第六十一話 たまには横から
「マスター、終わったでござる」
グレーギルドを壊滅させたソルグロスが真っ先に向かったのは、もちろんマスターの元であった。
彼女にとって帰るべき場所とは、マスターそのものである。
血だらけの床をぺちゃぺちゃと音を立てながら走り寄り、すぐ近くから彼の顔を見上げる。
「(はふぅ……。やはり、マスターの顔は癒されるし、ぽかぽかするでござるなぁ……)」
ソルグロスはほっこりと暖かくなった胸に手を当て、大事そうにギュッと握った。
彼女の種族上、胸が暖かくなるということはないはずなのだが、確かに暖かさを実感していた。
マスターの優しい笑顔を向けられたら、冷静沈着なソルグロスでもドキリと胸を高鳴らせてしまう。
いや、それだけで抑えていることが凄いのだ。
ララディなら、嬉々として抱き着いていただろう。
「あっ……」
マスターに、ご苦労様と声をかけられて頭を撫でられる。
それだけで、ソルグロスは身体がふにゃふにゃと軟体生物のように頼りなくなる。
彼女がそうなるのも仕方ないだろう。
というよりも、『救世の軍勢』メンバーなら大体こうなる。
何とか不甲斐無い姿を見せまいと気を強くするクーリンやリースくらいしか耐えることはできないだろう。
「おっとっと……。申し訳ないでござる」
崩れ落ちそうになったソルグロスの身体を、マスターが優しく抱き留めてくれる。
その際、彼女は至極平然とした声音で返事をしたが、身体が小刻みに震えていたことは内緒にしておこう。
いくらマスターが相手でソルグロスが忠犬であっても、言えないことは言えないのだ。
「うむ、大丈夫でござるよ。拙者、あの程度の者たちが相手で怪我をするほど軟ではないでござる」
マスターが心配そうに聞いてくるので、ソルグロスは構ってもらえる嬉しさで少し声が弾んでしまう。
さらに、心配までしてもらえているのだからテンションも上がりまくりである。
とりあえず、ソルグロスは自身の無事をマスターに知らせる。
そもそも、今回の戦いで敵から受けた攻撃は一つたりともない。
首を、稼働領域を超えた180度回転させたり、腕を関節や骨なんて知ったことではないとタコのように伸ばしたり、手を変形させて細くて綺麗な指を拷問官も真っ青な殺人器具にしてしまったりなどは、全部ソルグロス自身がしたことである。
「ん?どうしたでござるか?」
頭を撫でながら、マスターは謝罪してくる。
まったく覚えのない謝罪に、ソルグロスは頭を傾げるほかない。
どうやら、マスターは彼女が所属していたグレーギルドのメンバー……仲間を殺させたことを謝っているらしい。
「……え?あ、ああ……そうでござるなぁ……」
ソルグロスは顎に手を当てて考え込む姿勢を見せるが、マスターの心配は見当違いである。
マスターは彼女が悲しい気持ちを押し殺してグレーギルドの男たちと戦ったと思っているようだが、心なんて一切痛めていない。
他人に殺されていようが、自ら手を下していようがまったく興味がない。
なら、何故早く否定しないのかと問われると、ソルグロスの私情が混じっているからである。
「(これを使って、何か拙者の要望をマスターに叶えてもらえるのではないでござろうか?)」
ルシルたちのギルドに一時入団することで、すでに何でもお願い事は一つかなえてもらえることが決定しているソルグロス。
他の『救世の軍勢』のメンバーに知られたらただでは済まないことだが、ソルグロスはもっと上を求めた。
「(一つより、二つの方がいいでござるな)」
彼女は布に隠された顔に笑みを浮かべながら、うんうんと頷く。
「うっ……。リース殿……良い人だったのに……」
ソルグロスは目元をぬぐって、よよよっと崩れ落ちる。
最後まで生き残っていたのはリールという男なのだが、すっかり忘れてしまったようだ。
代わりに、同じギルドの脳筋馬鹿女の名前を出してしまうが、マスターはソルグロスを心配するあまり気づいていない様子。
ついでに、膝を付くときに血が付くのは嫌なので近くにあった死体を蹴り飛ばしていたことも、マスターにはばれていない様子。
マスターは本当に心配そうにソルグロスを気遣う。
その計画通りな展開に、布の下でニヤリと神のように微笑むソルグロス。
マスターを不当に気遣わせている今の状況を妄信的なシュヴァルトが見れば、本当に殺されかねないだろう。
ソルグロスも心が痛まないではないが、それ以上に得られる物が大きすぎた。
「ほ、本当でござるか……?」
そして、ついにマスターの口から『なんでもする』という言葉を聞き出すソルグロス。
もう顔は満面の笑みなのだが、忍び装束がその表情を消すことに役立った。
さて、その権利をどうするかという大事なことだが……。
「(どうしよう……でござる)」
ソルグロスはまったく考えていなかった。
もともと、忠犬気質のあるソルグロスは、マスターに何かを要求するということを一切想定していなかった。
ララディと違って、彼女にはマスターを自分だけのものにしようという独占欲はなかった。
彼女の欲望はただ一つ。マスターを後ろからじっと見つめることである。
それさえ許されるのであれば、ララディがマスターを拉致監禁しても問題ない。
もちろん、マスターが望んでいなければ全力で妨害するが。
ただ、ソルグロスの要望としてはマスターを背後から見守れればそれでいいのである。
どこにマスターがいようと、後ろからずっと眺めることができるのであれば、彼女としてはこれに勝る幸せはない。
だから、ララディがR作戦を敢行したとしても、どこぞの監禁場所にソルグロスを連れて行ってくれるのであれば見逃すつもりである。
まあ、ララディが二人きりを目指して拉致監禁を目指しているのに、第三者であるソルグロスが紛れ込むことを許すはずもないのだが。
「そうでござるなぁ。とりあえず、この血の海から外に出たいでござる」
ソルグロスの言葉を聞いて、それもそうだとマスターは苦笑する。
今まで、これほどの死者が出た現場で朗らかに会話している二人がおかしいのだ。
早速、ギルドから出ると……。
「おぉ……雨でござるな……」
空はどんよりと曇っており、雨粒をポタポタと降らしていた。
人通りも極端に少なく、ぽつぽつといる人も傘をさして歩いていた。
幸い、グレーギルドから出てくる場面は誰にも見られていなかったようだ。
また、ギルドの中で沈む死体が増えずに済んだ。
「うむむ……」
さて、どうしようかと悩むソルグロス。
彼女は雨が嫌いではなく、むしろ大好きである。
故に、濡れて歩くことになっても何ら問題ないし、風邪を引くことだってない。
しかし、マスターは別だ。
ソルグロスもたびたび『本当に人間なのでござろうか』と真剣に悩むときがあるが、一応マスターは人間である。
冷たい雨に打たれれば、風邪を引くことだってあり得る。
その時は、色々な意味で看護をするつもりだが、おそらくマスターに風邪を引かせたとして他のメンバーから襲撃を受けることは間違いない。
それは、少々面倒だ。
そんな時、マスターがギルドの入り口にあった傘立てから一本の傘を抜き取った。
「おお。確かに、もう彼らには必要のないものでござるから、窃盗というわけでもないでござろう」
ソルグロスの言い方に頬を引きつらせるマスターであったが、あながち間違いでもないから叱ることもしなかった。
これで、ソルグロスの懸念がなくなった。
傘は明らかに小さく、完全に一人用のものであるが、彼女自身は雨に打たれることは何ら問題ない。
むしろ、種族的には水に当たった方が気持ちいい方なのだ。
しかし、マスターが傘を傾けて入ってくるように言ってくる。
「え……大丈夫でござるよ、マスター。拙者、雨に打たれて風邪など引かないでござるゆえ……」
慌てて首を左右に振るが、マスターはニコニコ笑顔のまま頑として譲らない。
もし、このまま断り続けると傘を捨てて自分も濡れて歩くとまでマスターが言いだすころには、ソルグロスもついに折れてしまった。
「分かったでござる。是非、ご一緒させていただくでござる」
ソルグロスはそう言ってスススッとマスターの隣に入り込んだ。
そんな彼女の姿に満足そうに頷いたマスターは、ゆっくりと雨の中傘をさしながら歩き始めた。
「(うぅむ……)」
しばらく雨の街を歩いていて、ソルグロスは心の中で唸った。
彼女にとって、マスターとは後ろから見つめるものである。
しかし、今は彼の真横。
後姿ではなく、横顔をガッツリと見ていた。
後ろからマスターを覗き見る背徳的な喜びは得られていないが、横から見るマスターは胸がぽかぽかと温かくなるのだ。
それが、違和となって彼女に襲い掛かっていた。
「(まさか、横からマスターを見ることがこれほど幸せだったとは……)」
ソルグロスは予想外の感情に、小さくうろたえていた。
その動揺を表に出さないのは流石だが、顔に巻き付いている布を取ってやると案外面白い顔をしているだろう。
「(し、しかし、拙者はそれでもマスターの後ろを……!)」
ストーカーとして譲れぬ決意。
長年守り抜いてきたそれが、今かなり盛大に揺らいでいた。
決意を固めるため、キッとマスターを見上げる。
「む……」
どうかしたのかとマスターが優しく微笑みかけて見返してくるので、目を逸らすというソルグロスらしからぬ行為をする。
視線を逃がした先には、雨ですっかりと濡れたマスターの肩があった。
『救世の軍勢』のメンバーであるのなら、今すぐに自分が傘から出てマスターが雨に濡れないようにするべきだろう。
もし、自分以外のメンバーが同じ状況なら、後ろから観察しているであろうソルグロスも同じことを思うはずだ。
しかし……。
「……何でもないでござるよ」
ソルグロスは傘から抜け出すことはできなかった。
代わりに、マスターの身体に自分の身体を密着させることにした。
そうすると、今以上にマスターの肩も濡れまい。
マスターにどうかしたのかと聞かれるが、ソルグロスは笑みを濃くして抱き着く力を強くするだけだ。
程よく実った胸も押し付けるが、今はそういった欲よりも身体を密着させて温かさを共有したいだけだった。
「……たまには、横からマスターを見るのもいいでござるな」
ソルグロスはそう言って、一層身体を密着させた。
街の中を、一つの傘を使って影を一つにした二人の男女が歩いて行くのであった。




