全て、その製品の信用を証明する南部家の家紋(南部印)、が刻印されていたことに由来している。
天文13年(1544年)南部家は豊かで、強大であった。
東北の鉱山は明治時代頃には掘り尽くされてたところが多くて、有名じゃないみたいですね。
この話を書いた後で感謝を一言、ありがとうウィキペディア先生‼︎




