第九十話 ソルグロスのおねだり
「さー、皆の者、ついにこの時間がやってきたでござる。すなわち、拙者とマスターのイチャイチャタイムでござる」
深夜。アポロたちを埋葬してギルド本部へと戻ってきていたソルグロスは、暗闇の中で虚空に向かって話していた。
このように、わけのわからないことをしてしまうほど、今の彼女は興奮状態にあった。
ソルグロスが現在いるのは、マスターの寝室の前であった。
もちろん、普段であればこんなところに来ることはほとんどといっていいほどできないだろう。
必ず、『救世の軍勢』メンバーの妨害が入る。
たとえ、マスターと二人きりでデートすることを援護してくれたリッターでも、マスターの寝室に忍び込むことは絶対に認めないだろう。
しかし、それはソルグロスの願望だけだったら、の話である。
「ふっふっふっ。こういう時のために、なんでも言うことを聞いてもらう権利を保持し続けていたのでござるよ」
ソルグロスがマスターの寝室に行くというご褒美を手に入れることができたのは、その権利を行使したからに他ならない。
肝心のマスターが許可しているのだから、ギルドメンバーである自分たちがそれにあれこれ意見することはできない。
だから、皆歯ぎしりをしながらも、ソルグロスを見逃したのである。
「身体は……大丈夫でござる。ちゃんと、清めたでござる」
忍び装束に覆われながらも、身体の様子を確認するソルグロス。
マスターの寝室に訪れる前に、ちゃんと水を吸い取って身体を構成する水分を綺麗なものに取り換えている。
スライム種だからこそ、できる芸当である。
そう、今日は記念すべき日になる……予定なのだ。
汚い身なりのまま、マスターの元に行くなんてできない。
「……よし、それでは行くでござる」
自分の全身に不備がないか再確認したソルグロスは、寝室の扉をノック……することなく、身体を変形させた。
人型を崩壊させて、ズルズルの完全なスライムへと姿を変える。
そして、小さく隙間のある下から、にゅるにゅると侵入を果たす。
この能力は、ソルグロスが諜報や暗殺を得意とする、最たる理由である。
残念なことに、それをマスターの寝室に侵入するためだけに活用していることが多いのだが。
「(はふぅ……)」
マスターの寝室に入って最初に感じたのは、彼の匂いである。
それほど匂いフェチではないソルグロスであるが、やはりマスターのものは別格であった。
スライムの身体が、グネグネとせわしなく蠢く。
しかし、今回は匂いを堪能しに来たわけでもなければ、マスターの下着を拝借しに来たわけでもない。
もっと、凄いことをしに来たのだ。
マスターが眠っていることを確認すると、彼女は再び人型へと変形する。
そして、彼のベッドへと近づこうとすると……。
「ま、マスター。起きていたのでござるか……」
ソルグロス、と呼びかけられて、身体をビクッと跳ねさせる。
恐る恐る見ると、マスターが穏やかな笑みを浮かべて彼女を見ていた。
まるで、自分のすることなすことすべてがお見通しのようだった。
「べ、別に忍び込むつもりはなかったでござる。お休みのところを、邪魔してはいけないと考えた、拙者なりの気遣いでござる」
嘘である。
マスターが眠っている間に、多少の子種を分けてもらおうと考えていた。
現在は、『救世の軍勢』メンバー間で冷戦のような状態になっているが、そんなことはしったことではない。
たとえ、自分の行動のせいで冷戦から熱戦に変わったとて、やったもん勝ちなのである。
残念ながら、その考えはマスターによって潰されてしまったが。
「それでは、マスター。約束通り、一緒に寝てもらっていいでござろうか?」
ソルグロスの質問に、マスターからはもちろんといった言葉が返ってくる。
賢明な彼女は、すぐさま作戦を変更。
正攻法で、マスターに迫ることにしたのであった。
「早速、お邪魔するでござる……」
ソルグロスは、ニコニコと笑って迎え入れてくれるマスターのベッドの中に、もぞもぞと失敬するのであった。
「おぉふ……。これはまた……」
ソルグロスは、それほど睡眠が好きというわけではない。
睡眠をしなければならないものだとする、作業のような感覚で行っているのが常だ。
しかし、どうやらマスターの横で眠るとなると、それは違うらしい。
心から温かくなるような感覚に陥り、とても心地がいい。
これなら、気持ち良く眠ることができそうだ……。
「はっ!ダメでござる。今日は、そういう気持ちで来たわけではないのでござる」
ソルグロスは本来の目的を思い出せと、頭をブルブルと振るう。
首を傾げて不思議そうにしているマスターを見て、うむと一つ頷く。
その後、ソルグロスはふわりと身軽な様子で、マスターの身体に跨るようにして乗った。
もちろん、体重をかけすぎないように、しっかりと調整している。
目を白黒とさせているマスターを見て、ソルグロスは目を細める。
「マスター。今日は、お疲れでござろう」
ソルグロスの質問の意図がわからなかったが、とりあえずマスターは頷いた。
同じく闇ギルドである『鉄の女王』のマスター、ルーセルドとの戦いは、圧勝とはいえ確かに疲れを残していた。
「そういった時、男は疲れを癒す手段が三つあるでござる」
ソルグロスはそう言って、三本の指を立てる。
「一つは睡眠。もう一つは風呂」
一つ一つ言っていくたびに、指を一本一本折っていく。
そして、最後の指を折った。
「最後の一つは、女でござる」
マスターの頭の上に、『!?』という記号が浮かび上がった気がした。
逃げ出そうとしても、時すでに遅し。
ソルグロスはそのことを予想して、彼の上に乗りかかったのだから。
「よっ……」
ソルグロスは胸元をグイッと男らしく開けて、忍び装束をはだけさせた。
幸い、中には鎖帷子のような黒いものを着込んでいたため、そのものが見えることはなかった。
しかし、忍び装束の上から見るよりもかなり身体の線をはっきりと映し出しており、適度な大きさである乳房や引っ込んだ腹部などが、マスターの目にしっかりと映っていた。
「大きさはお好みで変えられるでござるよ」
ソルグロスはそう言って、二の腕で胸を挟み込む。
そうして、双丘を変形させてさらに強調し、マスターの情欲を誘う作戦である。
男なら垂涎ものだが、ソルグロスを娘のように思っているマスターとしては冷や汗ものである。
「ふむぅ……」
マスターの反応が思っていたよりも芳しくないことに気づいたソルグロスは、最後の手段に出る。
人前では決して外さない顔を覆った布に手を当て、しゅるりとほどいてしまったのだ。
「……何だか、胸を見せるよりも緊張するでござるな」
マスターも、久しぶりに見るソルグロスの顔に、目を丸くする。
切れ長の目はいつも見ていたが、うっすらと微笑を浮かべる口元などはほとんど見ることができなかったので新鮮だ。
肌は透き通るような薄い青で、彼女がスライム種であることを主張している。
目はドロドロと蕩けており、艶やかな唇をペロリと青い舌が舐め上げる。
さらに、目線を下にやれば、薄い鎖帷子に覆われた乳房が曲線を描き、引き締まったお腹はその大きさを際立たせていた。
これが、ソルグロスによるくノ一のハニートラップであったとしたら、いったいどれほどの男が簡単に命を失うだろうか。
しかし、マスターにその心配はない。
ソルグロスに彼を貶めようという腹積もりは毛頭なく、ただベッドの上で激しい運動をしたいだけなのだから。
「むふふ。ついに、拙者がマスターをいただくときがきたでござる!それでは、御免!」
ニヤニヤと笑ってソルグロスがマスターの胸元に手をやろうとした。
もはや、彼女を止めるものは誰一人としていない。
面倒な『救世の軍勢』メンバーも、ただ指をくわえて見ていることしかできないのだ。
「……あれ?」
マスターの身体の上で、フラフラと身体を揺らすソルグロス。
勝利を確信していたソルグロスであったが、大事なことを忘れていた。
いくら、強敵である『救世の軍勢』メンバーを出し抜けたからと言って、壁がないわけではない。
その強大な壁こそ、マスターの理性である。
「な、何故か急激に眠気が……」
急激に重くなる瞼。
ソルグロスは抗うことができずに、すかーっと眠りに落ちてしまった。
身体をはだけさせながら、豪快ないびきを立てて眠るソルグロスを見て、マスターは苦笑する。
彼女が風邪を引かないように――――そもそも引くのかという疑問は置いておいて――――毛布を身体にかけてやる。
もし、ソルグロスが何でも言うことをマスターに聞かせる権利を使って、一夜を共にするなんてことをおねだりしていたら、話は変わっていたかもしれない。




