第4話
なんだか文が淡白になってしまうんだなぁ
慶長15年 徳川家康の政治
壱岐対馬戦争でわかった統一国家日本としての弱点を克服することを目標に始まったこの改革。
この改革を一言で言うなれなば 国家の近代化である。
「侍」という特権階級を守るため存在していた幕府が「国家」を守るための幕府に変わったのだ。
軍の近代化
それまで兵役をこなすのは武士の権利であったが今回のような国家間の戦争では武士だけの人数で足りないこと、近代戦では個人的武技に頼っての勝利は不可能という事が明らかになったためである。
これに対しては武士からの少なからずの反発はあった しかし今回の戦いに参加した殆どの武士がこのことについて理解していたことが大きかった、最もこれに異を唱え嘗ての足利尊氏の様に武士中心の幕府を再建すると言う者も現れたが、その様な者は秘密裏に設けられた諜報部隊によって家康に伝えられ、中心人物の殆どが暗殺されていった。これを「慶長の大獄」と呼ぶ。
そのため反対派の勢力は急速に弱まり比較的早くに国民に徴兵令を発布できた。
徴兵では18歳以上の男子が3年間の軍役に就くことが命じられた。
それによって常備軍を統制するため陸軍奉行所が設立され、それと同時に水軍奉行所も設立された。
日本水軍は完全志願制であった。
そして戦争が始まったら陸海軍を統合する大本営を設立することが決まった。
しかし全国から徴兵するので各藩が反発したが幕府はそれに対して藩兵の所持を禁止した。
最終的に幕府は常備軍陸軍10万 水軍5万を擁した大軍を常に抱えることになる。
その大軍を指揮するための士官を育成するため陸軍士官試練所 水軍士官試練所を設立した。
どちらも初期は武士しか受け入れてなかったが、二年後には平民からも学力試験の上位者を受け入れていっている。
中央集権国家への移行
次に幕府は封建国家から中央集権国家へ移行しようと各藩の持っている領地と領民を全て返還するように版籍奉還を発布。
これに反発した藩には幕府の軍事力で脅した。
そしてその二年後各藩の廃止 県の配置 廃藩置県を宣言、これに猛反発したのが薩摩藩 長州藩であったがこれを予想していた幕府は九州 中国地方へ軍を遠征させていたため反乱が起きることはなかった。
そして日本には45都道府県が設置された。(沖縄は鹿児島県に統合、北海道 台湾は未開発のため県数が史実より少ない)
幕府の政治体制の改革
まず行われたのが世襲制の廃止である、今までは地位は権力者の血縁者で独占されていたものであったがこれを実力主義制へ変更した。これに反発したのが幕府上層部であったが、それ以外からの賛成が余りにも多かったため上層部も仕方なくだがこれを認めた。幕府も無能を養う程金があるわけではないのだ。
これによって今まで外様藩だった薩摩藩の樺山久高 鳥羽藩 九鬼守隆が先の戦争の活躍を買われて陸軍奉行 水軍奉行という幕府の重要な役職に任命されている。
教育
幕府は科学技術向上 次世代の人材を育てることを名目に学制を発布。
これもまた武士の反発を招いたがこれは極少数であり、殆どの武士が「もうどうにでもしてくれ」という状態であり、少数意見は多数の意見に押しつぶされていった。これにより全国に小学校 中学校 大学校が設立された。しかし余りにも数が多いため幕府の手の手が回らないので私学校の設立も認可された。
こうして全国には私塾を含め5万5000校近くが開設された。教員の不足が問題になったが、職を失っていた武士を動員してなんとか数を合わせたが、余りの酷使っぷりで教員の過労死が多発し 社会問題にもなったりした。そのため師範学校を設立し 教員の育成に努めた。
そして小学校6年間は義務教育とされた。教育内容は国語 算術 道徳 男子は技術 軍練女子は裁縫 である。
中学校では成績の高い進学希望者が行き授業内容は小学校の発展的な内容だった。
大学は中学校の成績上位者を国が無償で入学させていた、大学進学者は徴兵義務が免除されることになった。そして大学は国立で東京大学 大阪大学 神戸大学 京都大学 金沢大学 九州大学を設立した。大学の内容は主に外国語 算術 物産学 機械学 精錬学 統治学 天文学である。
この中でも最も奨励されたのが機械学と精錬学であった。後々日本の技術力が向上していくのはこのためだと言われている。
外交
幕府は科学技術向上のため大量の書物の輸入を行なっていた。その代価は主に金である。日本は19世紀までは世界でも有数の鉱物資源の産出国だったのだ。そして日本は外国語の通訳を増やすため大学の外国語学科の生徒を大量に欧州に留学を送っていた。そして日本は戦争真っ盛りの欧州へ大量の銃や大砲を売り外貨を獲得していた。他にも浪人武士を海外の貴族の護衛としたりして外貨を獲得していった。
産業
日本は留学生が報告した工場制手工業の話を聞き、呉 佐世保 横須賀 神戸に大規模な造船所 富岡 愛知に製糸工場 関口 大阪に陸軍大砲工場 国友 日野 堺に陸軍銃工場 etc を模範工場として設置した。
工場の働き手を得るため農民から大量の徴収をかけこれらの工場を動かした。
そしてそれを見た島津氏は日本中の富豪から融資を受け鹿児島製鉄所を設立した。これは世界で初めて反射炉を使った製鉄所で、東京大学教授 本多光之助を招いて作ったものである。本田光之助の子孫は鉄鋼の父として名高い本多光太郎である。島津氏はこの製鉄所を鳥取 新潟 福岡などにも作り、鉄を大量生産し莫大な儲けを得ている。そしてこの会社が日本で最初の株式会社だと言われている。この製鉄所のお陰で農具では少なかった鉄製品が増え 非常に農業の効率が上がった。幕府もこの鉄のお陰で不足気味だった武器の補充が完了することになった。この鉄は海外へも安価で輸出されて行った。
内政
幕府は今回の戦いで手に入れた台湾を早急に開発するようにした。台湾はこのころのから西洋人が訪れることがあり幕府はいつ掠め取られるか不安であったためであった。
そして幕府は開発団5000名を派遣した。この開発団は陸軍軍人であり、通常は開発業務をこなし 原住民の抵抗にあった場合は銃で撃ち抜いていった。そして台湾奉行所を設立し台湾の統治を始めた、このトップには老中青山成重が据えられた。
次に蝦夷地開発である。まずはじめに蝦夷調査団を派遣した。その結果蝦夷はかなり広く琉球や台湾のようにはいかないだろうと思い、経費削減のため民間の開発団を雇い民間主導での開発に切り替えた。それにいち早く名乗りを上げたのが鹿児島製鉄所であった。島津氏は開拓を進めるうちにアイヌ民族を発見した。
島津氏は道案内のために多数のアイヌ人を雇いアイヌ人との融和策をとって行った、しかし日本との融和を望まないアイヌ人の襲撃を受け島津氏は幕府からの承認を取り民間警備団体 薩摩鉄衛団を設立した。
薩摩鉄衛団はこの時唯一民間の団体で唯一武装を許可されていた。
幕府は外地開拓の物資輸送のため各都市をつなぐ街道の整備を始めた。
そして輸送を速度を上げるため物作りで名を馳せていた鮎川氏に馬車の製作を依頼、そしてこの資産を元に
鮎川氏は日本産業会社を設立 これが後の日産である。
幕府は安定した収益確保のため石高制を廃止して地租改正を行ったこれは土地に地価を決めその税率2.5%を国へ納めるというものだった。この結果安定した税を納められたが、米の生産率が落ち貧困者が米を食べれなくなってしまった、そのため幕府は新田開発と山地開拓を推し進めた。
宗教
幕府は神道 仏教 キリスト教の信仰を許可、幕府は当初キリスト教は排斥することにしていたが、近代化を推し進めた日本軍を地球の裏側から来た軍隊が攻略することなど不可能と判断 それにキリスト教を弾圧して反乱でもあったらそっちの方が金がかかるとしてキリスト教を認可した。
そのため海外のから多数の宣教師が訪れることによって、日本に西洋の文化が入って来たり逆に日本の文化が海外へ流れて行った。
そして幕府は国教を神道と定めた、東京に皇居を建てそこに天皇を呼んだ。そして朝廷に東京首都化を進言、朝廷はそれを認可し、慶長16年 首都を東京へ遷都。遂に名実共に首都が東京になった。