第5話
年号を西暦に変えました。
徳川秀忠の政治
1605年 秀忠は征夷大将軍を家康より将軍職を譲られた。
徳川秀忠は自分に大きな武勲が無いことに負い目を感じていた。そして今のままでは幕府をまとめあげれないと思った。
そのため秀忠が取った政策は対外強硬政策だった。
秀忠がまずはじめに目をつけたのは隣国 朝鮮だった。
当時 朝鮮は対馬壱岐戦争での戦費増大や 人的資源の枯渇 光海君死去による行政の混乱 と混乱の極みに達していた。そのため秀忠は軍に、戦争工作を命令した。秀忠はこれに朝鮮を焚きつけもう1度戦争を起こし朝鮮全土を割譲しようと画策していた。
1605年江華島事件勃発、幕府水軍が首都漢城府近くの島 江華島で測量を開始 それに対し朝鮮軍は水軍に対して攻撃を開始し、日本艦船が損傷した。
これに幕府は抗議、それに対し朝鮮政府は元は日本軍が江華島を測量し戦争準備をしていた事が原因として逆に幕府に賠償金を要求した。そして会談の末 遂に幕府は朝鮮政府に最後通牒を提出。
内容は済州島 江華島を日本に割譲、朝鮮軍の解体 朝鮮政府に日本役員を置く 朝鮮国内の鉱山の所有権を日本に割譲。であった。
朝鮮は苦渋の決断の末 日本と戦い勝つことは不可能としてこれを受諾。
幕府はこの判断に驚いた、幕府は朝鮮を理性より感情を重視すると考えていたためであった。
しかし国民はそう考えてはいなかった。国民は金日成をトップに据え反乱を起こし朝鮮国内で内戦となってしまった。朝鮮戦争の開幕である。
金軍は高い士気を武器に一気に北から南下し漢城府近くまで占領した。
その為北部に鉱山の多数を占めていた朝鮮は日本へ鉱山を譲れなくなってしまった。
それどころかこの条約を結んだ朝鮮自体が崩壊しかけていた。
なぜ金軍がこれ程の進撃をできたかと言うと 朝鮮の再支配を望む明が大量の兵と武器の輸出を行なっていたためであった。
そのため旧式の装備をした朝鮮軍は敗北しまくっていたのだった。
幕府は朝鮮軍支援のため食料 武器の輸出を決定。
この戦争特需のおかげで日本国内は大変潤った。
しかし大量の支援も虚しく漢城府が陥落し 朝鮮政府は首都を釜山へ移すことになった。
幕府は遂に朝鮮政府への介入を決定、日本軍5万名が朝鮮半島 釜山に上陸した。
しかし 明からの支援を受けた金軍は屈強だった。
そのため日本軍は思うように進軍ができなかった。
幕府は大本営を設置して金軍撃破に全力をかけ 追加で2万名の派兵を決定。
この軍の装備 や食料を生産するため、日本では全ての工場がフルで稼働した。
このお陰で日本各地で民営の製鉄所が設立されていった。
この鉄資源確保のため北海道の各地が開発されていった。
戦争終結時には日本の鉄生産量が1万五千トンを超えていたのだった。
そして明は日本の本格参戦を聞きこの作戦は不可能と判断して金軍への支援中止を決定し 軍隊も引き上げた。
そのため金軍は日本軍の進撃を抑えられずに軍は壊滅し2年に渡って続いた朝鮮戦争は終結した。
朝鮮は支援の代金の代わりに北緯38度以北を日本に譲渡して 日本の朝鮮占領も終結した。
朝鮮には民営の鉱山を建設した。
そのため北海道だけでは不足気味だった鉱山資源は充足した
秀忠は次の政策に北慚運動を開始。
日本の目的地は北になった。軍民両方で構成された間宮探検隊は北海道の上 樺太 を領有化 さらに北上し勘察加半島を発見これも領有化したが両島に対した資源がなかったため「幕府は大枚をはたいて岩室を買った」と国民からの非難が集まった。そのために幕府は北慚運動を中止した。
秀忠も北よりもははるか西方で行われる戦争に目をつけていた。
1911年 スペインで30年戦争が勃発した。
日本はこれに乗じて南の島であるルソン島を奪取しようと画策。
そして日本はルソン島の治安悪化から日本人を守るためとスペインに通告し、日本軍2000人が上陸した。
しかしスペイン軍は戦争のため兵を引き抜いており、たやすく占領することができた。
スペインは幕府へ抗議をし その結果幕府がスペインよりルソンを15000万両で買い取るといった結果になった。
幕府はルソンの温暖な気候を生かし米の大量栽培を開始。
このため日本より大量の開拓民がルソンへ流れていった。
幕府は領有化した北海道 樺太 勘察加を生かすためじゃがいもの栽培が盛んに行われた。じゃがいもは非常に受けが悪かったが非常にコストが低く痩せた地域でも大量に作れるため、飢饉の際には非常に役にったったのだった。
各地への運搬を引き受けるため日本では坂本龍馬が鹿児島製鉄所から融資を受け 運送会社海援隊を設立した。海援隊は新地へ大量の物資を運び 莫大な利益をうみ、その資金でオランダの造船技術者をよび入れ、日本で初めての大型ガレオン船が製造された。
このお陰で日本は太平洋へ踏み出すことができた。
秀忠は次に南へ進出しようとしたが、日本は短時間で大量の土地を獲得したため、新地開拓民に当てる人的資源が少なくなっていった、そのため現在の領土の地盤を固めることが先決とされ、この意見は闇へ葬られたのだった。