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南部晴政(ウィキ風解説)

お久しぶりです。

完結に際して沢山の感想、評価、ありがとうございました。


もう一つニコニコ大百科風のも書くつもりです。




[概要]

 南部 晴政(1517年〜1600年)戦国時代から安土桃山八戸時代にかけての武将、大名、政治家、思想家、発明家。


 本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の傍系、甲斐源氏の流れを汲む。南部氏第24代当主。


 蝦夷王国(現蝦夷帝国)の初代国王としても知られ、今日では建国の父として同国より絶大な知名度と尊敬を集める。




[評価]

 蝦夷帝国では建国の父、史上最も偉大な英雄として認識されているが、対して南日本共和国では、日本元来の権威である朝廷を滅ぼした大罪人として、忌み嫌われている。しかし近年ではその伝説的な強さや、記録に残る人柄に惹かれる南日本人も多いようだ。蝦夷帝国モンゴル区では彼もハーンの一人だとする意見がある。




[生涯]

 永正14年(1517年)、南部氏第23代当主・南部安信の嫡男として生まれる。


 天文6年(1537年)、紫波郡で和賀義勝、斯波氏の軍勢と戦う。天文8年(1539年)に家臣の赤沼備中に背かれて三戸城を焼かれ、多くの文書を失った。この年、上洛して、室町幕府12代将軍・足利義晴より「晴」の一字を拝領された南部彦三郎とは、南部晴政のことであり、幕府から南部氏惣領の地位を認められたといえる。


 天文9年(1540年)、戸沢政安、斯波経詮の岩手郡侵攻に対して叔父・石川高信を向かわせ、戸沢政安を秋田に追放し、斯波経詮を撃退して、岩手郡を手中に収める。


 天文10年(1541年)、南部氏の家督を継いで第24代当主となった。それと同時に焼失した三戸城を再建している。


 この頃、領内を視察していた最中に落馬し、一時意識不明になったと記録に残っている。


 しばらくして目を覚ました時には、元々粗暴で知られていた性情がなりを潜め、厳格でありながらときに自由で寛大な、現在に知られる偉大な為政者としての振る舞いを見せるようになったとされているが、事実は定かでは無い。

 

 天文12年(1542年)、その軍才を持って陸奥斯波氏、戸沢氏、安東氏を短期間で下し、全国にその武名を轟かせた。その迅速果断な戦いぶりを伝え聞いた人々は彼を風神と渾名し、大いに恐れ敬ったという。


 著名な「三日月の丸くなるまで南部領」という句もこの時期に謳われた物だとされている。


 天文13年(1544年)には二度目の上洛を果たし、室町幕府より奥州探題、羽州探題の両職、朝廷より従五位下陸奥守、出羽守にそれぞれ任命されている。


 先だって同職に任命された伊達家、最上家などを差し置いての人事から、当時の南部家から中央への献金額の多大さと、北国の戦乱鎮圧を大いに期待されていた事が伺える。[要出典]


 もっとも彼の後の行動を鑑みれば、幕府や朝廷への尊敬、また信望は一切なく、あくまで自らの勢力拡大のために、その名を利用しようとしただけに過ぎない事は明白である。[要出典]


 名声と力を両立させたとも言える晴政はこれを契機に、以後およそ半世紀に渡って南部氏の版図を拡大し続けた。


 天文16年(1546年)、伊達氏を中心とした奥羽連合軍を仙台平野で行われた会戦にて打ち破ると、その後数年間を掛けて、影響力の低下した伊達系諸侯の勢力を徐々に侵食した。


 天文24年(1555年)には、奥羽の諸侯が次々と南部氏に臣従して行く中、最後まで抵抗を続けた伊達氏を滅亡させ、名実ともに奥羽の統一を果たす。


 こうして得た強大な勢力をもって、越後の上杉氏や関東の北条氏と幾度も衝突しながらも、佐竹氏、里見氏らとの戦いを優位に進め、遂には東日本のほぼ全域を支配するに至った。


 元亀2年(1571年)に、嫡男の南部晴継に家督を譲ると本人は一線を退き、以後は趣味の研究や執筆活動に没頭したと言われている。


 彼が再び表舞台に姿を現すのは、天正18年(1590年)の関ヶ原の戦いの折であった。


 前年より病気がちだった晴政は、これを戦国最後の戦い、引いては人生最後の戦いと捉え、この機会を逃すまいと奮起し、南部軍の総大将として意気揚々と出陣して行ったという。


「国に対する最後の奉公」と発言したとも記録に残っているが、これがどこの国を指しているのかは、未だに議論の対象である。


 関ヶ原の戦いでは齢70を超えているにも関わらず、衰えを感じさせない軍略と覇気で、東軍を勝利に導いている。


 そのまま進軍を続けた晴政は、生涯3度目となる上洛を果たすと、兼ねてより計画していたとも言われる京都虐殺(詳細な情報は別記事へ)を決行する。


 徹底的な殲滅戦は三日三晩続き、ここに紀元前660年よりの歴史を誇ったヤマト王権は消滅した。


 動機については、晴政の錯乱説、晴政が蝦夷の末裔だったとする復讐説、新たな天皇になろうとした簒奪説など多くの説が提唱されているが、その後の行動から見るに南部氏が国家として独立し、それを維持するために朝廷権力による西国の一致団結を防ぐという、安全保障上の目的があったとする説が近年有力である。


 同年に本国に帰還した晴政は「蝦夷王」を内外に自称し、同時に「蝦夷王国」の建国を宣言した。


 自らの国の興りを見届けると、最後に自らの神格化を禁じ、慶長5年(1600年)に死去。死因は老衰であった。


 時を同じくして八戸の空で赤気オーロラが観測されたとも言われるが、信憑性は薄い。




[人物・逸話]

 若い頃から勇猛で知られており、蝦夷(当時の北海道)にて槍で羆を討ち取ったなどという荒唐無稽な逸話まで語り継がれている。城下にて乱暴狼藉を働いた浪人を自ら手討ちにするなど、武勇の腕は確かだったという。


 戦に置いては丹念に重ねた謀略と優れた戦術で生涯無敗を貫いた。各地に残った文献に「古今無双の大将」との記述がある事から、同時代人からも高く評価されていた事が窺える。


 内政能力にも優れていたと言われ、南部氏網羅法度次第にも見られる先進的な法整備や、最新の冶金技術を使用した鉱山開発。それにより得られる潤沢な資金を惜しみなく領内に投資し、領内の治水や産業育成を大いに推進している。


 他にも蝦夷や大陸などへの積極的な進出に見られるように、型に捉われない常人離れした発想力を有していたとされ、現代の蝦夷銀行に繋がる南部御用金貸所の設立など、彼の功績は枚挙にいとまが無い。


 彼の特徴的な容貌についても多くの記録が残っている。最も正確であるとされる側近の北信愛の記録によると、身の丈六尺(約190㎝)の巨漢であり、骨太で筋肉質だったため服を着ると少し太って見えたという。当時の日本人男性の平均身長が158cmなので、相当な大男だった事が窺える。


 髭を長く伸ばしており、しばしば唐(中国)の皇帝のようだと称されたと言う。髭を伸ばす文化は現代の蝦夷帝国にも見られ、総じて毛深い人が多いアイヌ民族より影響を受けたという説が有力だが、晴政に憧れた当時の民衆がそれを真似た物だという異説も存在している。


 同時代、南部晴政に謁見した欧州の宣教師達は、獣の毛皮を身に纏う晴政を見て、北日本の王は全身から毛が生えた怪物だと、驚きを持って日記に綴っている。


 政戦双方に秀でた人物であったが、文化面はからっきしだったようで、無理矢理参加させられた歌会や茶会での迷言、迷歌、奇行が多くの家臣の目に留まり、詳細な記録が残っている。


 また妻は八戸城下に住んでいた商人の娘であったとされ、側室は一人も抱えていなかった。夫婦関係は周囲の人間を困らせるほど良好で、彼女との間に最終的に二男三女をもうけたという。子供達とも生涯仲が良く、三人の娘達に至っては晴政と結婚すると言って聞かなかったという笑い話も、信憑性の高い記録として残っている。いずれも当時にあって彼の常人離れした感性を思わせる逸話である。


 数々の発明、思想を書物という形で残している。南部氏宗家で数百年に渡り秘匿されていた、それらの内容が近年公開されたが、時代を先んじた科学、医療、果ては内燃機関の設計図、資本主義や共産主義の思想に至るまで、当時の人間が書いたとはにわかには信じ難い内容で、蝦夷皇室の権威を上昇させるためのフェイクだとして、世界的に疑問と批判の声が上がったのは記憶に新しい。とは言え晴政が革新的な人物であった事は疑いようのない事実であり、それら書物が全て偽物であると言うのは、時期尚早だという意見も論じられている。


 ある日、晴政は家臣と鷹狩のために外出した。その際に田んぼを通りかかったときに、突如田植え仕事をしていた17、8の娘が「殿様にお祝い申し上げます」と泥を晴政の服に塗りつけた。それを見た晴政は「この野郎、やりやがったな」と返して、服を勢い良く脱ぎ捨てると、娘を抱えて泥の中に飛び込んだ。集まって来た子供達としばらく泥の掛け合いをして楽しんでいたという。きりが無く襲い掛かってくる子供達に対し敗北を認めると、脱ぎ捨てた服と鷹を褒美として渡した。その光景を見て思わず笑ってしまった家臣を片手で持ち上げて泥に投げ込むと、ふんどし一丁でどこかへ立ち去って行った。


 ある年に、晴政の刀が盗まれる事件が発生した。見張り番の者が自ら処分を願い出ると、晴政は「ここで刀を盗みに来るのは、盗人の仕業ではない。若い侍あたりが魔が差したのだろう。盗んだ刀で励めばそれでよい。武士たる者が金銭を盗んだとなれば処罰するが、この件は不問とする。それにしてもこの武器庫に忍び込むとは素晴らしい腕前だ」と言って許した。後日、南部忍軍を設立する際、刀を盗んだ侍を見つけ出すと正式に盗まれた刀を与え、忍軍の頭領に任命した。その侍は感激し、その後も諜報や暗殺などで多大な功績を挙げ南部氏に大いに貢献したという。彼の名前が一切残っていないのが、忍として優秀だったという何よりの証拠であろう。


 2019年、晴政のへそくりと記された大量の金銀財宝が、八戸市内の男性によって掘り当てられた。本人は埋まっている場所を夢で見たと語っているが、真偽の程は定かではない。総額50億玉(南日本円にして500億)とも言われるその資金は、蝦夷帝国のボランティア団体に寄付された。




作者はイマイチこういう奴のセンスが無いようだ……。


書いてみると難しいものですね。


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― 新着の感想 ―
[良い点] wiki良かったです 晴継様、家康公、氏政様も見たいです 有力視されている、朝廷が西を纏めるより 蝦夷復習説が一番近いのがw [一言] ニコニコ大百科楽しみにしてます。
[良い点] アンチも居る人物なのにWikiが荒されていない! [気になる点] 南部家の秘密資金とかじゃなくて個人のへそくりですか しかも隠し過ぎて子孫まで気付かず見失っていたって言う…… 科学技術面…
[一言] 後日譚、最後の寄付が良いですね(=^▽^)σ
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