第7話
遅くなって申し訳ないです。
徳川吉宗の政治
1700年初期 日本各地のあらゆるところで尊皇の声が唱えられていた、首都東京 経済の中心地大阪 日本最大の農産地 比島 最大の鉱山地 北朝鮮 最大の軍港 呉 のどこの広場でも毎日そのことばかり議論されていた。過激な地域では武力による倒幕を真面目に考えていたほどだった。
この主義が語られ始めたのは1700年の始めからだった。理由としては国学者の本居宣長が書いた古事記伝が空前絶後の大ヒットを起こしたからだった。日本各地の新聞社もこの本を評価しまくったのも原因があるだろう。
そんな時 将軍に任命されたのが徳川吉宗だった。
彼は徳川家による幕府の存続に重きを置いていた。
そんな彼がまず着手したのは大幅な軍拡であった、この時の日本の常備軍は25万人であった。そして吉宗が将軍職についた1716年の海外地を含めた日本人口は8000万人である、ちなみに人口分布は本土に5000万 台湾に800万 北朝鮮に400万 比島に1000万 阿羅斯加に500万と言った具合である。
徴兵できる人数を全人口の1%と考えても80万人はいるはずであるが、実際は80万人の1/3程度の数であった。これは軍事予算を減らすために常備軍を30万人以下にしなければならなかったからだった。そのため日本の軍事費は国家予算中の5%を切っていた。しかし吉宗は常備軍100万を掲げて徴兵の強化をおこなった。老中達も軍事費の無駄として反対をしたが吉宗は足りないのなら増やせば良いと地租の増税を発表 税率2.5%だったのを3.5%に引き上げた。これによって幕府は多数の事を進めることがてきたが、幕府に求心力は地の底まで落ちたのだった。経済団体は労働者の人口が減るので当初は難色を示したが軍事物資の受注増加などで受け入れられたのだった。
幕府は次に学校の増設を決定、今までは比島 北朝鮮には 農業 鉱業の事を教えるだけの学校しかなかったのだが、新たに通常の小中学校を設立 大学も民間の資本で設立した。そして中学校での成績優秀者で本土の士官学校に入学の希望があれば、無償でなおかつ税率も2.5%に引き下げられるというシステムも追加され、今までそれほど多くなかった士官学校への入学希望者が劇的に増えたのだった。
水軍では 水軍へ入隊するだけで税率が低下した(水軍は志願制)。
吉宗は比島の真下ボルネオ島 ニューギニア島の領有化を軍に命令した。
しかし軍はニューギニア島進行には同意を示したが ボルネオ島進行には隣国 清が先に手をつけていたことから 清との関係悪化を考慮して進行作戦を却下したが 吉宗は増台する日本人口を支えるには新たな新田が必要と強く論じ遂には軍首脳を折れさせてしまった。だが吉宗の言う事も最もで外地を含めた日本全体では米の供給は間に合っておらず 米を食べれていたのは阿羅斯加 本土の人や大農家や山主などだけであった 比島や北海道の農家 北朝鮮の鉱山労働者達などの所得の低いものはは馬鈴薯や豆などで飢餓を凌いでいる状態であり 労働者達の不満は募っていく一方であった。
日本 水陸軍はボルネオ ニューギニア両島に上陸 しかし陸軍上陸隊は蚊媒介するマラリアやデング熱にやられ大量の死者を出してしまう 1キロ進むたびに墓が10個立つと言われた程だった。陸軍は1ヶ月程度で幕府に撤退を進言した、幕府は同じ南方だからと言う理由で台湾 比島の人々を動員 結果は大成功を納めた ジャングルになれた台湾 比島人は凄まじい速度でニューギニア ボルネオを開拓して行ったのだった、この事に幕府は気を良くし 開拓に携わった台湾 比島人に土地を分け与えた程だった。
水軍はニューギニアの南方に大きな島がある事を発見した。幕府田直ちにこの島も領有するように命令 。
しかしこの島が大陸であり 大陸の大方が乾燥しており米の栽培には適していないと判断され 幕府は大陸の放棄を決定した。
そして陸軍が懸念していた様に清が日本に講義をしてきた、吉宗はこれに大激怒(完全に逆ギレではあるのだが)し 清に軍事的行動を取る事も辞さないと忠告 清も東の小国程度軽く撚れると日本を挑発 吉宗はまたもや怒り軍に対清作戦の考案を命令。ちなみに対清戦争は経済陣営からは需要の拡大が見込まれるとし概ね好評だったが、陸軍奉行は吉宗からの命令を聞いた時放心してしまったと言う。
清の人口は1700年当時 1億5000万程度だとされていた それに対し日本は8000万ここだけで約二倍 武器を作る鉄の生産量では清 16万トン 日本11万トンであった。この数字だけを見れば日本の敗北は必死であった。
1720年 日本軍の吉林省侵攻から日清戦争が始まった。
この報を聞いた世界各国の首脳陣は良くて日本の朝鮮喪失 悪くて日本占領というものだった 実際先ほどの資料見ても日本が勝てる要素はほとんど無かった。
しかし日本の攻勢は思った以上に好調に進んでいく 開戦から1ヶ月後には吉林省 黒龍省は陥落 遼寧省も陥落寸前という大戦果を上げていく
この大戦果は日本軍が手に塩を入れ育て上げた砲兵のお陰であった 榴弾砲を大量に用い 平地の戦いでも 敵歩兵の頭上に大量の鉄の雨を降らし敵の主力を削った後に 歩兵による大突撃で一気に清軍を蹴散らして行ったのだった。 清の誇る優秀な兵站線も後方で日本騎兵隊がぐちゃぐちゃにし前線の兵に弾薬が辿り着かなくなってしまった。逆に日本が一回一回の会戦に大規模な砲兵隊を展開できたのは兵站線が歩兵でガチガチに固められていたからだろう。
そして遼寧を陥とした本隊も首都北京の攻略に掛かるが日本陸軍は北京の戦いでも勝利 清は首都を南京として徹底抗戦を叫んだがここで思わぬことが起きた 漢民族による反乱が起きたのだった 。
この報を聞いた大本営は北京までで進軍を止め 清を内乱で破壊し尽くそうと画策 そのため反乱軍トップの孫文を支援。清も先の戦いで主力を失っている状態だったので 反乱の鎮圧に一杯で日本との戦いを続けることが不可能と判断し日本と停戦条約を結んだ これは 李氏朝鮮漢城府で結ばれた この条約により日本は ボルネオの統治権を日本に譲渡 吉林省 黒龍省も日本に譲渡したのだった。
日本は大国清に勝利したのだった。
しかし日本も無傷ではない 戦争による需要が消えたため大量の武器の消費が消え 多数の会社が経営不調となっていく しかしこの武器は反乱軍 清軍 に販売され 何とか持ち直すことができた。
それにこの戦いで多量の食料が消費されたこともあり 日本各地で食料品 主に米が日本各地で消え飢餓が発生した。
特に阿羅斯加では米の備蓄が少なかった事もあり大量の死者が出てしまった。
それでも吉宗は 100万人の兵を以前の25万人まで減らすと大量の失業者が出ると軍縮に断固反対したが。労働者は絶望的足りていない状態であり 経済陣営からも それを言われていたのに 吉宗は軍縮を行わなかった
それどころか南の大陸開拓を再開しようとしていたのである。
しかしそんな吉宗の野望もあっさりと打ち破られてしまう
大阪で大塩平八郎という男によって反乱が起きたのだった。
大塩平八郎の乱である。大阪市民も参加したこの反乱によって大阪は占拠され。
反乱兵達は東京に向け出発した 道中で他の国民も加わりその数は500万を超えていたとされる。
吉宗は近衛兵に江戸城の防衛に当たらせるが 近衛兵はこれを拒否しなんと吉宗を斬り殺したのだった。
反乱兵達がついた頃には主目的の吉宗の退陣は既に強引な形で終わってしまっていたのだった。
吉宗は最も恐れていたことを自らの代で引き起こしてしまったのである。
無理矢理感がすごいなあ