第二百十話 イザッコの最期
イザッコの遠吠えは空高くまで響き渡り、レオニダ山脈全域へと届くほどの大きな声だった。
黒龍の姿をしたリースも、思わず目を細めてしまうほどだ。
その遠吠えは次第に収まっていくが、イザッコの姿にとくに変化はない。
もちろん、リースにもだ。
では、いったい何のための遠吠えだったのだろうか?
その答えは、すぐに分かった。
『…………そうか。ワーウルフは、こういったこともできるのか』
リースは辺りを見渡してそう言う。
ざわざわと空気がざわめき、多数の気配が物凄い勢いで近づいてくる。
木々の間から光る眼がいくつも現れて、ゆっくりと姿を現した。
『狼か……』
ずるずると、次から次へと何体も出てくるのは、低いうなり声を上げる狼たちだった。
もちろん、ただの動物としての狼ではない。
それよりも、倍くらい身体が大きな立派な魔物である。
名を、フォレスト・ウルフといった。
世界中で見られるポピュラーな魔物でありながらも、その戦闘力の高さから討伐する際はレベルの高い冒険者があてられる。
そんな魔物が、一体や二体だけでなく、少なくとも二十体以上出てくるのであった。
「はー、はー……!!テメエでも、これだけの数なら手こずるんじゃねえか!?」
自分だけの力で魔王軍四天王にまで上り詰めたイザッコは、眷属を呼び出すことはとても屈辱的だった。
しかし、ここで殺されるわけにはいかない。
生きて戻り、戦争で人間どもを殺す愉悦に浸らなければならないのだ。
フォレスト・ウルフを多数召喚したイザッコであったが、彼らでリースを仕留められるとは到底考えていなかった。
彼らは、自分がこの場から離脱するための囮、時間稼ぎである。
ドラゴン族を魔王軍に従わせることはできなかった。
もしかしたら、四天王の座から引きずり降ろされるかもしれない。
しかし、死ぬよりはマシだ。
イザッコは片腕を失った激痛に耐えながらも、この場から離脱しようとする。
『……やっぱり馬鹿だなぁ、お前』
「なにっ!?」
そんなイザッコの考えを見透かし、リースはため息を吐く。
あまりにもこの男の考えが稚拙で、情けなくて、思わず笑ってしまいそうになったくらいだ。
流石に、マスターの見ている前で、ドラゴンの姿で大笑いするところなんて見せたくないから我慢したが。
『最強のドラゴンが、雑魚をこんなに集められたところでどうにもなるわけないだろ』
「!?」
リースの口から黒い炎がほとばしる。
その空間がねじ曲がってしまいそうなほど濃密な魔力と、人間の形態をとっていた時からは想像もできないほどありそうな火の大きさに、イザッコは本能的なところで強い恐怖を抱いた。
「お、お前ら、こいつを殺せぇぇぇぇっ!!」
イザッコの命令に従い、フォレスト・ウルフたちがリースに襲い掛かる。
彼らにとって幸いだったのは、イザッコの遠吠えに操られて恐怖などを味わうことがなかったことだろう。
「――――――」
だから、彼らはドラゴンによる圧倒的な暴力、ブレスを前にしても死の恐怖すら感じることなく消滅することができたのであった。
◆
「おぉぉっ!流石は、ドラゴン族最強の黒龍。本当、馬鹿げた力ですねぇ」
ヒルデは目の前で起きたあまりにも強大なブレスを見て、思わず称賛の声を上げる。
リースのブレスは、地形を変えた。
襲い掛かるフォレスト・ウルフ諸共、レオニダ山脈の一角を成す一つの山を消し飛ばした。
山頂付近には雪が積もるほど気温は低いのだが、黒い炎は未だにくすぶって消える気配がない。
マスターが脅しをかけていなければ、玉にかなりの力を溜めることができたのに……。
しかし、自分一人だけでマスターを出し抜くことはできないし、そのような危険を冒すべき時でもない。
「あなたがいなければ、間違いなくこの大陸最強はリースでしょうね」
マスターに話しかければ、僕はそんなに強くないと苦笑して首を横に振られる。
こいつはなにを言っているんだと、ヒルデもまた苦笑してしまう。
「ははっ。相変わらず、謙遜が過ぎる人だ」
お前が大陸最強でなければ、いったい誰がいるというのだ。
というよりも、ヒルデは大陸最強という言葉の選別すら誤っていると思っていた。
――――――世界最強。
少なくとも、ヒルデはマスターよりも強い存在を見たことがない。
しかし、『あれ』ならば。『あれ』を復活させてマスターとぶつけさせれば、いい勝負になるかもしれない。
「さて、私はこの場を去らせていただくとしましょうかね」
厭らしいことを考えてニヤリと笑ったヒルデは、そう言ってこの場を去ろうとする。
マスターは少し驚いた様子で、イザッコのことは良いのかと聞いてくる。
「…………ああ。一応、魔王軍に所属しているんですが、イザッコさんのことはどうでもいいんですよね」
そう。そもそも、ヒルデは魔王軍に所属しているといっても、他の魔族とは少し毛色が違う。
彼は、入り込んだのだ。潜入したのだ。
こうして、力を集めるために。マスターと会うために。
「それでは、マスター。また、お会いしましょう」
ヒルデはニッコリと笑い、その場を後にする。
――――――今度は、あなたを……。そう、最後に呟きながら。
マスターはそんなヒルデの背中を見送っていた。
所々に、自分のことを知っているような口ぶりをしていた。
そして、自分に対して何かしらの怒りや憎しみを抱いていることも、彼は見抜いていた。
――――――会ったこと、あったっけ?
マスターは面倒くさそうに笑い、リースを労わるために歩き出したのであった。
◆
「ひっ、ひっ……そ、そんな……こんなバカげた力が……」
イザッコは地面にへたり込み、リースの放ったブレスの強大さに愕然としていた。
今の彼に、最初の強気な態度は微塵もなくなっていた。
あまりにも開きすぎている、力の差。
山一つを消し飛ばしてしまうほどのブレスを吐くのを見て、再び黒龍を相手にしようと立ち向かえる者がこの世界にいったいどれほどいるだろうか?
少なくとも、イザッコはその少数には入っていなかったということである。
『よう』
「ひっ……!!」
ずっと顔を寄せてくる黒龍。
少し前ならその横っ面を殴りつけていたであろうイザッコは、ただ子供のように震えることしかできない。
ギラリと光る眼に捉えられ、イザッコは逃げることすらできなかった。
『お前の自慢の眷属、皆死んでしまったな。次は、お前が戦うんだよな?うん?』
「や、やめてくれ……」
『んん?』
イザッコは、まるで蚊が鳴くようなか細い声を漏らす。
それは、そこそこ優れた聴力を持つリースにも聞きとることができず、再び聞き直す。
「あ、謝るから……。もう二度と、お前らには関わらないから……」
『…………』
ガクガクと身体を震わせるイザッコ。
その様子は、完全に恐怖に支配されていた。
そんな彼を見て、リースは無言を貫く。
イザッコにとってはこの時間が何時間にも感じられる中、ついにリースが口を開いた。
『そうだなぁ。私はドラゴンであって、鬼じゃあない。そこまで情けなく、不様に懇願されたら、許してやってもいい』
リースの言葉を聞いて、イザッコは狼の顔を輝かせる。
それは、悪名高い魔王軍にはふさわしくないほど希望と安堵を浮かべていた。
「ほ、本当か!?あ、ありがとう……ありがと――――――」
『――――――でも、ダメだ』
しかし、その希望はあっけなく砕かれた。
可愛そうなほどに、イザッコの表情が凍りつく。
「…………え?な、なんで……」
『お前、マスターを食い殺すって言っただろ?』
リースは淡々とイザッコを許さない理由を話す。
そうだ。少し前、自身がこんな不様な姿をさらしているとはまったく想像もしていなかった時、集落内にいた唯一の人間であるマスターという男を喰うと宣言した。
とくに、そうしなければいけない理由なんてない。
ただ、食いたいから食う。殺したいから殺す。
今までしてきたことを、何も考えずに宣言しただけである。
それが、今彼の首を強く締め付けていた。
「あ、あれは嘘で……」
『嘘でもあんなこと言ったらダメだろ。私が……『救世の軍勢』が許すはずもない』
慌てて愛想笑いを浮かべて許しを得ようとするが、リースには届かない。
黒龍は怒っているのだ。
愚かにも、リースにとって……彼女たちにとって何よりも尊ばれるべき存在を、害すと宣言した。
それも、もはや神以上に信仰している『救世の軍勢』メンバーの前で、である。
そうなると、生きていられるはずがなかった。
「あ、あぁ……」
ようやく、自分のしでかした大きな失敗を理解するイザッコ。
しかし、やはり遅すぎた。
「お、俺を殺したら、魔王様が黙っていないぞ!?テメエらは……ドラゴン族は、魔王軍に喧嘩を売るつもりか!?」
最期に出たのは、そんな言葉だった。
それを受けて、リースは獰猛に笑う。
『ああ。アリスも、こんなことをする魔王軍に従うとは思えないしな。……それに、私はドラゴン族を代表しているわけじゃない。私は『救世の軍勢』のリースだ。逆に聞こう。魔王軍は、最強の闇ギルドを敵にしてもいいのか?』
「うっ、うぅぅぅ……っ!!」
イザッコは意味の為さない唸り声を上げることしかできなかった。
リースはようやく黙り込んだ彼を満足気に見て、大きな口を開ける。
『じゃあな。今度生まれ変わったら、マスターに尽くすようになるんだぞ?』
そうして、最強のワーウルフ、魔王軍の四天王の一人、イザッコは鋭い牙でその身体を裂かれるのであった。




