第二百八十八話 アスモデウス
「う、嘘だっ!!」
アドリメロクはクランクハイト……いや、アスモデウスの言葉を否定する。
その顔は気の毒なほど青ざめており、脂汗がびっしりと浮かび上がっている。
彼が長い間生きてきた中で、最も狼狽している時だと言えるだろう。
しかし、アスモデウスの放った言葉は、アドリメロクにとってそれほどの衝撃と恐怖を与えたのであった。
「貴様があのアスモデウスだと!?あ、あれは『災厄』が起きたときに、その命を滅ぼされたはずだ!!」
アドリメロクが狼狽する理由、それはアスモデウスという名前の強大さである。
かつて、この大陸において悪魔が繁栄を謳歌していたころに存在していた、有名な悪魔の名前がいくつか残されている。
その中でもアスモデウスという悪魔は七つの大罪の一つを冠する悪魔であり、ネームがあるとはいえアドリメロクとは比べ物にならないほどの大悪魔であった。
しかし、アスモデウスも含めてその大悪魔たちは、一人の例外もなく『災厄』の際にその命を落としたと言い伝えられている。
「未来に言い伝えられている内容が事実とは限らないわよ?確かに、『災厄』で多くの大悪魔が命を落としたけど、私のように生きている悪魔もごくわずか存在するわ」
「な、なら……なら、どうして今姿を見せない!?」
「あら、理由なら簡単よ」
アスモデウスはそう言うと、横に立ってアドリメロクに負けじと汗を流しているマスターを見上げる。
「ここに、『災厄』を引き起こした張本人がいるんだもの。トラウマを植え付けられた悪魔たちが、この大陸から逃げ出すのも当然でしょ?」
「はっ……!?」
アスモデウスはなにを言っているのだ?
その言い方では、まるで新魔王がかつての『災厄』を引き起こし、悪魔という種族の衰退を引き起こした者となってしまうではないか。
彼は、人間ではないのか?
かつての大悪魔たちは、人間風情にやられたとでも言うのか?
「まあ、私のようにマスターの『災厄』で助けてもらった悪魔もいるんだけどね」
きゃーっと頬に手を当てて腰を揺らすアスモデウス。
クランクハイトとしての、おどおどとした彼女は陰すら残っていなかった。
「でも、私みたいな名前の知られた悪魔が残っていたら、悪魔復興に私を担ぎ上げるでしょう?私はマスターと一緒にいたかったから、マスターに名前をもらったの。『クランクハイト』という名前を、ね」
アドリメロクはクランクハイトが名前のない低級悪魔だと思い込んでいた。
魔王の配下になった時に、背伸びをして付けられたのだろうと。
しかし、事実はまったく異なり、あまりにも有名すぎるその名前を隠すために、魔王から偽名をもらっていたのだ。
「ふっ……はははははははははははははははははははっ!!!!」
かつての大悪魔の名前を聞いて酷く狼狽していた彼だが、大きく口を開けて笑った。
思わぬ反応に、アスモデウスも首を傾げる。
「なるほどな、確かにお前の言っていることは嘘ではないのかもしれん。お前は、本当にあのアスモデウスなのだろう」
「……それが分かっているのに、どうして笑うのかしら?」
まさか、アスモデウスがそれほど怖くないのだろうか。
彼女は少しショックを受ける。
まあ、しばらくアスモデウスとして活躍どころか表世界に出てくることもなかったのだから、当然なのかもしれないが……。
しかし、アドリメロクの余裕は、少し違うところから来ていた。
「ふんっ!確かに、貴様がアスモデウスだというのであれば、私にとって脅威だっただろう。そう、伝承に伝えられている通りの悪魔であったのならばな!」
「……んん?」
何を言いたいのだろう?
アスモデウスは首を傾げる。
そんな彼女を嘲笑い、アドリメロクはあからさまに彼女を見下す。
「新たな魔王は人間だというではないか。そのような矮小な存在に従うなど、大罪を体現する大悪魔であるアスモデウスも落ちたものだ。私には、そのような存在が大悪魔としてふさわしい力を持っているとは思えん」
「あー……」
つまり、アドリメロクは過去の言い伝えを疑っているのだ。
強力無比の悪魔ならば、何故人間程度に仕えるのか。
「伝承というものは、必ず嘘や誇張が含まれるものだ。アスモデウスという悪魔の伝承にも、多分に含まれているのだろう。そして、私は悪魔にとって苦しき時代を生き抜いてきた猛者だ!」
つまり、目の前にいるアスモデウスは過去より弱い。
自分はつらい時代を生き抜いてきたから、彼女より強いと言っているのだ。
アスモデウスとマスターの顔が苦笑に歪められていることにも気づいていない。
「もはや、過去に囚われることは終わりだ。私が今ここでアスモデウスを殺し、魔王を傀儡として悪魔教をヴァスイル魔王国の国教とする!」
アドリメロクには自信があった。
悪魔の黎明期を支えてきた自分と、所詮は伝承で言い伝えられているだけであり、その力は未知数であるアスモデウス。
どちらが力を持っているのか……。
少なくとも、大きな差で負けているとは到底思えなかった。
「はぁ……だから、言っているでしょう?ここはマスターの私物なんだから、あなたがどうこうしていい所じゃあないの。もう……何度言っても分からないんだから」
まるで、聞き分けの悪い子供を相手にするように、アスモデウスは一つため息を吐く。
そして、あまりにも無防備に、ゆっくりとアドリメロクに向かって歩き出す。
「ば、馬鹿がっ!私が攻撃する魔力を残していないとでも思ったか!?」
何を企んでいるのかはわからないが、今アスモデウスは間違いなく隙だらけである。
彼女が高速で接近し、白兵戦に持ち込むような戦闘タイプでないことは分かっている。
ならば、魔力弾を何発も撃ちこめば確実に仕留められるだろう。
アドリメロクは勝利を確信して魔力弾を撃とうとする。
「……どういうことだ?」
しかし、彼の手から魔力弾は放たれなかった。
「魔力を吸い取られた!?い、いや……そのようなことはないはずだ……!」
何の予兆もなしに、魔力を吸い取られたということはないだろう。
事実、彼の身体には確かに魔力が流れているのだから。
万全の状態とは言えないものの、アスモデウスを仕留めるだけの魔力弾は余裕を持って撃ち出せるはずだ。
それなのに、何故……?
「何故撃てない!?魔力もある、戦う意思もある!それなのに……何故……!?」
アドリメロクは再び魔力弾を撃とうとする。
しかし、やはり弾が撃ち出されることはなかった。
さらに、手が震えて落ちかかっており、照準を合わせることもできない。
「私はあなたの魔力を吸い取っていないわよ?」
アスモデウスはゆっくりと歩きながら解説する。
その歩みは遅いものの、確実に近づいてきている。
「あなたは撃てないのではないの。『撃たない』のよ」
「なに……!?」
「魔力があって、魔法が使えないなんてことはありえないでしょ?その通り、あなたは魔法を使えるわ。でも、使わないだけ」
「何を言っているんだ!?私は確かに魔法を使ってお前を攻撃しようと……!!」
アドリメロクはそこまで口に出し、ハッとあることに気づく。
アスモデウスは七つの大罪、色欲を司る大悪魔。
そんな悪魔が使える魔法は……。
「チャームか……!!」
「正解」
チャームとは、夢魔が得意とする広く知られた魔法の一つである。
魅了魔法であるチャームだが、一度相手にかければ骨抜きになってしまう……というほど強力なものではない。
もし、それほど強力な魔法を夢魔が使っているならば、おそらく人間や魔族から脅威に思われた夢魔は狩りつくされてしまうだろう。
夢魔たちの使うチャームは、理性をほんの少し崩して本能を刺激する程度のものである。
「他者の動きを多少制限するチャームなど……そんな強力なはずが……」
「私を誰だと思っているのかしら?一応、名前もそれなりに知られたアスモデウスよ?」
しかし、アスモデウスのチャームは違う。
知らず知らずのうちに魅了され、その動きを無意識下で支配される。
アドリメロクが確固とした意思でアスモデウスを攻撃しようとしても、身体の支配権はすでにアスモデウスにあるのだから攻撃できるはずもなかった。
「ぐっ……!?か、身体が……!?」
「攻撃も止めさせられるんだったら、身体を動かなくさせることもできるわよ」
どんどんと近づいてくるアスモデウスから離れようとするが、その足は地面に吸い付くように動かない。
これも、アスモデウスのチャームである。
「や、止めろぉっ!私はアドリメロクだぞ!?これから先の悪魔の未来のため、私が必要なのだ!!」
ついに、アドリメロクはそのような命乞いをしてしまう。
「貴様も……いや、アスモデウス様も悪魔なら分かるでしょう!?これ以上、天使共の勢力拡大を前に指をくわえて見ているだけでは、いずれ悪魔は滅んでしまいます!そのためには、人間や魔族を糧にして力を蓄える必要があるのです!!」
口調も丁寧語にし、なんとか理解してもらおうと懸命に言葉を紡ぐアドリメロク。
彼は悪魔らしい悪魔だ。
自身の欲望のために人間や魔族を犠牲にしても、なんら罪悪感が痛むことはない。
むしろ、悪魔にとっては有益な悪魔である。
自身の欲望を満たしつつも、種族の繁栄のために動いているのだから。
「うーん……」
アスモデウスも顎に手をやって考える。
自身の助命のことを考えてくれているのだろうか。
アドリメロクは細い蜘蛛の糸のような希望にすがる。
「私が大罪を冠する悪魔だから勘違いしているようだけど……私、悪魔のことなんてどうでもいいのよ」
「なっ……!?」
「悪魔が天使に滅ぼされようが、知ったことではないの。分かる?」
「あ、あなたも悪魔でしょう!?天使に好き勝手させていいというのですか!?」
アドリメロクは信じられないと目を見開く。
アスモデウスには、悪魔としての矜持も誇りもないのか?
「うん」
その通り、アスモデウスにはそんなものは微塵もない。
そもそも、『過去』のことを考えれば悪魔という種族に思い入れがないことは明白である。
まあ、それを知らないアドリメロクに理解しろというのも無理な話だが。
「悪魔がどうなろうが、天使にどうされようが、私はどうでもいいわ。ただ、あなたがマスターを傀儡にしようとした。私にとって重要なのは、それだけなのよ」
「ひっ……!」
ついに、アスモデウスがアドリメロクの目前にたどり着く。
彼女は細くて白い指で、アドリメロクの頬に触れる。
そして、柔らかい手のひらで顔を覆うようにして、彼の目をじっと見つめる。
アドリメロクはこのような状況にもかかわらず、むせ返ってしまいそうなほどの色気を出すアスモデウスを前にして胸を高鳴らせる。
しかし、そのときめきは彼女の目を見て恐怖に変わる。
その目は黒々としており、光が一切届かないほどどす黒かった。
「じゃあね。いい夢、見られるといいわね」
「あがっ!?あっ、あっ………ぁ……ぁ…………」
アドリメロクの頬がボコッとへこむ。
それを発端として、彼の身体は急速にやせ細っていく。
アスモデウスが手の触れている場所から、魔力のみならず生命力そのものを吸い取っているのだ。
肉付きのよかった身体はみるみるうちに質量を落としていき、髪もハラハラと抜けていく。
酸素を求めるように口をパクパクとさせるが、アスモデウスの手は離れない。
ついには、目玉も飛び出して地面に落ちる。
「かっ……ぁ――――――」
ベゴッという音が聞こえた。
それを最後に、アドリメロクは一切の生命活動を停止させた。
成年の男の背格好だった彼が崩れ落ちる音は、あまりにも軽いものだった。
「どうだったかしら。色欲の悪魔の吸精は」




