におう
今年の春。勤務先が移転し、母が体を壊して通院しなければならなくなった。
会社と病院、どちらもバスの便が悪い郊外にある。
しかたなくわたしは、車を買うことにした。
運転は会社の営業車をちょいちょい使っているので問題はない。
問題があったのは資金面で、預金通帳と母と三者面談の結果、おおよそ予算としてひねり出せたのが五十万円。
仕事帰り、自宅とは逆方向の駅前まで出て、大きく看板を出している販売店に赴いた。テレビCMもしているチェーン店で、ずらりと車種多様なお車様が鎮座している。
男の人ならあれこれこだわりがあるのかもしれないが、わたしにとって車はとにかく走ってくれればそれでいい。あと、安ければなおいい。
適当にぶらぶら見ていると、するりと横に男が立った。店長のプレートを首からさげている。
くりだされる熱い営業トークを聞き流しながら、とにかく「店長一押し」という一台に即決し、一週間後の納車となった。
ちょうどその翌日が母の通院日で、ならし運転に都合がいい。
かくしてやってきたのは、明るい空色をした、ころんとまるいフォルムの軽自動車。走行距離百キロ未満、二年前の型おち。
「ずいぶんかわいいのを選んだわね」
車を見て、母が薄く笑う。
たしかにわたしは小さいころから男まさりで、魔法少女より戦隊ヒーロー、お姫様より宝島だった。
「うるさい、安かったんだからいいでしょ」
「いくらしたの?」
「税金とかなんかいろいろコミコミで二十万円」
「ふぅん、安いの?」
「……よくわかんないけど、店長がそんなこと言ってた」
ドアを開けて乗り込む。営業車のようにたばこ臭いこともなく、中古車だからか真新しい匂いもしない。
助手席に座る母がシートベルトを締めたのを確認し、ゆっくりと発車する。
家近くの農道から幹線道路への合流地点で、ふと母が言った。
「――この車いやな臭いがする」
車内は綺麗に掃除されているし、わたしにはなんの異臭も感じられない。
「気のせいじゃないの? それかどっかの畑の肥料の臭いとか」
不慣れな操作でウインカーを出そうとしてワイパーをまわしてしまう。舌打ちしつつ、左右をうかがうのに必死な私をよそに、母はしきりに鼻をうごめかせていた。
「やだ、お線香の臭いみたい……」
つぶやくやいなや、母はいきなり窓を全開にした。
もう三月も終わり近く。しかし今日の風はずいぶん冷たい。
「ちょっと寒い。閉めてよ風邪ひくよ」
つけつけ言っても聞く耳を持たず、母は病院に着くまでの三十分余り、ずっと開けっ放しの窓から外をにらんでいた。
そして、それから母は頑なにわたしの車に乗るのを拒んだ。
通院もわざわざ一時間に一本のバスに乗ったり、近所の人に頼んで乗せてもらったり。
せっかく買ったのにと、なじっても母は首を横に振り、そしてもの言いたげにわたしを見るだけだった。
それから二週間ほど経ったころ。昼過ぎから降り始めた雨が帰宅時間には、とんでもない土砂降りになった。ニュースでは電車もバスもほぼマヒ状態だという。
「英子ちゃん、帰りどうする? よかったら送っていこうか」
勤務先は水回り系を主とする住宅リフォーム会社で、社員は二十名ほど。事務経理雑務を担当する女子社員はわたしと、三つ年下になる二十五歳の彼女しかいない。
「いいんですか? じゃあ駅までお願いします。あとはお爺ちゃんに来てもらいますから」
ラッキーと笑う彼女は裏表がなく、かわいらしい。爺ちゃんは孫に頼られれば喜んで出てくるのだろう。とはいえ、この豪雨のさなかだ。田んぼに落ちなければいいと切に願う。
手早く帰り支度を整え、居残る社長に挨拶をし、駐車場の車に駆け足で飛び乗る。
湿気で蒸れた車内はいささか暑い。エンジンをかけ、除湿をいれながら、濡れた服や髪をハンカチで拭う。
スマフォで家に連絡をいれていた英子ちゃんが、ふと顔をあげて車内を見まわし、それからおずおずと言った。
「先輩の車、なんか変った臭いしますね。これ芳香剤ですか?」
「なにもしてないけど……」
神社で交通安全のお守りをかってぶら下げたり、ダッシュボードの上に小さな人形を置いたりしているが、香料の甘い匂いが苦手でその手のものは使っていない。
「そうなんですか。じゃぁ、なんだろう?」
「わたしは感じないけど、ちなみにどんな匂い?」
「うーん、お香系? エスニック雑貨のお店とか、あと……ああ、なんかうちの仏間みたいな感じ……かな」
言いながら、彼女は鼻をおさえた。
なんだろうねと、話をうやむやにして私は、前も見えづらい雨の中へ車を走らせた。
十五分後、英子ちゃんはハンカチで口元をおおって、駅前ロータリーで降りていった。
「お線香の臭い」
「仏間みたいな感じ」
母のつぶやきと英子ちゃんの言葉が気になって、次の日曜日、洗車を兼ねて車の中を調べることにした。
ドアマットをはがし、シートの下をのぞきこむ。
高校時代の友人が、車内でひどい腐臭がしたので旦那と調べたら、シートの下から買い物袋から落ちたらしい一ヶ月前の豚小間2百グラムパックが出てきたと笑っていた。
だがいくら調べても、車内からは豚肉も鮭もチキンも、線香も落ちていない。
なにもない。きれいなものだ。
それなのに、母も英子ちゃんも、この車が臭うと言った。
なにかざわりとした不安感に襲われて、車の脇にしゃがみこんでいると、母が庭先に出てきた。
「ねぇ――この車、手放さない?」
「なんで。買ってまだひと月なのに」
「やっぱり中古より、新車のほうが安心じゃないかなと思って」
下からうかがうような母の声に、正直いらっときた。
「ほっといてよ。それにこの車、けっこう気にいってるんだから」
叩きつけるように言い返して、母の泣きそうな顔に罪悪感をおぼえた。
「なにお前、葬式帰りか?」
ゴールデンウィークも明けた頃の朝、ふいに社長がわたしの顔を見て言った。
「いえ、違いますけど」
「そっか? いや、なんかお前から線香の臭いがしたんだけどな」
首をひねりながら現場に出ていく社長の肩越しに、英子ちゃんと目があった。
英子ちゃんはさっと目をそらして、書類片手に席を立ってコピー機の前に立ち、わたしに背を向けた。
とっさにわたしは、腕を持ちあげ袖の臭いをかいだ。
汗臭くなければ、香水の匂いもしない。自分としてはきわめて無臭に感じる。
だが昼過ぎにやってきた建材メーカーの営業マンは、開口一番「ご不幸でもありましたか?」と訊ねてきた。
帰社した社員は「抹香臭い」と、いきなり窓を開けた。
誰もかれもが、なにかが臭うと言う。
それを感じていないのは、わたしだけのようだった。英子ちゃんに問うても、「さぁ」とあいまいに笑って逃げてしまう。
なにがなんだかわからないまま、狐につままれたような気持で帰宅し、自室のドアを開けたとき、むわりと立ち上った臭いに吐き気をおぼえた。
これは、線香の臭い。それに、湿った土のような臭いもする。
急いで窓を開け、外の空気を吸った。着替えもそこそこにリビングにおりると、テレビの横に消臭スプレーが置いてあった。見覚えのない品だ。
台所に立つ母がちらりとこちらを見てから、目そらして背を向けた。今日の英子ちゃんと同じ態度だった。
言いたいことは山ほどあったけど全部のみこんで、とにかくそれをひっつかみ、部屋にふりまいた。それでも臭いは薄れることなく、わたしはその夜、高校時代に亡くなってからずっとあいている父の部屋で眠った。
翌日から臭いは、わたしにもはっきりと感じられるようになり、三日もすれば周囲の人から露骨に避けられるようになった。
髪をつまめば鼻先に持っていくまでもなく、臭う。
ため息をつけば、口の中にも臭いがただよう。
唐揚げも炊き立てのご飯も、とんこつラーメンも、全部線香の臭いがして、吐き気がする。
まるで私自身が、一本の線香になりはててしまったようだった。
夜も眠れず、会社にも行けず、わたしは朝から風呂に入り、気のふれたアライグマのように泡まみれになってとにかく全身を洗い立てた。
しかし、どれほど髪を洗っても身体をみがいても、臭いは消えることがない。どこからか立ちのぼる臭いはわたしをくるみこんでゆく。
もうどうしていいのかわからなくなって、洗い場で泣いた。膝をかかえて体の冷えるまま、泣きじゃくっていると、母がそっとタオルをかけてくれた。
子供のころのように、優しく身体を拭いてくれた。
「車、売ってしまおう。そうしたら、きっと大丈夫だから。ねっ」
優しく諭されて、私も意地をはることなくうなずいた。
髪を乾かし、母と二人で車に乗る。
窓を全開にして走り、これを買った店に行った。
対応に出てきた店員はわたしが用件を伝える前に、店長を呼びに行き、呼ばれた店長はなにも聞かないまま、面倒くさそうに言った。
「二十五万で買い取りますよ。そのまま置いていってくださって結構ですから。書類なんかは後で郵送しますよ」
その場で現金を受け取ったわたしと母は、おそらく由来も因縁も承知で売りつけた店長の悪口を言い立てながら、駅前に出た。
目についた喫茶店に入り、ショートケーキとクリームソーダを注文する。
ケーキはバニラのいい匂いがして、クリームソーダは歯がとけるほど甘くて、母と二人、笑って食べて、また笑った。




