第十六話 礼拝室にて【2】
「ところで、マスター。今日は私の大切な祈りの時間の邪魔になるくらいギルド内が騒々しいですけど、何かあったんですかぁ?くだらないことで騒いでいたんだったら、ちょっとあの子たちを怒らないといけませんねぇ」
アナトのいつも閉じられて穏やかな目が、スッと開かれる。
あ、これはアナトが怒っていたり、真剣な時に見せたりする目だ。
うちのギルドのメンバーは皆怒ると怖いんだけれど、いつもニコニコしているアナトが怒ると、ギャップがあって一際怖く感じられるね。
まあ、その怒りが僕に向いていないからセーフとしよう。
……僕に向いていないよね?
改めて自問してみよう。
…………。
……あれ?この騒ぎの原因って、僕のナデナデ……?
……これは怒られそうだなぁ。
娘みたいに思っている子から怒られるギルドマスターっていったい……。
僕はとにかく怒りを鎮めてもらおうと愛想笑いを浮かべながら、おそらくの原因を伝える。
アナトの御説教を覚悟していた僕だったが……。
「あら、それなら仕方ないですねぇ」
……え?
まさか、予想していなかったアナトの言葉に、僕は目を丸くする。
仕方ないで許してくれるの?
昔、ギルドメンバーではないがそれなりに関係のある『あの子』が祈りの邪魔をしてしまった時は、ララディが怯えて僕に抱き着いてくるくらい、凄く怒っていたのに……。
「私も当事者なら、騒いでいたと思いますからぁ。それに、あのクソ女のことは言わないでください。マスターの口が汚れてしまいますぅ」
名前を呼んだだけで!?
アナトの優しい細い目が、恐ろしくどんよりとしているのが分かった。
『あの子』……リミルってアナトに嫌われちゃっているんだなぁ。
あの聖人のように優しいアナトがここまで怒るなんて……。
まあ、リミルも悪戯好きだからね。多少、自業自得の面がある。
「それよりぃ、マスター。私もナデナデを所望しますわぁ」
アナトは話題を変え、僕をじっと物欲しそうに見つめた。
普段、リースと一緒にギルドメンバーのまとめ役のような存在であるアナトが甘えてくるのは、とても珍しい。
僕は思わずにっこりと笑ってしまった。
大人びているけど、アナトもまだまだ子供だなぁ。
「むぅ……。その子供を見る目はやめてほしいですねぇ。……次の段階に進めませんしぃ」
ぷくっと頬を膨らませるアナト。
いやいや、僕にとってギルドメンバーは娘同然なんだから、そんな目で見てしまっても仕方ないだろう。
僕は随分長い間生きているし、綺麗なアナトを見ても微笑ましさしか感じないんだよね。
ところで、次の段階ってなに?
「いえいえ、マスターはまだ知らなくても大丈夫ですよぉ。うーん……強制的にでも、私のことを意識してもらわないとダメねぇ」
アナトはそう言って、ニヤリと笑った。
……嫌な予感しかしない。
「マスター。私にもナデナデしてくださいねぇ。もちろん、紋章のあるところを……」
き、来たかっ!
アナトは熱にうなされているように、蕩けた目で僕を見上げてくる。
それを受け止める僕は相変わらず笑顔を浮かべているが、冷や汗ダラダラである。
アナトの紋章を入れている場所は、お尻であるリッターや舌であるリース並にマズイ所である。
その場所とは……。
「はい、マスター。ナデナデしてくださいねぇ」
アナトが突き出してきたのは、豊満な胸。
そう、彼女が紋章を入れている場所は、胸なのだ。
……ナデナデできるわけないだろう!?
娘同然の子の胸を撫でる男とか、絶対にダメだよ!
「同意の上だから大丈夫ですよぉ」
大丈夫じゃないよぉっ!!
そりゃあ、僕が暴走してアナトを悲しませるなんてことは億が一にもありえないが、そんな大切なアナトの胸を撫でることなんてできない!
僕は何とか彼女を説得して、頭を撫でるだけで許してもらおうとするのだが……。
「やっぱり、直接の方がいいですよねぇ」
ダメだけど!?
どんどんと暴走していくアナト。
君、一応聖職者……シスターの恰好をしているよね?いいの?胸を積極的に触らせようとしても。
「いいんですよぉ。マスター教の教義には、シスターの胸をナデナデすることの禁止が書かれていませんからぁ」
ま、マスター教?その不穏な宗教名はなにかな、アナト。
確か、二大宗教はそんな名前ではなかった気がするんだけど。
あ、いいよ、教えてくれようとしなくても。
凄く、嫌な予感しかしないから。
「そうですかぁ。それはさておきぃ、私の胸をナデナデしてくださいねぇ」
そう言って、アナトはシスター服を豪快に脱ぎ捨てようとする。
いや、待って!僕は胸を撫でるとは一言も言っていないよ!?
あぁっ!もう、肉付きの良い太ももまで見えちゃっているよ!
誰かぁっ!今のこの状況をどうにかしてぇっ!!
僕のそんな心の叫びが届いたのか、一人の女の子が二人だけの礼拝室に現れた。
「アナト殿、そこまででござる」
シュバッといつの間にかその場に現れていたのは、忍び装束を身に纏ったソルグロスであった。
彼女は鋭くアナトを睨みつけていた。
その目で睨みつけられた者は、誰しも怖気づいてしまいそうなほど迫力があった。
しかし、そんな目で睨みつけられてもアナトは決して怖気づいたりしなかった。
むしろ、彼女も何やら怒気を出してソルグロスを睨みつけている。
「あら、ソルグロスぅ。今、良いところなのだから、邪魔しないでほしいわぁ」
「それはできない相談でござる。拙者の前に胸をナデナデしてもらうとか、羨まけしからんでござる」
言っていることはとんでもなく馬鹿らしいのだが、二人はとても真剣なようだ。
ただのにらみ合いなのに、空間が悲鳴を上げている気がする。
うぅ……ここで喧嘩はおっぱじめないでね……?
ソルグロスはパッとアナトから視線を外し、表情では笑顔、心の中では不安でいっぱいな僕の方を見る。
「マスター、そろそろ朝餉の時間でござる。皆、食堂に集まっているでござる」
ソルグロスに言われて時間を確かめると、いつもギルドにいる面々が食事をとる時間になっていた。
はぁ……時間が進むのって速いね。
久しぶりにギルドメンバー全員と話せて、楽しかったせいかな?
とにかく、皆を待たせるわけにはいかない。
僕は伝えてくれてありがとうとソルグロスの頭をポンポンと撫で、食堂に向かって歩き出すのであった。
◆
「うへへ……ナデナデされたでござる」
「…………」
「おぉ、怒っているでござるな、アナト殿。拙者がマスターにナデナデされたのが、そんなに嫌でござったか」
「別にぃ。所詮、マスターにそこまでしかされないあなたに怒ったりなんてしないわぁ」
「……そこまで?どういうことでござるか?」
「そのままの意味よぉ。マスターはいつの日か絶対に私のものになるんだからぁ」
「その時は、アナト殿を殺してマスターをいただくでござる」
「できるかしらぁ?」
「…………」
「…………」




