第百六十二話 あっ……
路地を歩き出してから、数分。
それだけの短い時間なのに、もう市場の賑やかな声や音はうっすらとしか聞こえてこない。
直線距離だけならそれほど離れていないのだろうけれど、この路地はどうにもグネグネとねじ曲がっていた。
そのおかげで、市場の音が聞こえづらいのだろう。
さらに、裏路地らしいというかなんというか……衛生状態がとても悪そうだった。
じめっとした空気に、太陽が真上に位置している時間でも薄暗い。
それに、何かが腐ったような臭いが鼻をつく。
……この腐ったものが、食材とかならいいんだけれどね。
また、居心地の悪いことに、僕たちはとてもジロジロと裏路地の住人達から睨みつけられていた。
地面に座り込んで生気を失っている者や、高い建物の窓から覗き込んでくる者もいる。
皆、僕たちに声をかけてこないくせに、視線は外そうとしない。
うぅ……薄気味悪い……。
「どうかされましたか、マスター?」
シュヴァルトが表情を薄く心配そうに歪めながら、僕の顔を見上げてくる。
彼女はこの視線をどうとも思っていないようだ。
僕よりも、メイド服を着ているシュヴァルトに視線が集まっているのだけれど、それをまったく意に介していないのは流石だと思う。
もし、彼女がこの視線を気味悪く感じていたら、容赦なく殺気をぶちまけて人を散らしてしまってもいいのだけれど……。
シュヴァルトも平然としているから、何も彼らに殺気をぶつけて弊害をもたらすことはないだろう。
まあ、僕の殺気程度でどうこうなることはないと思うけれどね。
「……ああ、この不躾にぶつけられる虫どもの視線ですか」
僕は気にならないのかと、思わずシュヴァルトに尋ねてしまう。
得心がいったというように頷く。
「マスターに見つめられるのであれば私も平然としていられませんが、所詮、私を見ているのはただの虫。認識すらしていませんでした」
平然とした顔で物凄いことを言ってのけるシュヴァルト。
し、しまった!こんな所で聞いた僕も僕だけれど、彼女の声が綺麗に響くことを忘れていた!
シュヴァルトの言葉が聞こえたのであろう浮浪者や犯罪者たちが、怒気を孕ませたピリピリとした雰囲気を醸し出し始める。
僕たちに向けられていた視線が、不審や好色――――これはもっぱらシュヴァルトに向けられていたけれど――――のものから剣呑さを含んだものへと変わる。
彼女なら、鍛えられてもいない数だけのアウトローがいくら相手でもまったく問題ないだろうけれど、僕は別だ。
以前、ソルグロスと行動している時に、グレーギルドで彼女の足手まといになってしまったこともある。
「もしかして、マスターはこの視線が不快だったのですか?」
しかし、こんな状況でもシュヴァルトのマイペースは崩れない。
怒りを向けてくる者たちを一切視界にいれずに、僕だけを見つめてくる。
ま、まあね。こんな中で平然とできるのは、おそらく君や『救世の軍勢』メンバーだけだと思うよ……。
僕がそう言うと、なるほどと目を瞑って頷くシュヴァルト。
次に開かれた彼女の目には、目を向けてくる浮浪者たちの何倍もの冷たさと怒りが宿っていた。
「たかが虫風情が、マスターを煩わせるなんて不敬にもほどがあります。ご許可をいただければ、この区画の虫どもを皆殺しにしてみせます。もちろん、マスターをそう長くお待たせすることはありません」
あ、いや、大丈夫です。
僕は慌てて彼女に言った。
僕が頷いてしまったら、本当にこの区画にいる人たちを皆殺しにしてしまいそうだったからである。
それだけの説得力が、彼女の無表情にはあった。
せっかく、ニーナ女王が頑張っているのだから、こんな所で無差別大量殺人事件を起こさせるわけにはいかない。
まあ、闇ギルドといえば闇ギルドらしい悪行だけれども、むやみに人殺しなんてメンバーたちにはさせたくないしね。
「……マスターが仰るのであれば」
シュヴァルトはそう言って、納得していない雰囲気を存分に醸し出しながらも退いてくれた。
僕はほっと安堵の吐息を漏らす。
これが、ララディやヴァンピールなら、留まるところを知らないで大乱闘に発展していただろう。
もちろん、彼女たちが何も鍛えていない浮浪者たちに負けるはずもないので、結果は死屍累々の現場が作られるというわけである。
こうして、何とかシュヴァルトを宥めたところで……。
「おーいおいおい!好き勝手言ってくれるじゃねえの!?」
そんな耳障りな声が聞こえてきた。
視線を向けると、いかにもな風貌の強面な男たちが近づいてきていた。
みずぼらしい衣服に、ニヤニヤと汚らしい顔をゆがめている。
その視線の先には、可愛らしいシュヴァルトが。
うわっ。面倒な相手に呟きを聞かれたなぁ……。
「なあ、姉ちゃん。さっきから聞いていたら、虫だとかなんだとか、色々酷いことを言ってくれるじゃねえか」
「うわー。俺、すっごい傷ついたわー」
「あははははははっ!!全然傷ついてねえだろ、お前!」
三人の男が、それぞれ好き勝手言い始める。
絵にかいたような難癖のつけ方である。
……まあ、シュヴァルトが少々言い過ぎたということは否めないけれど。
確かに、こんなに多くの人がいる前で虫はダメだよね。
「姉ちゃん。こいつ、こんなに傷ついちまったってよ。慰謝料とか払ってくれよ」
ドストレートに目的を言ってきた。
まあ、そうだよね。シュヴァルトはメイド服を着ており、良い所で働けている才女と見られてもおかしくない。
……そんな才女が、こんな路地裏にいることに疑問は持たないのだろうか?
「…………」
「おいおい!さっきからずーっと無視かよ!金を持ってねえのかぁ?」
男たちが現れて以降、口を開かないどころか目も合わせないシュヴァルト。
認識すらしたくないのだろうか。
「別に、金がねえんだったら、お前の身体でもいいんだぜ?ずっと楽しめそうだ」
「あはははっ!そりゃあ、いいなぁ!」
ゲラゲラと下品に笑い合う男たち。
……ちょっと、言い過ぎではないだろうか。
確かに、シュヴァルトも言い過ぎた面はあるけれども、これは流石に……。
気持ち的に僕は彼女の父親みたいなものだから、正直娘がこんな風に言われては良い気はしない。
「はぁ?女より今は金だろ?おい、そこの優男。テメエ、そいつの主かなんかだろ?金持ってんだったら、さっさと出せよ」
一人の男は馬鹿笑いに付き合わず、僕を見てそう言ってきた。
や、優男……。まあ、確かにテルドルフのような男らしい男と比べたら弱そうだろうけれど……。
僕がちょっとだけ落ち込んだ時だった。
「――――――優男?」
シュヴァルトの綺麗な声が響いた。
男たちが来てから、初めての発言である。
ただ、どうしてだろう。底冷えするような冷たさを、言葉から感じたのは……。
「マスターが優男?本気で言っているんですか?」
無表情で男たちを見やるシュヴァルト。
その姿に言い表せない圧を感じたのか、汚らしく笑っていた男たちも笑みを潜め、ごくりと喉を鳴らす。
「そ、そうだよ。間違っているのかよ?どう見ても、喧嘩のけの字も知らねえような貴族の坊ちゃんじゃねえか」
グサグサと心臓に言葉の刃が突き刺さっていく。
うぅ……確かに、喧嘩なんてろくに心得はないんだけれど……。
直接言われると、やっぱりショックだなぁ……。
「はぁ……」
シュヴァルトは大きな大きなため息を吐いた。
「マスターの素晴らしさを何も理解していませんね。見ただけで分かりませんか?私が今すぐこの汚らしい場所でも跪きたくなるほどのご威光を発しているではありませんか」
「は……?」
シュヴァルトが目を細めて僕を見やって言うことに、男は何を言っているのかわからないといった様子で、ポカンと口を開いている。
ああ、僕も同じ気持ちだよ。
え、威光?そんなものを発した覚えは毛頭ないんだけれど……。
「お、お前、いったい何を言って……」
男の声が震えている。
シュヴァルトの声音が、どうにも冗談を言っているようにも聞こえなかったからだろう。
「はぁぁぁぁ……」
再び、シュヴァルトは大きなため息を吐いた。
「所詮、虫ですか。マスターの素晴らしさを理解できないあなたたちのことを、私は心の底から同情します。そして、軽蔑します。偉大な人物というのは、虫風情でも分かるものだと思っていましたが」
あ、煽りすぎぃっ!!
しかも、相手を逆上させて冷静さを失わせようと考えて言っているならともかく、シュヴァルトの顔は無表情で酷く真面目である。
それが、僕をゾッとさせた。
「こ、この……っ!!言いたい放題言いやがってぇぇっ!!」
すると、男たちの中の一人がシュヴァルトの暴言に耐えられなくなったのか、拳を振り上げて彼女に迫る。
あれほど言われていたら、爆発することも簡単に予想できたのだけれど。
しかし、僕の見ていた通り、男は鍛えた様子もなくただ怒りに任せて殴り掛かっただけのようだ。
よかった。これなら、僕でも簡単に無力化できそうだ。
これが、冒険者ギルドの人間や騎士ならば、どうなっていたことかわからないけれど。
そんなことをのんきに考えながらシュヴァルトの前に出ようとすると、彼女は僕よりも早く動いていた。
長いメイド服のスカートに手を入れたと思えば、次に出したときには手には無骨な剣が握られていた。
一瞬、ふわりとスカートがめくれて褐色で肉付きの良い太ももとガーターベルトが見えたことに、男は目が奪われてしまう。
その一瞬が、命取りとなる隙であった。
「がぺ……っ!!」
シュヴァルトがくるりと回転しながら剣を振るう。
スカートがまるで満開の花のようにひらめいたと思えば、彼女が手に持っていた剣も閃く。
ゴキリと鈍い音がすると、シュヴァルトに迫っていた男が頭から地面に突っ伏した。
…………あ。
「お、おおお前っ!?いきなり何を……っ!?」
「いきなりも何も……先に仕掛けてきたのは、そちらでしょう。正当防衛です」
「ふ、ふざけんな!!こいつの首が……首がっ!!」
男が震えながら指をさす。
僕も目を向けると……うわぁ……。
思わず、常時発動型の笑顔を解除して、苦々しい表情を浮かべそうになる。
というのも、シュヴァルトに攻撃された男は、首が歪んでいたのである。
明らかに、正常な人の首の形ではない。
シュヴァルトは、刃の腹ではなく背の部分で攻撃したのだろう。
そのおかげで首ちょんぱは免れたようだけれど、鈍器で首を思い切り殴りつけられた男は、もう二度と立てそうにない。
「ふぅ……。首がどうだというのですか。生きているのだから、私が恩情をかけてやったことをマスターに礼を言うべきでしょう。マスターを侮辱しておいて、生かしてやっているんですから」
そう言って、シュヴァルトは嫌そうに顔を歪めながら靴でげしっと倒れ伏す男を蹴る。
すると、男が声も出さずにピクピクと動く。
あっ……。
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
「人殺しぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
残っていた男たちが、悲鳴を上げて逃げ惑う。
倒れ伏す男を放っておいて薄情だと思うかもしれないけれど……まあ、もうあれだからいいのだろう。
ふと、辺りを見ると、僕たちを睨みつけていた他の浮浪者たちの姿はすっかりなくなっていた。
窓から覗き込んでいた人を見上げると、慌てて窓を閉めていた。
「……失礼な人たちですね。私が人殺しだなんて……。私はマスターにすり寄ってきた害虫を処分しただけですのに」
やれやれと首を振るシュヴァルト。
その近くで、首がおかしな方向に曲がっている男が、ついに身体をピクリとも動かさなくなった。
あっ……。




