第百十六話 熱の功名
リッターはテルドルフとの戦いの後、熱を出して寝込んでいた。
長い間、忌避してきた悪魔の力を使ったことで、身体がついてこられないのだろう。
寿命が延びるという恩恵はあるものの、やはり悪魔のことは好きになれないと思うリッターであった。
ずっとベッドの上で寝ながら過ごすというのも、案外退屈なものである。
しかし、今回に限っては、その退屈さも一切感じなかった。
「あーん……」
リッターが口を小さく開けて待つと、口の中に一口大にカットされた果物が飛び込んでくる。
瑞々しいそれを噛みながら、幸福感によってむふーっと鼻息を荒くする。
リッターの座るベッドのすぐそばには、いつもマスターがついていてくれていた。
このように、食事のときは手ずから食べさせてくれるので、彼女の機嫌はすこぶる良い。
今なら、普段から自分がマスターに引っ付こうとするとやたらと邪魔をしてくる不快な『救世の軍勢』メンバーにも優しくできるかもしれない。
「あーん……」
再び口を開けて待つと、マスターが苦笑しながら果物を放り込んでくれた。
シュヴァルトなどはマスターのお世話をするのが幸せだと、料理を教えてくれる時に力説していたが、リッターはお世話をしてもらう方が好きだ。
「うん、美味しかった」
どうだったと聞かれたので、素直にそう返す。
果物自体も確かに甘くて瑞々しかったが、マスターに食べさせてもらうということが大きな美味しさの要因となっていた気がする。
マスターが食べさせてくれるのであれば、ヴァンピールの作る料理でも美味しくいただけそうだ。
「ふー……」
リッターはぼーっと虚空を眺めながら、先日のことを思い出す。
テルドルフとの決闘で、彼女は悪魔の力を解放させた。
意外とテルドルフと魔剣・フルブレッドが強力だったために、悪魔の力を使ったのは仕方のないことだった。
とはいえ、忌むべき悪魔の力を使ってしまったことは、肉体的にも精神的にも少なからずリッターを弱らせていた。
そもそも、悪魔の力は彼女が自ら欲して憑かせたわけではない。
マスターと出会う前、『あの帝国』にいたときに無理やり憑かされたものである。
「(まあ、今は何とも思っていないけど……)」
リッターはそのことに関して特に何も思うところはない。
マスターに助けてもらったし、そもそも帝国自体が残っていないからだ。
それに、悪魔の力を使うことによって、他のメンバーに引っ張りだこなマスターを独り占めにすることができるのだ。
これに、恨む道理などあるはずがなかった。
他に、何かしてほしいことはないかとマスターに聞かれる。
その瞬間、リッターは懸命に脳を稼働させた。
おそらく、ここでないと答えれば、マスターは彼女を寝かせた後に立ち去ってしまうだろう。
せっかくの好機である。ここで、最大限使わなければならない。
「……身体、拭いて?」
そして、リッターが絞り出した結論がこれだった。
マスターの微笑みがびしりと固まった……気がした。
悪魔の力の使用による副作用で高熱が出ているのは事実で、熱を逃がそうと大量に発汗しているのもまた事実である。
「身体、冷える……」
ぶるっと寒そうに身体を抱きしめるリッター。
無表情なのでそれほど寒そうに見えない。
しかし、確かに汗をかけば身体は冷えてしまう。
大量にかきすぎた汗は、ふき取った方が良いだろう。
マスターは、自分で拭くことはできないのかと尋ねてくる。
「できない」
リッターは即答であった。
人外じみた力を持つ者ばかり集まる『救世の軍勢』に所属しており、リースのように戦闘職である彼女が、熱程度で自らの身体も拭くことができないようになるとは到底思えない。
しかし、リッターはあの強大な悪魔の力を使ったのである。マスターが思う以上に、疲労しているのかもしれない。
マスターはタオルを持ってくると言って、部屋を出て行く。
「…………ふっ」
ニヤリと口元だけ笑わせるリッターに気づくことはなく。
◆
リッターは、マスターが戻ってくるまでに準備を整えていることにした。
面倒ではあるが、うんしょうんしょと衣服を脱ぎ捨てる。
「あ、マスター」
――――――!?
ちょうど、上半身に身に纏うものを全て脱ぎ払ったときに、濡れタオルを持ったマスターが戻ってくる。
声にならない悲鳴が、あの笑顔から響いてくるような気がした。
随分、準備が早いねとマスターに言われる。
それはそうである。自分の身体をマスターに拭いてもらえるなんていう最高のイベントを、期待せずに待っているはずもない。
「こっち、こっち」
早く来て身体に触れてと、くいくいと手招きする。
マスターはついに苦笑しながらも、近づいてきてくれた。
「…………ん」
まずは、背中からだと言われて少々不満ながらも大人しく従うリッター。
最強の騎士、テルドルフを倒した人物とは思えないほど、華奢な背中だった。
高熱のために汗が流れ、うなじから垂れ落ちてくるそれは酷く扇情的だった。
「……ふあ」
タオルで背中を撫でられて、そんな緩い声が漏れてしまう。
適度に暖められたタオルは、心地よく汗をぬぐい取ってくれる。
マスターの力加減も絶妙で、思わず眠たくなってしまうほどの癒しが与えられた。
少し厭らしい声を漏らしてマスターを誘惑しようと考えていたのだが、そんな考えなど一瞬で吹き飛んでしまうほどだった。
「んん……?」
終わったよと言われて、リッターは天上からようやく戻ってくる。
ぼーっとしていると、前は自分でできるよねとマスターに聞かれる。
「できない」
即答であった。
前もしてもらわなければ、意味がない。
というよりも、女としてアピールできる部分のある前をマスターに触ってもらわなければ、こんなことを言いだした意味がない。
リッターは一切羞恥を感じることなく、マスターに身体をさらけ出した。
そもそも、マスターに見られて恥ずかしいような身体にしていないのだから、恥ずかしがらなくて当然である。
「……拭いて?」
リッターはそう言ってマスターを催促する。
自分で言うのもなんだが、それなりに見られる身体をしているとは思う。
チラリと視線を落とせば、その割と自身のある身体が目に入る。
ふっくらと、形よく適度に膨らんだ乳房。
クーリンやアナト、ヴァンピールなどと比べられると慎ましいが、ララディやクランクハイトと比べると十分な大きさである。
だからこそ、リッターは彼女たちの貧乳同盟に加盟していないのだ。
引き締まったお腹から、張りのある臀部と長い脚に視線が下りていく。
改めて自分の身体を見下ろし、魅力的かどうかはさておいて見苦しくないことは確認した。
あとは、マスターにこの身体が通用するかどうかである。
「…………」
リッターが観察したところ、マスターは穏やかに微笑んでいる。
しかし、付き合いの長い彼女は知っていた。これは、照れている笑顔であると。
幸いなことに、マスターはちゃんと自分のことを女として見てくれていたらしい。
どうにも、遥か高みから見守る神のようだとアナトが激しく主張するものだから、性欲もなければどうしようかと心配していたが、それは余計なお世話だったようだ。
名目上、これは高熱を出して動きづらいリッターに代わってマスターが身体の汗をぬぐうというものである。
ゆえに、何かと理由をつけて『救世の軍勢』メンバーの誘惑から逃げるマスターも、今回に限っては逃げることができないのだ。
「はぁ……はぁ……」
ゆっくりと、マスターの持つタオルがリッターの身体……汗に濡れた魅惑的な肢体に近づいてくる。
リッターは高熱によるものか、はたまた酷い興奮からくるものなのか、どんどんと吐息が荒くなっていく。
身体全体が火照ってしまい、赤く染まる。
もう少しで、マスターの手が自分の身体に触れる。
それも、軽いスキンシップではない。
ガッツリと、乳房や腋などをまさぐられるのである。リッター視点では。
「(……意識、持つかな)」
両者ともに衣服を着ている状態で抱き着いただけでも、計り知れないほどの多幸感に浸れるのである。
タオル越しとはいえ、自分の身体をマスターの手が撫でていくと思えば、それだけでマズイことになってしまいそうだ。
「(あ、もう……)」
マスターの手が、リッターの身体に触れるまで後少しというところまで来た。
リッターは目をドロドロに熱く蕩けさせて、マスターをじっと見つめる。
そして、ついにマスターの手が触れるというところで……。
「リッター、調子はどうだ?何か、私にできることがあれば言って……く、れ……」
ガチャリと扉が開いて、この屋敷の主であるニーナが入ってくる。
屋敷の所有者なのだからいちいちノックする必要はないのかもしれないが、今のマスターにとっては横っ面を殴りつけられたような衝撃を受けた。
ニーナも、目の前の光景に愕然とする。
騎士団の中でも高嶺の花とされているリッターが、乳房も含めたその上半身を惜しげなく男にさらしだし、そんな彼女の肌にマスターは正面から手を近づけさせていたのである。
ピシリと固まる現場。
「……その、なんだ。邪魔をして悪かったな。まさか、剣の師弟関係だけでなく、そういった関係まで結んでいたとは。……明日、メイドにベッドを掃除させるから」
ニーナはそう言って、早々に立ち去ってしまった。
髪の間から覗けた耳が真っ赤になっていたのは、マスターが微笑ましくなってしまうところである。普段であれば。
「あ……」
マスターが慌ててニーナを追いかけていく。
部屋を出る前に、リッターの身体に自分の着ていた服をしっかりと巻き付かせておくことも忘れない。
リッターはマスターの背中に手を伸ばすが、誤解を解いてくるからねと使命感を負った強い表情をしていたので、彼女も止めることができなかった。
「むー……」
あと少しで、マスターの手が自分の身体に触れたのに……。
納得のいかないリッターは、小さく頬を膨らませる。
ニーナは悪気がなかったようだし、いい具合に勘違いしてくれたから許すが、これが『救世の軍勢』のメンバーだったら、問答無用で斬りかかっていたところである。
しかし、何も得られなかったというわけではない。
優しいマスターは、自分に衣服を渡してくれた。
「すぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……っ」
マスターの置いていった衣服に顔を埋め、過呼吸一歩手前まで深く深く息を吸い込む。
「はぁぁ……」
そして、再び上げたリッターの顔は、普段の無表情とはかけ離れた淫靡な笑みを浮かべていた。
リッターは、熱を出して幸せだった。




