緑の眼
全てが遠い。
歩道橋から、びゅんびゅんと通り過ぎていく車を見下ろしながら、他人事のように考えていた。自分がどのような顔をしているのか分からない。
初めて会社を無断欠勤した。携帯電話の電源を入れていない。
誰か分からぬ相手に恫喝される恐怖、追われることへの怯えに、心は悲鳴を上げていた。
何処までも他人事にしか見えなかった。
何故、自分なのだと今でも思っているのだ。
「お兄さん、死ぬんですか?」
声をかけられたのが自分だと気付くのに時間が掛かった。
ゆらりと振り向く。
十代後半の、髪を紫に染めた中性的な、おそらく青年が不思議そうにこちらを見ている。
「オレに言ったの?」
「死ぬんですか?」
青年は頑なだった。
オレの死を止めるような素振りもなければ、死を手伝う素振りも見せない不気味さで、生死を問う。
「キミは死神?」
「気持ち悪い、在り来たりな表現ですね」
青年は酷く不愉快そうに言うとオレの隣に落ち着いた。十代後半と称したけれど随分と小柄で、線が細いことが厚手のコートの上からでも見て取れた。
そういえばと自分の姿を見る。いつも通りの黒いスーツにコートだ。この格好の所為でオレはふわふわとした、今までの現実にしがみついているのかもしれない。
「それで、死ぬんですか?」
彼の問いはその一点だけで、それ以外には一切の興味がないらしい。
オレはまあいいかと思ってしまった。
「迷っている。何れはその選択も仕方ないかもしれない。けれど、どうしてその選択をオレがしなければらないのだろうという怒りがある。選択といって置いて、結局はその一択しかないのが許せない。オレを貶めた奴らがおめおめと生きていることが許せない」
口に出して、言葉にしてやっと自身の身に起こったことだと実感する。
オレは陥れられたのだ。
信じた人に裏切られ、でっち上げの虚構を押し付けられて、追われる身になった。
まさかだった。
何も悪いことをしていないという自分の言葉すら、疑いそうになる不安を、あいつらは知っているのか。
どす黒い怒りが沸き起こる。
「死にたくない。でも死ななきゃならない。なあ、オレはどうしたら良い」
なんて情けない光景だろう。真昼間から三十路を前にした男が十代の青年に泣きついているのだ。
昨日のオレが見たら、みっともないことをするなと言うだろう。
「僕は貴方の事情になんてちっとも興味ないけれど」
そういって前置きをした青年はごそごそと肩掛け鞄から薄汚れた象牙色の革手帳を取り出した。数ページめくってから、
「貴方の死を僕が選んでいいなら、貴方のもしもをかなえてあげます」
青年はそれは綺麗に笑った。
◆
「これからバイトがあるので待っていてください」
オレの答えも聞かずに去った青年に呆気にとられて彼是半日近く経つ。どっぷりと周囲は暗くなり、帰宅するらしい車のライトが眩しい。
(どうして待っているのだろう)
名前も知らない青年だ。訳も分からない、頭のおかしな青年だ。不審者である。
途端にオレは現実に戻ってきた。手足が震えだす。
(まずは、そうだ。弁護士に相談をしないといけない)
「お待たせしました」
「っひ!」
不意に声をかけられ情けない声で飛び上がる。青年は愉快そうに笑っている。
「すいません、今日はちょっと忙しくて遅くなっちゃいました。じゃあ行きましょうか」
青年はオレの様子を気に留めた様子も無くずんずんと行ってしまう。置いて行ってしまう。オレは一寸迷って(弁護士に相談するんじゃなかったのか)(あの怒りを思い出せ)(弁護士は助けてくれるのか)(ならば彼は何だ)彼を追いかけた。
後ろに目をついている訳でもない彼はずんずんと歩く上に、入り込んだ道を選ぶものだから、運動不足なオレが彼に追いついた時には息を切らしていた。
「こんな家、あったか?」
「ありましたよ。引っ越したことなんてありませんから」
「そう、か。そうか」
確かに入り込んだ道ばかりだったし、土地勘といっても7年程度なら知らない家があっても不思議ではない。
蔦の絡まった門扉を青年は軽く押して、オレを促した。
「こんな家があったら絶対に気付くだろうけどな……」
おとぎ話から飛び出たような古い洋館だった。あるいは都会に見ないような屋敷だ。
「随分とお喋りだけど腹でもくくりました?」
青年は呆れたように言う。
「まあ、そんなところだ」
「なら良いけど。良くないけど」
どっちなんだとは言わなかった。青年が鬱陶しそうな素振りを見せるから、オレは少し怯んで言葉を呑みこんだ。
薔薇のアーチなんて小洒落たものをくぐり抜けて屋敷へ上がる。靴を履いたまま。
談話室、というような部屋に通される。暖房器具は暖炉だけらしい。パチパチと燃える火に青年が木を突っ込む。二人掛けソファの端にコートを置いて座ると、手持無沙汰にオレは室内を不躾に見てしまう。
現代日本から迷い込んだような、何処も彼処もアンティークだった。壁に掛けられた額縁の中身は肖像画だった。統一感があるといえばそれまでなのだろうが、何処か人を不安にさせる肖像画の緑の目が恐ろしい。
「じゃあ、これからの話をしましょう」
青年は一人掛けのソファに、どさりと座ってオレを見据えた。
肖像画と同じ緑の目がオレを追い詰めるようにじとりと見定めてくる。目を離したいのに、離せない。
「貴方は、どうしたいですか?」
呆気にとられてから不意に口にしていた。、
「殺すなんて、温い。オレの感じた恐怖を味あわせたい。永遠に追われる苦しみ、誰にも信じられない悲しみ、裏切られる痛みを永遠に刻み付けたい。幸せになることは許さない。安寧に微睡むことを壊したい」
言いながら驚いていた。オレはこんなことを思っていたのだろうか。憎いと思った。悔しいと思った。
不思議な感情だった。怒りでも憎しみでもない、殺意という感情は鋭くじくじくと痛みながら生まれるのだと知った。
けれど殺してそれで終わらしてはダメだった。オレを忘れるなんて許さない。人は忘れる。だから忘れさせない。
オレの答えに青年は取り出していた象牙色の革手帳を見ながら、ふむふむと頷いていた。
「うん、誰かと被ったような気もしますけど……僕は情熱的な復讐って結構好きです」
青年は満足そうに言ってから手にしていた手帳のページをピリピリと破いた。それは手品のように青白い炎に包まれて炭も残さずに消えた。
「杉野隆宏さんの慟哭を聞きました」
「どうして、名前を……?」
青年の目が怪しく弧を描いて、それから段々と手足の感覚が無くなっていくのを感じた。痺れるようなものから無痛になり、動かせない。辛うじて動く眼球で、床から生えた黒い蚯蚓のようにうねる数百万のものが手足を這っているのが見えた。痛みもなにもない。ぞわりとした嫌悪も無い。触れられている感覚が無い。何時しか視界も黒で埋められていた。それから、それから?
◆
「悪くありませんでした」
青年は緑の目を爛々とさせて手帳を捲る。
彼は死んだ。
蚯蚓に食われて死んだ。蚯蚓に臓物を食いちぎられて死んだ。かつて目玉のあった場所から蚯蚓をたらし鼻水のように蚯蚓をたらし、死んだ。
そのページを指先で優しくなぞる。
「どうしてこんな怪しさしかない奴についていくんだか。まあ、僕好みの憎悪でしたので願いは叶えてあげますけれど」
明日のニュースのトップを飾るのは詐欺グループについてだろう。随分と前に話題になったきりだった。明日には頭のおかしな人が警察に駆け込んでそこから全て明るみに出るらしい。
憎悪をまき散らした彼の素知らぬところで世界は平穏である。
僕は欠伸をしてパチパチと燃える暖炉に、中途半端に残された黒いコートを投げ込んだ。