第8話
幕府解体
1720年 大塩平八郎の乱の末 徳川吉宗は死亡してしまう。
国民もこれを大いに賛美し、各地にあった幕府の役所も国民に打ちこわしにあってしまった。
老中の多くも江戸市民の襲撃に遭いそのほとんどが 晒し首となってしまった。
幕府による政治は最早不可能となってしまった。大塩平八郎も元は吉宗を退位させるだけの予定だったのだがもはやそれも不可能になってしまった。
そこで平八郎が目をつけたのは 昨今急速に民からの人気を集めている天皇だった。
平八郎は桃園天皇と会談 桃園天皇も自らが政治を行わず完全に象徴としての立場なら と了承
桃園天皇が政治を執り行わなかったのは完全な民主主義を目指すためだと右からは賞賛されていたが実際は責任を取りたく無かったというのが事実であった。
そして大塩平八郎を首班とした日本初の内閣制による大塩内閣が誕生した。ちなみに首班の選ばれ方は政治組織として設置された大政翼賛会に入会した政治家を国民が選び最も票数が多かった者を天皇が任命される形となった 国務大臣は首班が大政翼賛会会員の中から選ぶ事になった。入会の方法は6年に一回の全国民投票に選ばれた五百人とされた。ちなみに選挙の有権者は23歳以上の男子のみであった。
これはイギリスの政治体制を模範とし平八郎がアレンジしたものだった、それに加え今までの奉行所も解体され多数の省庁が誕生した。
憲法も日本全国に発布された 。憲法では天皇が1回だけ議会の容認を通さずに政治行動をできる事になっていた。しかしこれが使用されたのは21世紀まで2回しかない
1723年こうして民衆が最も望んでいた天皇による国家 大日本帝国が誕生した。
大塩内閣が初めに行ったのは軍縮に税金の減税であった。
現在の陸軍兵員は89万人であった これを徴兵された者だけを軍から多数抜き 養成に時間のかかる士官 いわゆる職業軍人は1人も減らさなかった。これにより残ったのは他国との国境を守るだけの兵員になった、現在他国と国境を面しているのは中国方面とアラスカ方面だけであった。中国国内では清と漢民族が内乱で日本に手を出している暇はなかったし アラスカ方面でもイギリスとは貿易面でお互いに利益を出せているのでかなり友好な関係を保てていた、問題なのは南下政策を推し進めるロシア帝国であった。
海軍(省庁整備の際に水軍から名前が変わった)はイギリスが建造しているような戦列艦の大量建造を求めたが 内閣はこれを拒否しシーレーンを護衛をするだけに必要な数にとどまった。これは日本の戦略のためで日本は他国と戦争になった際には強襲上陸という敵にとって不利な場面での陸軍による大攻勢で敵の消耗を狙うという戦略だった その為海軍に求められたのはは必要な物資を外地から安全に日本本土に輸送する事だった。日本は海洋国家だが海軍力が貧弱という稀有な存在であった。